統一/宇宙的一つ:第二巻:第二十八章
統一/宇宙的一つ:第二巻
An exact science of the One visible and invisible universe of Mind and the registration of all idea of thinking Mind in light, which is matter and also energy
一つの眼に見える、そして見えないマインドの宇宙の正確な科学と、物質であり、またエネルギーでもある、光の中の考えるマインドの全てのアイデアの記載
Walter Russell
ウォルター・ラッセル著
第二巻
第二十八章
結論
Pdfヴューアー266ページ、本文250ページより:

これ等の記述の趣旨は、時間、空間、そして運動における人の反復される冒険の中で、人によって行われる、幻想を通して現実に再び戻る旅の知識によって、永遠の生命に繋がる道に焦点を照らす事です。
その道に焦点を当てるために、多くの実質(substance)、形状(form)、そして物事を、一つのものの現実における、それらの土台に戻り、現れるシミュレーション、反映、そして幻想へと辿る事が最初に必要でした。
そう試みる事において、この1冊の中で、その実の原理に触れる事は可能でしたが、現存している間違った概念については、軽く訂正する事しか出来ませんでした。
後の本は、運動のとても多くの効果をさらに詳しい詳細で吟味するでしょうが、多くの効果の一つの原因の基本的な原則は、拡大されないでしょう。
それは拡大される事が出来ないためです。
この端的なまとめの章は、人が「創造された宇宙」と呼ぶ全ては、マインドによって施行されたアイデアの形状の幻想でしか無いと言う、今まで記述されて来たもの全てから引き出された一つの教訓から書かれます。
アイデアと、形状におけるそれらの表現には、全く存在がありません。それらは非現実(unreal)です。それらは考える事のエクスタシー(良い意味での有頂天)における、マインドのイメージを造る能力によって、造り出されたイメージでしかありません。
それらの存在の現れは、唯一、運動によるもので、そして運動の効果に限定されています。
対峙している運動(motion-in-opposition)と幻想の全ての効果の増大は、マインドの宇宙/統一的な白い光(エネルギー/波)の対峙している非運動(non-motion-in-opposition)のシミュレーションにおいて、その限度/制限を強化します。
対峙している運動と幻想の効果の全ての減少は、星雲化(nebulize)させ、そして最終的に慣性(不活性)における非運動の白い光へと消滅します。
全てのアイデアは、一貫的に変化しています。
全ての運動の効果は、一貫的に変化しています。
変化している物事は、存在を有する事は出来ません。
対照的に、人が、眼に見えない宇宙の、頼る事の出来ない非現実性と呼ぶ全ては、実際に唯一の現実です。
マインドは、宇宙において唯一本当のもので、そしてマインドが存在する全てです。
マインドは、宇宙における唯一の実質です。それ以外の実質はありません。
考えているマインドは、宇宙において唯一、生きているものです。マインドの考える事は、一つの実質の生命の原則です。
考えているマインドは、アイデアを進化させ、そしてそれらを運動を通した形状の中に記録/登録します。
人の、物質の固体の物理的な宇宙は、マインドによって考え出されたアイデアの形状の集合体で、一時的に浮遊へと保たれます。
もしこれらの前提が正しいものなら、人はより知性的に、「神とは何であろう?」と言う最上級の問いに答えられるでしょう。
もし一つの実質、一つの存在、一つのマインドしか存在し無いなら、その一つは私達が、神と呼ぶものでは無いでしょうか?
もし私達が形状として知る全てが、考えているマインドのイメージを造る能力の、変化している幻想でしか無いなら、すると神は無形状で不変であるはずです。
もし一つのマインドしか無く、そして人はマインドであると認められるなら、人の形状は非現実で、本当の人は無形状ではないでしょうか?
もし本当の人が無形状で、そして人のイメージが彼の考えている事の幻想でしか無いなら、人の幻想は自己創造では無いでしょうか?
そして、人はまた、神でもあるのではないでしょうか?
そして、全ての物事もまた、神では無いでしょうか?
全ての物事は一つのもので、多くの非現実的な物事の現れにおける、一つの本物の事の幾つものアイデアでは無いでしょうか?
私達が「天界/天国」と呼ぶものは、人の考える事のイメージでしかないのでは無いでしょうか?
もし、形状は存在を有さず、そしてこの宇宙において時間、場所または位置を有するものは何もないと此処にされた明言が、此処に提示された運動の法則に従うなら、すると人の「天国」と「地獄」は幻想であると結論されなければなりません。
もしその様な場所が存在しているのなら、それらはこの宇宙の中のどこかになければなりません。それらがその(宇宙の)外部にある事は出来ません。
もしそれらが宇宙の中に存在するなら、それらの存在は次元を有さなければなりません。
もしそれらが次元可能(dimensionable)なら、それらは物事の変化している法則の対象で無ければ成りません。
重力と放射の法則から逃れられる特権を有する宇宙の「部分」はありません。(注:電磁力)
人の「天国」と「地獄」は、外側のマインド(小脳)の非理論的な概念です。内的なマインド(大脳)はその様なイメージの仕方全体を否定します。(注:内側のマインドは松果体を指しているかも知れません)。
それらは、自然の法則に無知で、復讐する神を信じ、恐れ、そして奇跡を神的な特質として要求したマインドの考えの、迷信的な時代から受け継がれた伝統です。
人は、マインドの全てのアイデアが自己創造である様に、自己創造です。
私達が「自己/自我」と呼ぶものは、不変の無形状の一つによって考え出されたアイデアの変化している形状でしかありません。
個性は、故に、変化している形状の物事における存在のその現れ以外、存在しません。
もし個性が、保たれた運動の多かれ少なかれの効果であるだけなら、運動の停止と共に消滅し、運動のサイクルにおける絶対的な慣性を通過する地点において、個性は形状と共に消滅するでしょう。
もし個性と形状が唯のアイデアで、考える事の電磁的な力によって、存在の現れにおいて保たれるなら、すると人が神と呼ぶものは、形状を有する事も、彼に与えられた個性を与えられる事も出来ません。
神は宇宙/統一的で無ければ成らず、唯一的で無ければ成りません。
もし神が宇宙/統一的なら、するとその他の全てのものも、宇宙/統一的です。


もし神が、全知で、全能で、そして全知全能なら、すると宇宙の全ては、全知で、全能で、そして全知全能です。
人が、神はマインドであり、そのマインドは一つの生き物であり、パルス(衝動/鼓動)していて、考えている力で、そして彼はその力であると学ぶ時、すると人は彼の進化において、次の段階に辿り着きます。
人が、真の考える事は、運動と反射運動の均整で、偽り(untrue)の考える事は、不平等(unequal)で対峙した運動と反射運動であると学ぶ時、そして神または人へ、訴える事の出来ない、絶対的な法則に沿った、反射運動を通して、彼の不平等な運動の成り行きを苦しまなければならないと更に学んだ時、彼はすると真に考えます(悟ります)。
人が、彼の考える事の全ては、彼自身を創造している魂の、進化しているアイデアの記録を構成する、重い主音(master-tone)において電気的に記録されていると学んだ時、そして悪く対峙した記録は、より平等に対峙したものより、何世紀も彼を背後に(後進して)保つ事を見つけた時、彼はすると彼が創造している魂の一種として考えます。
人が、この個体の物事の宇宙は、それらの物事のアイデアの反映でしか無く、そして彼は、彼自身によって、永遠において考え出された、彼自身のアイデアのシミュレーションでしか無いと学んだ時、すると彼は内的な考える事のエクスタシー(良い意味での有頂天)を知ります。
歳と「死」は、若さと生命と共に変化している時系列/継続でしかありません。
運動のこれらの対峙している2つの効果は、一緒に生まれますが、それぞれは生命の波(エネルギー/波)に沿って、異なった方向に旅/移動します。それらは、一つの継続的な生命の派生が終わり、そしてその退化/分解が始まる成熟においてお互いと交差し、時間、空間、そして運動を通ったもう一つの旅のための、もう一つの圧倒性の変化において、退化/分解が終わり、再派生/繁殖が始まる、永遠の生命の慣性の平面において、再び出会います。
「死」は存在しません。
暗闇は存在しません。
この光の宇宙には、生命しか存在しません。
神は生命です。
神は光です。
神は存在する全てです。
人が、神の力を、自然の外側、そして彼自身の外側に求める限り、彼が、彼の早期の遺産である個人的な神を恐れ平伏す限り、彼は彼自身のイメージする事の奴隷であり続けるでしょう。
宇宙的な力はマインドであり、そして人とその他全てはマインドであると知る事は、内的な考える事のエクスタシーと共に、人を鼓舞する事です。
神の力は、光の宇宙的な言語において内的に考えている、鼓舞された人に語り、それは人々が理解する事を熱望した時に、全ての人々が理解するでしょう。
(今まで)少数しかいませんでしたが、無数の人々が内的な考える事の光を知るでしょう。
ブッダである、ゴータマは、後にモハメッドがそれを知った様に、多少それを知っていました。
アブラハムは少々、それをヴィジョン化しました。
ヤコブはその光をよりはっきりと知りました。Sheknahの象徴は、彼のエクスタシー的なヴィジョン化です。
モーゼスは、内的に考える事のエクスタシーをよりはっきりとした鮮明さで知っていました。
アブラハムは、ヤコブの中で再び生き、そしてモーゼスの中で、そして再びデーヴィッドの中で生きました。
デーヴィッドと、彼の創始的な日々の預言者達はより更に鮮明にその光を知っていて、これから来る者達が、進化していてそして退化している物事の音的な法則を、彼等が知れる様に、7つの光(ドレミファソラシ)の象徴を残しました。
デーヴィッドはイエスの中に再び生きました。
ナザラスのイエスは、その全体性の全てにおいて、光の宇宙的な言語を知っていました。
彼は、それまで人が知った以上に、内的な考える事のエクスタシーを知っていました。
彼は、それ以前、またはそれ以後の誰もが知っていた以上に、原子の構造を知っていました。
イエスは全ての物事の宇宙/統一性、全ての物事の一つ性(One-ness)を知っていました。彼はその知識を、彼のとても必要とされた兄弟的な愛として、当時の鈍い知性で、野蛮で、みだらで、愛の無い世界に与えました。彼は再びジョンの中、そしてポールの中、そしてプロティヌスの中で生き、そして宇宙/統一的な考える事の光を知っていた、これ等全てのメッセンジャーの中で生きました。
イエスの時代、人は、彼(神)の素晴らしい教えの完全性のために準備が出来ていませんでした。
人は未だ新しすぎました。彼は未だに、彼の知性の醗酵成熟の途中で、好意的な統治のために、彼が訴える事の出来る、伝統的な復讐する神を、未だ求めていました。
イエスは人に、全時代の一つの大いなるメッセージを与えました。イエスは、その統治からは訴えが無い、公平な愛の宇宙/統一的な白い光における、全ての物事の宇宙/統一性を教えました。ですが本の極少数が理解する事が出来ました。
今日、世界は準備万端で、彼のメッセージの完了を意欲的に待ちます。
イエスが、「私は未だに貴方に多くの事を伝えたいですが、貴方は今、それを理解する事は出来ません、」と言った時、彼は宇宙的な力の、彼の完全な知識に言及していました。
ジョンの書の第16章に記録された様に、真実の魂が「全ての真実へと貴方を導く」そして「彼はこれから来る事を貴方に見せる」と、彼が更に約束した時、彼は、進化している人が、彼の不完結なメッセージを、時々、「受け入れる」(理解する)事が出来る事のよる完了を預言しました。
純潔な光の点灯は、イエスの中において完全でした。
人への彼のメッセージを完結させる光のメッセンジャーは、彼の言葉:「聖父が持つ全ての物事は私の物で:故に私の物を彼は取り、そして貴方に与えます。」からの光の下で、彼のアノイント(オイルを塗る儀式/メシア/王)の完全性を理解するでしょう。
イエスは、彼の時代に十分に人に与え、賢明にも、後世に与えるべきものを与えないでおきました。
此処で光から翻訳されたものと、これから来るものは、今夜明けている人の日々のためのものです。
宇宙/統一的な考える事の光を知る事を望む全ての者は、彼等の内的なマインドの中から、原因/目的の光を思い出すのに十分に、原因/目的の効果を彼等が理解した時に、唯一それを知る事が出来るでしょう。
人にその日が来た時、すると人はこう知るでしょう:
そうある全ては、そうあるその他全てのもので無ければ成りません。
それ自体が唯一のものはありません。
宇宙において、何かの2つ、2つの実質、2つのマインド、または2つの存在は、ある事が出来ません。
全ての物事は宇宙/統一的です。
一つです。
<図表:253ページ、創造している宇宙は一つから現れ、そして一つへと消滅します。>
<完>