ミステリアムの弟子達 (マーティン・ハイディガーと存在の思索)

Disciples of the Mysterium
(Martin Heidegger and the Question of Being)
ミステリアムの弟子達
(マーティン・ハイディガーと存在の思索)
by Michael Tsarion
マイケル・タツァーリオン

序章:

「千のホロコーストが千通りに起こり、そしてまた起こるだろう。炎と水とその他を介して。」
(古代エジプトの司祭達がソロンに言った言葉)


太古の賢者達は、人類が、生命の源と意味から、切り離されてしまっていたと考えていた。太古の民族、または原住民的な文化において、黄金の先史時代、賢明なマギ達、龍を倒した英雄達、そしてモラル(道徳)の低下と、科学力の悪用によって最終的に忘却へと落ち去った、先進文明を語らないものは一つも無い。長老達や、シャーマン達は、それについてどうこう言わない。彼等の推測によると、人は大いなる高みから落ち、道徳的、そしてスピリット(霊)的に、道を失ったとされる。世界の神話や伝説は、何故に人は(繋がりを)断ち切られ、そして正気では無くなってしまったのかまでもを、私達に伝えている。それらは、地球を荒廃させ、人間の意識をその根本から揺るがした、天体に関連した地上での酷い大異変を語り、情報を保存している。

残念ながら、不明瞭な神話や伝説は、殆どの主流の学者達に興味を抱かせない。それら(神話・伝説)の変わった描写は、大多数の名声ある西洋の哲学者達を、彼等が合理主義(純理論)派であろうと経験主義派であろうと、夢中にさせない。見た処、学識の深い学者達には、先史時代の混沌と混乱より、ましなものが彼等の頭の中に有る様だ。彼等は、人々が暗くなった空から、炎と氷が降るのを目撃しただけでは無く、何百万もの地上の生物が普遍的な絶滅を目撃した一時代の後に、どう人間の意識が影響され、変化させられたのかを考える傾向に無い。

私達は、先史時代の大異変と、それらの(人の)意識への影響を、無視・軽視するインテリジェンシアを責める事は出来ない。何と言っても、つい最近まで、大多数の人々が、(神の)創造の全体が、たった4,000年かそこらの古さと、断固として信じていたのだから。殆どの「文明開花」された学術的な哲学者達は、熱心なキリスト教徒か、理神論者(自然神教信奉者)だ。この惑星の古さは、彼等にとって主要な知的な関心では無く、神のまばゆい天使が(聖母)マリアに現れる以前に、殆どの現代人の意見によれば、生死ギリギリの存在であった、惨めな野蛮人達と半野蛮人達のライフスタイルも、知的な関心では無かった。

しかしながら、私達の判断では、学術的な哲学者達も、太古のサーガに注意を払う事で、とてつもない利益を得る事が出来ただろう。それら(神話・伝説・サーガ)が、人間の意識のミステリー(神秘)に、心を奪われている事を考慮すれば。エジプトの祭司達の酷く怖がる証言を聞いた後に、アテネと西洋に、恐ろしい大異変によって破壊されたとされる大陸、失われたアトランティスの伝説をもたらしたのはプラトン自身の父であるソロンであった事を考慮すれば。(訳者注:プラトンの叔父だったような気がするが。)

「・・・不吉な地震と洪水が其処に起こり、耐えがたく悲惨な日と夜が彼等に降り、戦士達の全身が地に飲み込まれた時、アトランティスの島は同様に海に飲み込まれ消滅した。それ故、大海のその場は、その島が沈む時に造られた、砂州の泥でブロックされ、今は通る(航海する)事が出来ず、そして捜索出来ない。」
プラトン(Timaeus)


それはそう成らなかった。プラトンの彼の父と、エジプトの精通者達との、会話の興味深い記述にも関わらず、西洋の聖職者達と知識のパトロン達は、先史時代の破壊と荒廃の物事に、ほんの少しの注意しか払わなかった。それは彼等にとって子供の頃に聞かされた、幻想的なベッドタイム・ストーリーに似通った程の重要性しか無かった。プラトンの時代以後より、部族的な口伝者達やメディシン・メンのメッセージは、大多数の西洋の学者達と素人達に馬鹿にされ否定されてきた。「バイカメラル頭脳の崩壊に中の意識の起源」の著者で、心理学者のジュリアン・ジェインズの様な、極少数の科学の天才達が、「原始的」な口伝者達の宣言を、確証する証拠を提出したが、主流の学者達は彼等の革命的な発見には軽蔑的である事が解った。

「声が大きいのは、古代より19世紀の方が、文明として卓越しているという主張で、更にやかましいのは、教会とそれらのおべっか者達の、キリスト教が世界を、野蛮さと偶像崇拝から救ったと云う主張です。どちらもどれだけ根拠が無いのでしょう・・・キリスト教の光は、その始まりからどれだけ多くの偽善悪習が、その教義に生まれたか、どれだけ古代人達が全ての誇りの点において、私達より遥かに優れていたかだけを照らします。」
ヘレナ・ペトロフナ・ブラヴァツキー婦人


現代人は、古代人と正反対の見方をする。殆どの分野で、今日の学者達と素人達は、過去において、人は原始的で非理論的だったと信じている。彼等は、時が進むにつれ現代人は、彼自身と世界について、より多くの理解に向かって動いていると信じているし、そう信じる事をよく教え込まれている。時間をくれと、彼等は言う。待て、そして見ていろ。明日になれば、明るく、清潔で、安全で、そして壊す事の出来ない完璧な世界が誕生すると。

現代人は、総ての人間のジレンマと苦境は解決され、存在の大いなる思索は、答えられる未来を想像して自身を満足させる。殆どの現代人は、基本的に楽園主義で、いつの日か人は完璧な文明を受け継ぐ事が出来ると納得している。彼等は、映画ネットワークの中のアーサー・ジェンセンという役が表現したヴィジョンを信じている:

「この世界はビジネスですよ、ビールさん。人がスライムからはい出た時からそうです。そして私達の子供達は、ビールさん、戦争も、飢餓も、圧政も、暴力もない完璧な世界に生きるでしょう。一つの巨大な世界統一的な持株会社のために誰しもが共同の利益のために働き、誰しもが株の分け前を持ち、総ての必需品が供給され、総ての心配は落ち付かせられ、総ての退屈は楽しませられる。」

大したヴィジョンだ。しかし、この映画が指摘する様に、この輝く未来の楽園の確立への代償は多分、そして恐らくは個性(個人的な人格)の終焉だろう。

「世界政府を達成するためには、人々の思考から、彼等の個人主義、家族の伝統と忠誠心、国家愛国主義、そして宗教的な教義を無くす事が必要である。」
G.ブロック・キショルム博士
(精神病医で世界頭脳健康連盟の創設者の一人)


兎に角、古代の長老達と現代世界の人々の間に存在する、人の過去の思索についての顕著な意見の違いに、私達は唯々驚かされる。この二つの共通点の無い世界観を和解させるのは、確かに簡単では無い。全ての人間は、過去という問題に関する彼等のアイデアや偏見によって、分けられ、分類される様だ。

「人はその起源において完璧であり、私達(現代人)へと退化した神々しい存在だった。」
R.A.シュワラー・デ・ルビッツ(エジプトの奇跡)


Fallen, Lost and Imperfect
脱落し、迷い、不完全になった


「太古(原始)の人は正真正銘のモデルで、人の代表型で、そしてその後の人間の全ての発展は、幾つかの物事においては進歩したが、彼等の最初の父達を、太古の人々は讃え、光と知識と偉大さの、神々として信仰さえもした世界の、後に来た世界の全ては、主に止めどない退化であった・・・」
ジョセフA.セイス(星々の福音書)


しかしながら、私達が、長老達の不思議な(変わった)考え方を聞いた後、私達の頭の中に第二の疑問がよぎる。もし彼等が正しいのなら、もし人々が彼等の道を失ったのなら、それは、元々は、本物(の道)に根付いていて、繋がっていた事を意味する。それは、人は一度、総ての知識の聖水盤に、真実の祭壇についた事を意味する。これは実に太古の神話や伝説が報告している事だ。それらは繰り返し人々が、精神的、知能的、そしてモラル(道徳)的な完璧化の状態から脱落した事を強調している。

「それから彼女は一つの預言を加え、迫り来る神々の時代の終焉と、夏には咲く花が無く、牛のミルクが少無く、女達には恥が無く、男達には強さが無く、木々には実は実らず、海には魚が無く、年長の者達が間違った判断を下し、司法が不正義の法を造る時、戦士達が互いに裏切り合い、そして人々は泥棒に成り、そして世界にはもうこれ以上、美徳が無い、新たな時代の始まりを預言した。」
(バドブの預言、アイルランドの戦争女王)


「それから見たのは、彼女が強い濁流を歩いて渡り、男達は--酷い殺人者達であり、偽証者達であり、そして彼等を妻達が罪へと誘惑し、兄弟が兄弟を殺し;姉妹の子供達が互いの血を流す。辛いとはこの世界、肉欲的な罪が巨大に増える。これらは剣の時代、斧の時代、楯は真っ二つに裂かれ、嵐の時代、殺人の時代--世界が倒れ死ぬまで。」
(ノース(北欧人の)ヴォルプソ、「賢明な女性の預言」)


人々が元々は、真実と親密に繋がっていて、そして生命の源と直接の親交にあったとしたなら、どうすれば再びその状態に届き、現実化出来るのかを問うのは理論的だ。それはテクノロジーと科学を通して辿りつく事が出来るのか、もしくは多くの哲学者達が信じた様に、理性の行使によって辿りつける事なのだろうか?そして私達、現代人はその親交と調和の関係に向かって動いているのか、それともそれから遠くに離れていっているのかを、問うべきではないだろうか?

Tea and Taoism
お茶と道教


「形無く、しかし完全成る何かがあり、それは天と地の以前に存在し、音は無く、実態・中身も無く、何ものにも依存せず、不変であり、全てに浸透し、尽きず、人はそれを天の元の、全てのものの、母と考えられるでしょう。」
老子(道德經)


極東においては、道徳と精神的な墜落は、異なった枠にはめられ伝達されているが、賢者達の慎みは同様だ。太古の道士達は、例えに成るが、彼等の「先祖達」の尊敬・崇拝に専念していた。彼等は人の美徳の失いと、タオ)との親交の失いを語る。賢者達によると、タオは一つのニュウミナであり、説明されないままのものである。彼等が主張するには、それは名をつける事も、知る事も出来ないものだと言う。これは多少、矛盾的に聞こえるが、それは私達がその様な曖昧で、詩的な宣言の裏にある、意味深い英知に気づくまでだ。

「ピタゴラスは、彼自身を「哲学者」と呼んだ最初の人だったと言われます。実際に世界には、哲学者と云う言葉への恩義があります。それまでは、賢者達は自らを「セ-ジ」と呼び、それは「それら知る者」という意味で捉えられていました。ピタゴラスはもっと謙虚でした。彼は「哲学者」という言葉を造り出し、その定義を「見つけ出す事を試みる者」としました。」
マンリー・パーマ―・ホール


道士の賢者達は探索者を、タオに向けて方向を示す事を拒む。彼等は単に私達に、それを私達自身で探索する事を願う。彼等は、人は宇宙のマイクロコズムである事を強調し、人が、彼自身の存在の外側だけに存在していると、間違って信じているという。賢者達は、タオとは道、もしくは道筋であり、あらゆる受け入れられている感覚においての、終着点でも達成点でも無い事を知っている。道士は、彼自身をアポファティック(apophatic)と脱構築的な批評論に自粛させる。彼の仕事は、タオに根付いていない全てのシステムの欠点・弱点を、ソクラテス的に指摘する事だ。言葉を変えて云えば、私達は一つのものが何であるか、理論と論議を通して、証明出来無いかも知れないが、それが何で無いかは、はっきりと認める事が出来る。単刀直入に言えば、道士は人間の愚かさの生徒である。

「この幻想の最初の結果は、私達の、私達の「外」の世界への態度の大部分が、敵対的であるという事です。私達は永遠の自然を、空間を、山々を、砂漠を、バクテリアを、虫を「征服」していて、(それは)それらのものと、調和的な秩序の中で協力し合う事を、学ぶ代わりに、です。」
アラン・ワッツ


「彼自身の愚かさの中で、やり通す愚か者は賢者に成る。」
ウイリアム・ブレイク


私達が宗教と哲学の歴史を学ぶ時、私達は良く、人々が元々は直接繋がっていた、大いなるニュウミナという曖昧な論及に出くわす。実に、このニュウミナが、神や霊・魂や、知性や、生命力や、気や、タオなどに例えられても、それは何時も大いなる神秘(ミステリー)と表現される。哲学的な用語で云うと、それは世界と生命の「グラウンド(土台)」と成る。

「霊・魂の谷は決して死にません。それは「神秘的な女性」と呼ばれます。その神秘的な女性の門は「天と地の根本」と呼ばれます。それは何時でも私達の内にあります。貴方が意志するままそれを引き出しなさい。それは決して枯渇する事はありません。
老子(道德經)


道德經を、美徳と道の書を、深く読んで私達が理解出来るのは、タオは神秘的で永遠のものだという事だ。それは全ての存在の根本であり門である。それの本質は大まかに女性的と考える事も出来るかも知れない。翻訳者は、老子の筆者は性別については特定しておらず、タオが女性的と捉えられるか、男性的と捉えられるかは、個人的な選択肢だと強調してはいるが。

「タオは自然の原理的な法則の元々の名前です。その用語は、(南北)アメリカを含む太古の世界の全ての人々に、元々は使われていたのです。」
ジーン D.マトロック


道士の賢者は、タオ・ニュウミナの本質を理解している。だが私達が言った様に、彼はその本質を説明しないし、人々をそれに向け方向を示す事もしない。彼は、ニュウミナがそれ自身の欲求によって行ったり来たりするもので、呼び出されたり、祈りや意志の力で方向づけられるものでは無い事を知っている。タオは超越的で切迫していて、でありであり、でありである。曖昧な言葉で、道士達は、タオとそれの存在に目覚めた賢者の事を、私達に伝えている:

「古い(時代の)純粋な人々は、計算無しで行動し、結果を確かなものにしようとしなかった。彼等は計画をたて無かった。だから失敗しても、彼等の後悔の原因には成らなかったし、成功しても祝の原因には成らなかった。そしてだから彼等は恐れる事無く、大いなる高みを測る事が出来た・・・彼等は生を愛する事も、死を憎む事も知ら無かった。彼等は誕生において喜ばず、死滅から逃れ様ともしなかった。急いで来て、急いで逝った。」
荘子(老子の師匠)


究極的に、その道士がそのタオだ。彼は彼自身が存在であり真実だ。これは異端に聞こえるかも知れないが、それでもなお本当だ。一人の男が、悟りは彼自身の外には無いと理解するまで、どれだけ長くかかるのだろうと、私達は不思議に思う。一人の男が、未来には彼のためのスピリット的な悟りも、社会的な完璧も、待ってはいないという事に気づくまで、どれ程の時間が過ぎるのだろうか?

明白な事実は、覚醒していない人達は、どう彼等が試みようとも、決して溶解力があり、そして全体論的な何をも造る事は出来ない。目覚めた人唯一が、完璧に、そして確実に、生きる事ができ、彼自身と世界について、知る事の出来る全てを知る。しかしながら、その様な存在・人は、存在について、間違ったアイデアによって釘附けにされている、正気で無い人々によって造り出され、住まわれている環境の中で、彼の人生を過ごす事は出来無いし、過ごさないだろう。彼は当然の如く、「文明開花」したコミュニティーや組織から、離れて一人で生きる事を好む。彼等の道は、彼の道では無いからだ。彼等の問題は、彼の問題では無く、彼等の悟りは、彼の悟りでは無いからだ。彼は心から深遠に共同・共通的では無く否定的だ。

「コ・オペレーション(コーポレーション)という用語によって理解される全ては、ある感覚において邪悪である。」
ウイリアム・ゴッドウィン


「・・・「sannyasin」は、・・・孤立した存在は、旅人は、彼が一人である事に完全に嬉しい。もし誰かが彼の横を歩けばそれはOKで、それは良い。もし誰かが去ればそれもまたOKで、それは良い。彼は誰のためにも待たず、そして彼は決して振り向かない。一人で、彼は全体である。」
オショウ(愛、自由そして一人さ)


「悲しいかな、貴方が一人に成るという事の意味を知らないのが、私は見る事が出来る。強力な社会、政府、宗教、世論があった何処でも――短く言えば、どんな種であれ暴政があった何処でも、それは孤独な哲学者を憎んだ。哲学が、暴政の届く事の出来無い避難場所を開き出すからだ。内的な精神の洞窟は、胸の中の迷路は、総ての暴君達をイライラさせる。」
フレデリック・ニーチェ


A Mysterium is Born
ミステリアムは産まれた


「頭脳によって造り出されたものは、物質よりもより本物である。」
チャールズ・ボウデレイアー


大異変の時代は、人のエゴを生み出す原因に成った。粉々に砕かれた意識の墓から、亡霊の如くエゴが現れた。しかし、エゴが混沌の炎から生まれただけでなく、それ(エゴ)自体がトラウマに傷つけられ、人の先祖代々のサイキ(魂・精神・心)をフラグメント化(分裂)させた。意識の一つの形に荒廃をもたらし、それに続いた形に危機をもたらしたトラウマは、治癒されていない。それは潜在意識の中の記憶として残り、大多数の人間に見られる--マゾキズム的、サディズム的、そしてサイコパス(精神病)的な傾向--といった妙な心理学的な特性の根本を担っている。先祖代々のトラウマが原因と成った痛みと傷は、エゴが特徴的に硬く(頑固・厳密で)そして防御的である理由だ。実際に、エゴの存在、それ自体が、排他性と、自主性と、識別(区別・差別)への、収容能力によるものだ。これらの傾向は、しかしながら、単にエゴがそれ自体を「イッド(Id)」、もしくは無意識と呼ばれるものから、識別しようとする事から存在するものでは無い。それらが存在する理由は、先祖代々のサイキが、トラウマとフラグメント化を経験し、それが、エゴが「緊縮」し、それ自体を「武装化」させる原因に成った。その不安定化は結果的に、エゴがゆっくりと意識の、それ自体以外の部分から別れて、隔たりを造る原因に成った。それはまた、エゴに非理論的な、自然に向けられた強い反感を持たせるに至った。故に、大異変の時代より、トラウマを受けたエゴは、自然に対して用心深く敵対的だ。この事実は、それに値するだけの注目と思考を、与えられてこなかった。単刀直入に、エゴ・コンプレックス(複雑性)の防御性は、自然の力の混沌に起因する、サイキ的な不安からの直接の結果だ。

更には、抑制されたエゴによって感じられた、自然への反感は、時間と共に増す。自然への恐れは、ユング派の語法だと、「アーチタイプ(原型)的」なアイデアになる。人は意識的に彼の自然界への反感に、気づいてはいないかも知れないが、彼はその成り行きを経験する事に成る。事実、人の良く記録されている「意味」の探索は--彼「精神・霊・魂」的な熱情と熱望と共に--自然とそのプロセスへの、彼の抑制された反感、もしくは敵意の効果だ。人による生命の「本質」や「神秘」の探索は、彼が楽園を取り戻そうとする、非理論的な手法であり、それは、太古の時代に悲劇的に失われた「オールネス(Allness・全体・完全)」との親交だ。

エゴ的な存在の難しさは、人類が次第に、現実との接点を失って行った事にある。何といっても、自然に対する敵意は、究極的には本物(現実)に対する敵意だからだ。そして現実は人の肉体も含んでいる。故に、実存(主義的)、そして心理学的に言うと、西洋の人は、大部分において、彼の真の創造主である自然から疎遠に成っただけで無く、彼の肉体的な衝動からも引き離された。言葉を変えて言うと、彼は精神(知性)的な、究極的にはテクノロジー的な生物に成ったという事だ。彼の肉体と、世界との接触を失う事は、太古の賢者達や、哲学者達が定義した様に、存在との接触を失う事に成る。彼の存在に注意を払う代わりに、人は本質と神秘にのぼせ上ってしまった。事実、少数の存在主義の哲学者達と、心理学者達が定言している様に、人は存在の重要性への興味を一切失ってしまった。歴史の夜明けより、人は、生命自体では無く、生命の「神秘(謎)」に夢中に成った。簡単に言えば、ビーイング(ある事・存在する事)ではなく、神秘にのぼせ上ってしまった。

「今まで人は、自然に対して立っていた。これからの人は、その人自身の本質に対して立つだろう。」
デニス・ガボール


ラテン語において、「大いなる神秘」という用語は「ミステリアム・マグナム」と訳され、東洋同様に、西洋の哲学者達と神学者達によって、一般的にミステリアムは抽象的なやりかたで考えられる。

言葉を変えると、哲学者達の大いなる神秘は、肉体的に(五感で)見る事が出来無いという事だ。それは木々の間や雲の裏に隠れているわけでも、「インディー・ジョーンズ」の様なタイプに捕まえられ、展示されるために、洞窟でこそこそ隠れて待っているわけでも無い。実際に、その人がどの伝統から来ているかにもよるが、大いなるミステリアムは、神、霊・魂、エッセンス(本質)、崇高な意識、ニルヴァーナ、目的、または生命の意味、肉体的な卓越、知性的な至高、世界平和、ユートピア(楽園)、等々と定義される事が出来る。それは明らかに異なった人々にとって、異なった物事を意味する。見られる限り、それは沢山の頭の中の一つのアイデアだ。

宗教の再吟味は、ミステリアムが多くの印しを与えられた事を私達に示す。ミステリアムは殆どの人々の人生のための理由であり、彼等が求めている終着点だ。全ての民族と文化がそれを例示するヒエログリフ(象形文字)を大切にした。

太古のファラオ(神官王)アケナーテンにとって、それは太陽のディスクで、キリスト教徒にとってそれは十字架と聖書で、イスラム教徒にとってはコラーンで、ユダヤ教徒にとってはトーラとソロモン神殿だ。

宗教的な男のミステリアムへの探索は、彼の全ての思考を夢中にさせる。それは彼の人生、行動、そして未来へのヴィジョンを決定し、明らかに彼を、他の人間から分離させる。彼の探求、決意、自己知識のレベル、理解度の深さ、そして彼自身と他の者達のヴィジョンは、彼の終わる事の無い旅と、それが彼を何処に導くのかに基づいている。

宗教的な人々のミステリアムは、しかしながら、タオ(道)と同じものでは無い。これは何故なら、それは精神的な構築であり、自然から産み出されたものでは無いからだ。実際に、私達が哲学的な疑問を扱う時に、常に覚えておくべき不思議な事は、人間の頭脳(思考)には、人類やこの世界を創造した責任が「無い」という事だ。この世界のほんの極少数の人が、この事実に値するだけの思考をする。それにも関わらず、私達の肉体と精神が、自然とこの世界の創造と言うのは自明な事だ。マインドは、自然によって産み出され、この世界によって繁殖された。マインドはそれ自身を惑わし、それ自身が自然より優れていると想像する。それは自然がそれ自身と異なり、分離していると想像する。これは勿論、ノンセンスだ。もしそれが本当であれば、私達が自然から学べる事は殆ど無い事に成る。もし私達のマインドが、知るためにある全てを知って、この世界に来たのなら、自然が私達に教えられる事は大して無い。だがしかし、私達は全てを自然から学んだ。これは事実であり、そしてそれは個人にも、時を通しての人類全体にも当てはまる。

故に、マインドが全てを知るものでは無いのは自明だ。人は産まれた瞬間から学び始める。学ぶ事と生きる事は同意義の事だ。学ばない事は成長しない事であり、成熟しない事であり、この世界と調和の状態で存在しない事だ。だからマインドは形而上学的(抽象的・哲学的)に、または存在論的に自然にへつらう。マインドは自然と存在から学ぶ事を強いられ、そして自然と存在についての全ての事を、知る事は決して出来ない。

マインドが自然を創造したという誤信は、道士には感染しない。彼はタオ(道)がマインドの産物では無く、自然のものと知っているからだ。実際に、タオは、科学者達や神学者達が死に物狂いで理解し、操作しようとしている、自然の創造力のための名前なのかも知れない。しかしながら、道士は、科学がタオの働きを理解する事は決して無いと主張し、私達は彼等が何故にこの主張をするのか、問うべきなのかも知れない。

ミステリアムはタオでは無い。それはニュウミナでも無い。それはマインドによって造られたミステリアムの外見の後ろに隠されたニュウミナのシミュラクラ(simulacrum)の一つで、彼自身の精神的な構造と不調和音によって、人から隠されている。人のマインドの回りの全てを包囲し、同心円上にアレンジされた、球体の覆いの様に、ニュウミナは外側に存在し、そしてミステリアムは内側の人に最も近い処に存在する。人がミステリアムの範囲とサイズを広げる、または膨らませると、ニュウミナのサイズと範囲も同様に膨らむ。だから、人が何をしようとも、もしくはどれだけ長く探索し、探究を続けようとも、ニュウミナに決して近づく事は出来無い。彼の正にその行動自体が、ニュウミナが、彼の届ける処の、向こう側に留まる事を確かにする。彼が探し求める事が、求めているものを押し放す。この苦境と滑稽な大失敗については、人は遥か昔に警告されていた。力は力を得る(産む)と道士達が警告した。

「もし我々の知識を円の範囲で表すとしたら、我々が知識を増やす毎に,その円は大きくなる。円の向こう側(外側)が知られていない事で、我々がもっと知れば知る程、知らない事が増え続け、そしてそれはそう続く。」
ベアー・ハート(恐らくアメリカ先住民の名前)


私達が、ミステリアムがエゴと同じ日に生まれた、一種の幻想・幽霊であるという事に一度気づけば、多くの人間世界の自然(本質)についての問いが答えられ、多くの神秘が説明される。実際にミステリアムの原型はエゴであり、それは人の全く現実的では無い正体(アイデンティティー)の感覚だ。ミステリアムは、エゴの様に、人のマインド、もしくはもっと正確には、人の壊れたマインドによって創造された抽象概念だ。それは人のバイカメラ性の症状(病状)だ。

「自然への更なる敵対的な姿勢への変化は、1万年前から5千年前の間に始まり、文明の進行と共に徐々に破壊的に成り、徐々に説明が出来無くなった・・・後講釈するとこの変化は、必要性、または太古の神々の衰退によって説明される。だがそれは、非理論的(無理論では無いが)で無意識の、人間存在の原理的な次元の失敗・故障の一種で、失敗・間違い性より向こう(以上の)非理論性で、狂気の一種だ。」
ポール・シェパード(狂気の一種)


ミステリアムの存在(現れ)と影響は、時代を通して多くの哲学者達を夢中にさせ、困惑させた、マインド・ボディーのジレンマの原因になった。ドュアリズム(二元性)は、人が、この世界は原理的に、物質的なのか、精神的なのかを決められない事から生じた。この世界は人の知覚(認識)の向こう側に存在するのか、それともそれは人の精神的な投射なのだろうか?この問いは、哲学者達によって尋ねられた主要の問いだが、満足に答えられる事は決して無かった。実際に問うべき質問は、何故に二元性は元々発祥したのかという事だ。何故、マインドは、この世界が物質的か精神的かを問う?何故、マインドは単純に、そして肯定的に決定して、問題を解く事が出来無い?それは人の理解自体が割れているからか?それは人の生命への知覚が単一では無く、複数に分かれているからか?人は、彼が現実を見る時に、永遠に二つの閉鎖的な知覚の間を、行ったり来たりする要に運命づけられたのか?それはその様に現れる。人は正に現実を二元的に見て、そしてそのジレンマの原因となるのがミステリアムの存在(現れ)だ。

人はミステリアムの仮面を顔に着けている。そして仮面には、見抜くための二つの眼の穴がある。だが、それら二つの穴の上には、異なる色のレンズがついている。もし人が片目を開け仮面の片方の穴から見れば現実が一色に見える。彼がもう一つの方の眼で見れば、現実は違った色に見える。どちらにしても、彼のヴィジョンは歪められている。両眼を開いたとしても、彼のヴィジオンは大して改善されていない。彼がミステリアムの仮面を着け続ける限り、彼には現実の本当の姿を見る事は出来ない。ありのままの現実を見るためには、そして彼自身のありのままの姿を見るためには、仮面は外され地に捨て去られなければならない。

The Self-Begotten Mind
自身から産まれたマインド


「宗教は人類の統一的で強制的なノイローゼである。」
シグモンド・フロイド


人が、彼自身を創造したという、間違いで、幻想的な観念は、特定の民族の宇宙論の中に現れている。例えば、古代エジプト人達の主要の開祖神、アトゥム・ラーは、彼自身を、単為生殖的に魔法(呪文)を唱えて現れさせたと主張される。太古のピラミッド・テキスト(ピラミッド内に書かれた文章)は、アトゥムは原始の混沌(深い底)から昇り、彼自身の手に精子をマスタベーションし、そして彼自身を産んだと報告している。彼は「自生」または「自産」と記述されている。エホヴァ同様に、アトゥムは「私は私であるもの」であり、「アルファでありオメガ」であった。

「アトゥムは彼のマスタベーションを、ヘリオポリス(太陽の街)で創造した。彼は、彼の男根を彼の拳に入れ、それによって熱望を興奮させた。その双子は産まれ、シュとテフヌットである。」
ピラミッド・テキスト(語り527)


勿論、その話は、エデンの園で、アダムがイヴに生を与えるのと同じ位に理論的では無い。しかしながら、自身を生み出す神々は、総ての物事はマインドによって存在へともたらされたという、全く人間らしすぎる妄想を明らかに体現している。真実をいうと、人のマインドに探究される大いなるミステリアムは、マインド自体の創造だ。一度これが理解されれば、多くの幻影は払いのけられる。

「彼の口で、彼の言葉を通して、彼のスピリットの中から、男性が彼自身を生きるものとして創造出来るという思考は、考えられる最も不自然な幻想で;それは全ての経験、総ての現実、総ての自然の状態を否定する。それは男性自体が、生命が明らかに彼に否定した、命を与えるという能力を持つ完璧な存在と提示するという、一つの目的を達成するために全ての自然の法則を無視する。」
エリック・フロム


人のマインドが、全ての創造主であるというアイデアは、トラウマによって現れた。元々、大昔には、太古の賢者達が示す様に、人間の意識は真に全体(一つ)だった。それはオールネス(完全・全体性)を経験し、自然とニュウミナと直接に、心から交流した。大異変の時代の後、そしてその結果として、人の意識は重度のトラウマに苦しめられた。意識はフラグメント化(分裂・分細化)し、私達が今、「エゴ」として知るものが生まれた。すぐ後に、エゴの邪悪な双子が--ミステリアムが混沌の炎の中から昇った。ミステリアムとエゴは両方がトラウマから生まれ、そして共にそれらの根本に深い永久的な疑いがあり、それは自然に対する反感とさえも云えるかも知れない。私達は、この特有の形の精神的な反感の理解無しでは、意識を完全に測る・見抜く事は出来ないと信じ、この原始的な傾向が人間の病理の理由であるとさえも云っているのだ。

エゴは自身の墓から昇った亡霊だ。それ(エゴ)は元々全くな全体(一つ)の意識から残った全てだ。現代人の正体・自身(アイデンティティー)の感覚は殆どの部分は、単なるエゴ・アイデンティティーだ。しかしながら、人のエゴは彼の存在の全体では無い。これを知る事は、大体を説明し、生命や存在についての多くのややこしい問いを答える。

「エゴは私の意識の範囲(フィールド)のセントラム(centrum)であるだけだから、それは私のサイキ(魂・精神・心)全体と同一では無く、他のコンプレックス(複雑な集合体)の中の単なる一つのコンプレックスに成っている。だから私は、エゴは私の意識の唯の主観で、自身は私全体の主観なので、エゴと自身の間を差別する:だからそれはまた無意識のサイキも含む。この感覚において、自身はエゴを包み含む、一つの(理想的な)要素(要因・原因)である。」
カール・ユング


私達にとって、どう原始的なシェル・ショック(第一次世界大戦の爆撃によるショック状態の症状)が、人間のエゴと、精神異常的なミステリアムが存在する様に成った原因に成ったのかを理解するのは難しいかも知れない。私達は、自身は自然と同一であるとか、私達が自然として考えるものは、自身であるというアイデアを、殆ど思考する事が無い。その反対に、エゴは、私達の正体(アイデンティティー)として奉仕する。妙な事に、地球上の誰しもがその同じアイデアを考慮する事に、私達は矛盾を見出さない。

「”意識の起源とバイカメラル(二つのカメラ的)マインドの壊れ”の中でジュリアン・ジェインズは、自意識はもっと最近に現れたもので--青銅器時代のもので、5千年程前のものだと主張した。ジェインズによると、その時代以前には「私」という感覚は存在しなかったという。考えるマインドの内面的な独白(口に出さない独り言)を始めて経験したのを、古代の人々は、神の声を聞いたとした、またはスピリットに語りかけられたとしたとジェインズは推測している。」
グレッグ D.ジェイコブス(先祖代々のマインド)


全ての人々の考え方はトラウマを受けていて自閉症的であり、一人や二人の人達の考え方だけでは無い。全ての人類が大異変の時代のシェル・ショックと脱落に苦しんだ。そうでなければ、私達が人間のマインドに見る発狂は、広く広がっていないはずだ。人の世界と彼の社会のややこしいイディオム(idiom)は、私達が人の現在の意識がどう存在へと至ったのかに気づいた時に説明される。

人間達が、殺人的な指導者達や、激怒した神々の前に片膝をつく時、彼等(人間達)が、何かの理由や、神の名の下に殺し、傷つけ、切り刻む時、そして血に覆われたピラミッドの天辺で被害者の心臓を切り出すのは、それは何故なら彼等の行動と習性が、異常な考え方に指示されているからだ。それが何故なら、彼等は深く埋め込まれた衝動の影響下にあるからだ。彼等は、いわば、ミステリアムに取りつかれているのだ。私達が以前述べた様に、ミステリアムはエゴと同じ時に存在へと至り、そしてそれはエゴが現れる元となったトラウマの後遺症だ。それが人間のノイローゼの土台だ。

「それは内から来るもので、総ての邪悪が現れるのは人のマインドからである。」
(マルコの福音書第7章21-23)


ミステリアムはコンピューターのプログラム(ソフト)に似た形で機能するが、そのスイッチを切る事も、アンインストゥールする事も、削除する事もほぼ不可能だ。人の世界は確かに人のマインドに影響し、そして人のマインドは、人が住む世界に影響する。考え方によって世界は変わる。しかしながら、もし人の考え方がミステリアムに取りつかれているなら、世界は、既にそう成った様に、嫌悪すべき様相に成るだろう。ミステリアムは、人のマインドを感染させる様に、人の世界を感染させる。それは、いわば、マインドの血の中の毒だ。

「・・・人は想像力を持っているのでは無く、人はそれらによって取りつかれている。」
カール・ユング


Reality is Triality
現実は三重性


「タオ(道)は一に生を与える。一は二に生を与える。二は三に生を与える。三は全ての物事に生を与える。」
老子(道德經)


道士達の哲学は弁証法的な一元論と正しくみなす事が出来る。厳密に言うと、しかし、道士達は一元論者でも二元論者でもなく三言論者だ。彼等は3という数字を重んじ、タオの真のシンボル、またはエンブレムとして見る。興味深い事に、ヘブライ語では、数字の3はダレテと名付けられ、「ドア」、「正門」、または「入口」を意味し、そしてギリシャ語では、それはデルタと呼ばれ、「口」、または「開き」を意味する。

道士達にとって、3つである事( threeness )は1つである事( oneness )よりも大切だ。これが何故なら1つである事というものは無いからだ。1つである事は抽象概念だからだ。それは人のマインドの中のアイデアとしては存在するが、現実ではそうでは無い。世界には1つだけの石、オーク(樹)、海、星、または山は無い。1つだけの鹿、鷲、女性、男性は無い。物事には、雪の結晶や木の葉の様に、特定のユニークなクオリティーがあるかも知れないが、自然界に1つである事は存在しない。2つである事( twoness )は抽象概念ではなく、3つである事もそうでは無い。それらは存在する。空には2つの球体があり、山には2つの頂上がある。湖には3つの川が流れ込み、枝の上には3羽のカラスがいる。もし一羽のカラスがいれば、私達は他にもカラスが存在する事を確信する。もし蓮が存在するなら、私達は何処かに他の蓮がある事を確信する。哲学的に言うと、個体は存在しないという事だ。人がそうでは無いと考えるのは、彼の主観的な思考のための才能故だ。しかしながら、既にジュリアン・ジェインズに証明された様に、人の、彼自身が他と全く別の実態という感覚は--主観的な自身は--(比較的に)最近の歴史的な現象だ。

「ジェインズが提案したのは、人間の意識は、歴史時代においてさえも、その個性(キャラクター)を変えたという事で、私達が知るエゴは、極度のストレスの元以外には、存在しなかったという事だ。すると、それ(エゴ)はそれ自体を、殆ど意識の中への、外側からの侵入として現れさせた。神の声の如く。」
テランス・マッケナ


「自意識、理性、そして想像力が動物的な存在の象徴である「調和(ハーモニー)」を崩壊させた。これらの出現は、人を一つの例外にし、宇宙の変種にした。人は自然の一部で、自然の法則の対象で、それらを変える事は出来ないが、人は自然を超越する。人は一部でありながら分け離され;人はホームレスであるが、人が全ての生き物と分かつ家に鎖で繋がれている。偶然的な時と場所において、この世界に産み落され、人は偶然的に、そして人の意志に反して、強制的に追い出される(死ぬ)。自身の認識がある故に、人は自身の存在の力の無さと限界に気づく。人は人の存在の二分性から決して自由では無い:人はそのマインドを、そうしたくても捨て去る事が出来ず、生きている限り体を捨て去る事が出来ない。そして人の体は人に生きたいと思わせる。」
エリック・フロム(人の破壊性の解剖学的構造)


個々の人間は、その一人一人が三元性( threeness )の一つの表現だ。全ての子供は一人の男性と一人の女性、一人の男と一人の女から生まれる。故に、新生児は2人の両親と、その子自身の合成だ。その子は三元性の一つの表現だ。そして誕生がどう起こるのかを決めるのは人では無く自然だ。一人の男と一人の女の私通(繁殖行為)が新たな人間を創造する事を(あらかじめ)定めたのは自然だ。故に、生命自体と、自然の創造の知性の両方が、3という数字で象徴される。道士はタオ(道)/自然/人をトモエ(巴)として知られるシンボルで象徴し、それはアイルランドの最も著名な太古の神殿跡で見つけられたトライスケリオンに驚くほど似ている。


1tomoe


トライスケリオン
2triskelion.jpg


其処には涙があり、そして其処には笑いがあり、そして其処にはどちらも無い。存在する事と存在し無い事;私と非私;人と自然、そして第三形における両方の結婚だ。トモエのそれぞれの葉が一つの中の三つで:タオ、自然、人で、もしくは代わりには、存在(する事)、思考(する事)、時間だ。

哲学者、マーティン・ハイディガーの言語の中において、単体で存在するものは無い。全てのものは、その横と、回りのものとの関係において存在する。花の花びらは風に揺れ、その花の周りの葉は揺れていない、それ故に私達は花びらに気づく。どんぐりには、その中で芽を出す土がある故に、私達にはオークの木がある。山ヤギの四肢と筋肉が柔軟で強いのは、山の斜面の険しさ故だ。鷹の視力が素晴らしいのは、ネズミが草の覆いの下を動くからだ。金づちが造り出されたのは、木独特の特質故で、ペダルの由来は足の形だ。針は糸の存在を暗示し、それは縫い物の存在を暗示し、布の存在を暗示し、それは人々の存在を暗示し、そしてその様に続く。存在する全ての特定のものは、その周りの全てと関連している。その一つ一つが、この世界の全てのものと、特別で親密な関係を持っている。主体( subject )も物体( object )も其処には無く、これもあれも無い。それぞれのものが他のものを、それ自体が主体になる事成しで「知っている」、または「認識する」。一つのものの存在は、その他のもの全ての存在と、親密にリンクしている。そして存在は思考より以前に来る。故に、理解と近縁性(関連性)においては、思考は一段回、遅過ぎる。

私達は数字について間違ったアイデアを持っている。私達は習慣的にだが間違ってオールネス( Allness ・全体性)とワンネス( Oneness ・単体性)を関係附け連想するし、間違ってワンネスが存在すると考える。1から9までの順番と、それらの一般的な読み取りを見てみよう:

1 - 誕生、始まり、自身、神
2 - 分裂、二元性、分かれ、対峙
3 - 創造性、成長、妊娠、豊饒
4 - 構造、秩序、訓練・自制、実用性
5 - 経験、習得、理解、広がり、男/女
6 - 性別、調和、統一
7 - 主体性、自己分析、 内向性、宗教
8 - 達成、成功、外向性、征服
9 - 熟達、精練、正確性、人類、完了

表面的には、1という数字は全体性と自身を代理する様に現れている。それは無から昇る(現れる)モナド(単子)だ。この感覚において、それは神を象徴するものとして十分だ。それは強さとオールネス(全体性)を示唆する。しかしながら、私達が言った様に、ワンネス(単一性)は抽象概念だ。それは五感では経験出来ない。言葉を変えると、それは人のマインドの外側には存在しないという事だ。それは、だから、一つのミステリアムだ。人類が一つに成る事を語るのは故に幻想的だ。神を「一つ」とか「一つの真実」とか等々を語るのは唯の幻想を語る事だ。今日、私達は、とても多くの人達が「ワンネス」を語る事を耳にする。その用語はグローバリズムと多文化主義と同義だ。それはニュー・ワールド・オーダー(新世界秩序)と呼ばれるものを探究する者達のイデオロギー(思想)をカプセルに入れる新たなお守り的な言葉だ。しかしながら、グローバリスト達とニューエージ派達のワンネスは全体論的な全体では無い。それは単なる壊れた欠片の集まりだ。単刀直入に言うと、ワンネスは、オールネス、または自身の真の、そして本物の象徴として奉仕(機能)しない。反対に、それは分離の肯定でありミステリアへの門だ。人の自身の感覚は、であるならば、単純に分離性であり全体性ではない。ワンネスは単なる統一という変装をした分割だ。

「脱落とは何だ?もし統一性が二元性に成ったのなら、脱落した者は神ではないか?」
チャールズ・ボーデレイアー


興味深い事に、総ての人間は個人的な正体(アイデンティティー)の感覚を持っている。誰しもが自分達自身をユニークだと考える。しかしながら、社会学的に言うと、それぞれの人が、彼等自身のユニークさのアイデアを内に秘めているのは変だ。「誰しもがユニーク」と云うのは矛盾している様だ。この定言は哲学的に意味を成すだろうか?それは本当か、それとも自己妄想の産物か?もしワンネス(単一性)が幻想的なアイデアなのなら、私達が考える正体(アイデンティティー)と個性もまた幻想という事になる。

「偽が偽として見られるまで、真実は真実では無い。」
J.クリシュナムルティ


哲学者ゲオルグ・ウィルヘルム・フレデリック・ヘーゲルは、正体と個性の問題を思考し、人が自分をユニークと考えるのは妄想だと結論した。最初に、人は人から生まれる。人は男性と女性の両親の子供だ。彼は自己産出では無い。第二に、人の思考は彼自身のものでは無い。彼は彼自身のために考え、彼のアイデアは彼自身のものと信じるかも知れないが、それは違う。一人の人の意識の中身は全ての人の意識の中身だ。ドイツ人哲学者は、人は彼自身を考える事を--彼自身の正体を--他の者達を考えずにする事は出来ないと強調した。自身の思考は他の人々の思考を暗示する。何故なら、ヘーゲルや、マルクスや、ヘイバーマスと、ウィットゲンスティンと、多くのその他の哲学者達が強調した様に、人の彼自身のヴィジオンは、彼が周りからどうみなされているかに大きく基づいているからだ。人は常に周りからどう見られているかを意識する。心理学的な語法で言うと、人の「パーソナ(ペルソナ)」は完全に人気度に基づいているという事だ。それは調和し、好かれる事に基づいている。ヘーゲルによると、個人的な正体は、機能している誤った考え方・虚偽だという。それが幻想なのは、自身の思考が自動的に、そして必然的に他の者達の思考であり、他の者達についての思考だからだ。ヘーゲル派が強調するのは、総ての人の体は他の者達の体だという事だ。一人の人間の体の部分は、その体が奇形体でない限り、総ての人の体に見られる。それに加えて、人の細胞は、個々の自己再生プログラムの行動に従って機能しない。それらは一般のプログラムの行動との協調の中で一緒に機能する。

二元性は分割と分離、そして関係の数字と定義された。幾人かの考える人達は、二元性が最初の切断を象徴していると読み取り、そしてそれは、神が、彼自身の存在を、彼自身の本質を、もっと完全に経験するために分割した瞬間と読み取る。2は神(または思考)が、彼自身の本質を熟孝する、または経験する事を代理している。勿論、私達はこの種の異様なアイデアが、何処から来たのか、確かに困惑させられるかも知れない。何といっても、理論的に、神は、彼のの創造主でなければならず、それが意味するのは、彼が、彼自身を、彼自身のもう一つの部分を通して経験するという事だ。そうであるなら、概念的に言うと、2という数字は同じ現象の2つの表現を代理していると云える。全体(完全)に成るために、ワンネス(単一性)はその「対」に手を伸ばし、それ自身を完全に経験するために誰か、もしくは何か他のものと一つに成ろうとする。だから、ワンネスは全然オールネス(全体性)ではない事を確証する。もしワンネスが完全であるなら、それはそれ自身から別の何か、または誰かを通して、それ自身を見つけよう、または知ろうとはしない。故に、二元性( twoness )はワンネスの本来の分離性を確証する。この感覚において、私達が知る創造は、もっと正確に二元性で象徴されるべきだ。二元性は、神と、彼が存在へともたらす創造を象徴する。言葉を変えて言うと、総ての意図と目的において、二元性はワンネスの創造かその延長の様で、ワンネスが創造するものが何であれ、それはそれ自身の一部であるはずでなければならなく、それが暗示するのはワンネスは二元性より大いなるもの(優れたもの/神)という事だ。それはワンネス(単一性)が二元性より前に存在した事を暗示する。それ以外の見方をする事はマインドにとって難しい。

しかしながら、もし神が、彼自身を知る為に手を伸ばした何かが、彼自身の手によって創造されたものなら、創造は確かに創造主から別れたものでは無い。そうであるならば、私達は、神がどうやって、究極的には彼自身であるものを通して、彼自身の本質を気づく(現実化する)のかを問うべきかも知れない。明らかに、その答えは、彼がそう出来ないという事だ。パラドックス(逆説・矛盾)は、彼の周りに見られる創造が、神の延長ではない事に人が気づけば直ぐに解ける。それは神の一部では無く、彼に創造されたものでも無い。自然は、それ自体の存在を有する。私達は自然を、超自然的な神、または「創造」の一部として考える必要は全く無い。何といっても、神が、彼自身を知るために降りた創造の中は実際に、彼自身の一部だというのは非理論的だ。もしこれがそうなら、すると神は単純に、彼自身を彼自身として知ろうとするために探究する事に成り、それは意味を成さない。何故、単純に、既に知られている事を知るためと、既に経験している事を経験するために、創造を現れさせるのか?それの何処に壮麗さと不思議と進歩があるのか?

二元性(ツーネス)はワンネス(単一性・一元性)の一部であるか、そうで無いかだ。もしそれが一元性の一部であるのなら、本質的には一元性と二元性は同じものという事に成る。もし一元性が二元性との接触によって、それ自身を「知ろう」とするならば、理論的に二元性は自然の中において、一元性からまるで異なるものでなければならない。それは、多くが間違って推測した様に、一元性から昇る(現れる)事は出来ない。しかしながら、その問題は、私達がその問題が二元性のものでなく、一元性のものだと気付けば解かれる。実に、一元性というものは無いからだ。二元性と三元性(スリーネス)は存在する。一元性は存在しない。

三元性は幾何学的には三角形で表現され、その形は内側のスペースと外側のスペースを分ける事に奉仕する。だから三元性は全体性と分離の両方を代理している。更には、三元性は経験する事が出来る。何故なら、私達が述べた様に、総ての産まれてくる子供達は三元性の表現であるからだ。

上の中央の図は三角形の中の立方体と四角を表している。(立方体は6つの三角形から生まれる。)故に、形而上学的な方法で言うと、私達は、三元性がその対に「生を」与えているのを見る事ができ、それは一元性が存在しない故に、一元性が成しえなかったものだ。三元性は、だから、生の門であり、創造の真の印しだ。

キリスト教の聖書では、ヤーウェイは主義として、神聖なる三位一体と定義され - 父なる神、その息子、神聖なるスピリット(霊)とされる。彼は1つの中の3つだ。

3つの三角形のピラミッドは何故だ?

トライスケリオン、または3つの繋がった螺旋が、アイルランドのカウンティー・ミースのニュー・グレンジ・トゥムルスの、大いなる石に刻まれているのが観る事が出来る。ニュー・グレンジの古墳は、2つの似た古墳(ノウスとドウス)の傍にあり、空から見られた時に、巨大な土工のトライスケリオンに見える。3つの螺旋は、ニュー・グレンジの最も奥の部屋、または聖室にも存在する。明らかに巨石時代のアイルランド人は、東洋の道士達と同様に3という数字を崇めた。これは何故なら、その数字が現実への門で、ニュウミナへの入り口で、タオ(道)、もしくは自然の創造的な知性の完璧な表現だからだ。

ニュー・グレンジの石
3newgrange.jpg


三元性は、そうすると、全体性(ホールネス)と完全性(オールネス)の真の象徴だ。それはニュウミナへの門であり、何故、道士達がタオ、または真の道の本質を象徴するのにトモエを使用したのかの理由だ。

一元性は存在しないかも知れないが、ユニークさはある。しかし、ユニークさは私達に、外側から授けられるものでは無い。それは誰かによって、または他の何かによって帰されるものでは無い。それは意識の状態だ。もし私達が、真に私達の生命(人生)と存在の実在主義的な重要性を理解するに至れば、私達は、私達が生き、そして人生をユニークに経験すると正しく云える。だがユニークさを公正に宣言するために、私達は、私達自身とこの世界と、深く敬虔な(うやうやしい)関係を持たなければならない。もしその調和が鈍くされたり、湿らさせられ、不用意、または軽薄に取られ、そしてもし私達が、単に受け身的、もしくは不注意的に機能するなら、個人的なユニークさの、正真正銘の宣言は出来ない。

3という数字は人の数字だ。全ての人々は2人の両親から生まれる。それは自然によって事前に決められていた。だから自然は、彼女(自然)が存在へともたらす全ての人を、三元性の表現としてみなす。それに加え、心理学的な観点から見ると、人はまた、3という数字で定義される。これが何故なら、人は、彼が真にそうである彼自身;彼がそうだと想像する彼自身;そして他の人達が見る彼自身である事が出来るからだ。

自分自身の、歪んだ自分自身のイメージ、または他の者達が彼であると知覚する、調和の中に存在する事を選ぶ人は、正真正銘では無い生き方をしている。彼はトモエ(巴)には成れ無い。彼はタオ(道)には成れ無い。彼は精神分裂の傾向のある人で、脱落し、世界の影でさ迷う。

「シック(病気・異常)な個人は、他の全ての同様に異常な個人達の中で、彼自身、快適に感じる。文化全体がこの様な病理に向けられている。その結果、平均的な個人は、完全な精神分裂症の人が感じる分離性と孤立を経験しないという事だ。彼(平均的な個人)は、同じ醜悪化を経験している人達の中で気楽で;実際に、狂った社会において孤立を感じるのは完全に正気な人の方だ - そして周りと通じ合う事が出来ない事に大いに苦しみ、精神異常に至るのは彼の方かも知れない。」
エリック・フロム(人の破壊性の内部構造)



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