更なる日本人の文化について: 伊勢神宮への私の訪問

More On Japanese Culture:
My Visit to the Grand Shrines of Ise
更なる日本人の文化について:
伊勢神宮への私の訪問

by Eustace Mullins
ユ―スタス・マリンズ小論
http://www.eustacemullins.us/wp-content/works/Articles/Eustace%20Mullins%20-%20Exposes%20and%20Legal%20Actions%20%281991-97%29.pdf


1996年の2月の間の私の日本での旅の間、何日もの忙しい日々と様々な経験を通して、私に明らかになったのは、伊勢神宮を訪問した私の旅が、最も忘れられないと云う事です。私の(旅の)主催者は、伊勢は日本人にとって大切な神社であり、事実、最も大切な神社だと説明してくれました。しかし、この事前の情報でさえ、私が伊勢で出会った圧倒的な存在感への私の(心の)準備を完全にはさせませんでした。伊勢神宮で、私は偉大な国家の力、そしてその力が何処からくるのかの啓示に圧倒されました。

西洋の世界は、力は機械(システム)から来るという神話に誘惑されてしまいました。歴史の哲学、弁証法的な物質主義、または共産主義は、私達に、機械が、国家の力が全ての力の源として崇拝する様に説得するために開発されました。弁証法的な物質主義で問題なのは、機械はそれ自身を作り出す事が出来ない事で、それは必ず人々によって建てられなければならないのです。ですから、機械そのものではなく、機械をもたらした力を崇拝する方がより論理的です。共産主義者達は、このジレンマを決して解くことが出来ず、世界的な勢力としての共産主義の力の衰退を説明してくれています。

共産主義が弱まってきている間、日本の人々は増え、そして繁栄し続けました。彼等の秘密は何であろう?伊勢神宮を訪ねた後、これが彼等の秘密だろうと、私は信じるようになりました--伊勢神宮に象徴されるように、彼等は、彼等自身と、彼等を支える精神的な力を信じているのだと。

西洋の世界では、私達は、全てにおいて個人を強調し、そして個人が何でも達成出来ると強調します。しかし、実際は一人の人はただの一人ですから事実、個人の力には限りがあります。重要な事を達成しようとするなら、人は他の個人達と力を合わせなければいけません。私達は、コーポレーションとして力を合わせ、人力と資本を集める事ができ、その影響力を世界中に広げる事を学びました。確かにこれらの業績は強い印象を与えますが、此処で再び私達は問わなければいけません。これを可能にするもう一つの力があるだろうか?この問いの答えは国家の神殿の中に見つける事が出来るのです。

西洋では、私達は12世紀にヨーロッパ中に素晴らしいゴシック建築の大聖堂を建てました。それらの大聖堂が建てられた後も、西洋は繁栄しましたが、大聖堂は建てられなくなりました。西洋が繁栄したなら、もっと数多くのさらに壮大な大聖堂が建てられると予想する方が理論的ではないでしょうか?しかしそれらが建てられる事はありませんでした。これには説明があります。西洋は、大聖堂が建てられた後、その忠誠を変えたのです。大いなる大聖堂の建設を鼓舞した、精神的な力を見捨て、西洋は新たな信仰の対象へと、その深い尊敬を移したのです。資本の信仰、お金の力へとです。人々は、資本が現在、最も世界で強力な勢力であると云う前提を受け入れたのです。しかしながら、資本はもうそれ以上、大いなる大聖堂を建てませんでした。その代りに、資本主義者達は、彼等の銀行やオフィスの建物を、小さな大聖堂の様にデザインしました。大聖堂の時代は終わりました。

伊勢神宮で、私は、壮大な大聖堂が精神的な力の、究極の現れでは無い事に気づきました。此処で、私は神社と自然の完全な調和を見つけ、その効果が正にその神社の目的であると見つけました。私は、神社、または寺院には、建物自体より遥かに重要な目的があると、理解し始めました。それは偉大な国家を導く力が、虫眼鏡が太陽の光を集中させ、更なる大きな炎の力に変わる如く、集中される場であると。

西洋の経済学者達は「日本のミラクル」を単に生産力という経済的力で説明します。伊勢神宮で、この力の背後には、更により偉大な力が、スピリット(魂・心・霊)の力があるのだと、私は学びました。これが日本の力なのです。けれども、多くの外人は神社を訪れず、それ故に彼等はこの国を動かす力について無知のままなのです。

伊勢の地の上を私が歩いた瞬間、私はこの力に気づき始めました。それはとても力強い経験でした。何故なら、それは何故、私は日本に招かれたのか、私が其処に居る本当の理由を私に明かしたからです。多くの人々が私を日本へ招くために力を合わせ、そして彼等の努力に私は、とても感謝の気持ちで一杯であり、これはとても価値のある経験に繋がりました。伊勢神宮に来るまで、私は、私をやむを得ず此処へもたらそうとした力を理解していませんでした。今後、私の使命は、日本の人々と、合衆国の人々の間の、理解のレベルを向上させる事でしょう。この使命について、他の西洋人達が私の先を行きました。最も注目に値するのは、私がこの旅で、記念碑を訪ねる事が出来た、アーネスト・フェノロサ(Ernest Fenollosa)と、私の先生であり、導きであり、西洋世界においての、日本芸術の理解の開拓者であった詩人エズラ・パウンド(Ezra Pound)です。

その様な日米間の理解の向上は、どちらかだけが利する様にデザインされた働きではなく、両者に利益があるものとなるでしょう。しかしながら、もし、日本の存在が、伊勢神宮に象徴される様に、アメリカの人々に彼等は道から逸れていると、彼等はまやかしの神々に引きよせられていると、そして伊勢神宮が正に有無を言わさず私達に思い出させる様に、最終分析において--最終ラインとも言いましょうか--精神的な力の方が、お金の力や、機械(政府)の力より遥かに強力な力であると気付かせる助けになるなら、合衆国がより恩恵を受ける側なのかも知れません。

神殿内での儀式のサービスは、私は実にとても強力な力の中に居ると云う、私の当初の印象を確認させました。長年、私は日本の宮廷音楽を聴いてきて、そして今、光栄にもセレモニーの音楽を聴く事が出来ました。これは単なる太古の文化のセレモニーでは無く、現代世界の圧力にも関わらず、純粋かつ活き生きと保たれる文化なのです。西洋では、弁証法的な物質主義に宗教はコウベを垂れ、そしてそのメッセージは社会的、社会主義的な目標を抱く事に変えられてしまいました。その結果として、人々は精神的に元気づけられる事を受けられず、そして精神的なエネルギー信念無しで世界の問題に向き合わなければならないのです。

伊勢神宮での数時間から得たものとしては、これは大した大袈裟な経験に見えるかも知れませんが、しかし、私は、単に私がそこで見つけた精神的な存在へのリアクションを述べただけなのです。啓示はたった数秒間である事も出来るし、またそれはずっと後に平穏の中で思い出す事の出来る経験なのです。私が神社にいた間の、全てのそれらの感情を、私は蓄えたけれど、私がそれらを整理して、この訪問の大切さに気づいたのはずっと後でした。今日、このような啓示を受ける事の出来る人は数少無いのです。何故なら、私達は楽しく夢中にさせられる事を目的としているからです。私達は、愉快で、楽しく、嬉しく無いなら、経験するのが好きではありません。けれど、快楽は短い間のもので、そしてもし人が楽しみ続けたいのなら、その感覚は無限に繰り返されなければなりません。これは啓示には当てはまりません。それ(啓示)は一生残る事が出来るのです。人生を変えるだけでなく、一生涯保たれた、啓示を受けた人達の記録は、数々残されているのです。

私達が、一時的なだけでは無く、大切さの無い、続けざまのとても多くの経験を浴びせられるのは、現代生活の不幸な一面であります。もっと大切な経験を受ける事を、私達に可能にし、大切な経験のために、私達を準備させるのが、精神的な生活の力なのです。神社は、私達が力の源で再生される事を許すという、大いなる目的に仕えます。歴史を通して、文明は、その神社が腐敗し、もうそれ以上、力と信仰の源に成れ無くなると、ボロボロに崩れました。これが起こるのは大抵、人々が彼等の神社に相応しく無く成るか、神社自体が腐敗するからです。これを最も得出して表しているのが、キリスト教以前の太古の世界のバアル信仰です。バアル崇拝者達は、彼等の神殿を、日常的に小さな子供が「幸運」のために生贄に捧げられる、売春行為の館に変貌させたのです。バアル教団は歴史から消えましたけれど、彼等のカルトの名残が、今でも世界中で内密に行動し、バアルの例に続き破壊を広げているのです。

人は聞くかもしれません、どうして日本人では無い私が、伊勢神宮を訪問でき、そんなに多くを経験したのか?と。私はそれらの力を経験出来るのは、何故なら私は私自身の正体の自覚があるからです、というのが答えです。古代のギリシャ人が言ったように、人間的でないものは、私には性に合わないのです。私は理解を増やすために、地球の上を歩きます。何故なら私は、私自身の問題に気を取られなくて良いからです。西洋では多くの人が自分の「正体」を「発見」する必要性、「自分自身を見つける」必要性に魅惑されています。けれども、人の正体は秘密では無く、私達が一生をかけて探さなければならない、隠された金脈でも無いのです。人々は自分の正体を受け入れるのを拒みます。何故なら、受け入れるという事に伴う、責任と向き合おうと願わないからです。一度、私達が誰であるかを知れば、私達はこれ以上、私達の人生の勤めから、「私は何かをしたい、でも私はまだ準備が出来ていないのは、何故なら、私は最初に私が本当に誰であるかを、見つけなければならないから、」と云って逃れる事は出来無いのです。これが未熟者、永遠の生徒の、「私はまだ人生の義務を引き受ける事が出来ていない、何故なら私は用意が出来ていない、」とこう説明する者の口実です。事実、地球上の全員に目的と義務があり、自分の正体の継続的な拒否だけがそれらを延期出来るのです。自分の正体を「見つけ」たり「発達」させたり出来る者などいないのは、何故なら人はそれと共に生まれるからです。自らの正体を拒否する者達を、介在するために、多くの職業が育ちました--サイコセラピーの職は正体の拒否に松葉づえを提供します。

これらは伊勢神宮で、私に来た啓示の幾つかです。神々でさえ、時折、休息のために止まらなければならず、そして私達が、神社を建てる事が出来るのは、これらの場所です。私がその地を歩いた時、私は、日本の人々は、彼等の正体を持っていると理解しました。精神的な力の強さとは、それが貴方に、貴方の正体を受け入れる事を許可させ、そしてそれによって、社会の機能する一員と成るのです。私は、私がアメリカのどんな宗教的な建物でも、このような結論に辿りつけたとは信じないのは、何故なら、それらの建物は自然を含まないからです。伊勢神宮で、この神社は地球の人間と、太陽の女神の存在とのパートナーシップの調和を祝う場であると私は確信しました。私もまた強烈な内なる平穏を楽しむ事ができ、その場にいた他の人達の顔に見られた様に、それは、私が他の二か所だけでしか見つけられませんでした。コロラドの神々の庭園、そして火山地帯のイエローストーン国立公園です。日本で、伊勢神宮で、私は、人生の壮大さを、自然の雄大さを、未来への希望を経験しました。

Comments:

Comments:フォーム

  • URL:
  • Body:
  • password:
  • Private comment:
  • Only the blog author may view the comment.

Trackbacks:

Profile

リアルNHK

Author:リアルNHK
何かお探しものですか?

貴方/貴女は



番目の訪問者です。

どうぞごゆっくりおくつろぎください。

Latest journals

Latest comments

Latest trackbacks

Monthly archive

Category

Search form

Display RSS link.

Link

Friend request form

QR code

QR