統一/宇宙的一つ:Book I

The Universal One
統一/宇宙的一つ
An exact science of the One visible and invisible universe of Mind and the registration of all idea of thinking Mind in light, which is matter and also energy
一つの眼に見える、そして見えないマインドの宇宙の正確な科学と、物質であり、またエネルギーでもある、光の中の考えるマインドの全てのアイデアの記載
Walter Russell
ウォルター・ラッセル著

前書き:

進化している人に、人が出来る究極の奉仕は、人が神、またはマインド、もしくはその他の名前で呼ぶ、一つの宇宙的力に関する、今まで答えられなかった問いに、流動的に、人のために答える事です。

長い間、人は、彼の知覚を超えて存在する、目に見えない宇宙から覆いを破り裂き、彼の知覚と彼の正確な理解の範囲にそれをもたらす知識を、我慢強く待っていました。

一つのマインド、一つの力、そして一つの実質の存在の、数学的で測る事の出来る証明は、人に物質の上の完全な操作を与え、その創造する力は、同じ限度の中で、神の創造とさえも同等です。

人は、彼の全能を知っているなら、全能です。その日が来るまで、彼は人です。

人は神に成らなければ神を決して理解する事が出来ないとヴォルテールは言いました。

人は神で、故に神は人の理解の中です。

ゾディアック


人はマインドです。人は物質です。マインドと物質は一つです。マインドです。

これはマインドの宇宙で、限りある宇宙で、原因において限りがあり、そして原因の効果において限りがあります。限りある宇宙は無限である事は出来ません。無限の宇宙は存在しません。

原因の効果が限定される、有限の宇宙は、その原因においてもまた有限でなければならず:ですから、測量出来る原因が知られている時、人は全ての効果を理解し測る事が出来ます。

原因の効果は複雑で人を困惑させるかも知れませんが、原因自体は単純です。

この宇宙は、一つの変わらない原因(元素/波/エネルギー)の、複数の変化する効果です。

全ての物事は統一/宇宙的です。統一/宇宙的で無いものはありません。それ自体が唯一なものはありません。人とマインドそして全ての創造的な物事は統一/宇宙的です。「私唯一が私である。」と言える人はいません。

一つの宇宙、一つマインド一つの力、一つの実質以外に何もありません。

人がこの測る事の出来る正確性を知った時、人は宇宙的であるものの中において限界を有しません。

人は、すると、全ての知識は人の中にあると知り、人の内的なマインドの中からそれを思い出す、人の熱望の対象である事を知ります。

知識は外的に得るものでは無く、単に内的に思い出すものです。内からの知識の思い出しは、考えるマインドの電磁的な行程で、車輪を回すために派生される同じ力と同様に、正に人の操作の下です。

人は「光の下で考え」なければならず、彼の考え方が、全ての運動を測量する電磁的な周期性においてでなければならないのは、彼自身がその様なもので、それ以外の何ものでもないからです。

どうやって内から光の下で考えるかを知る事は、全ての知識の扉を開く事です。

完璧な考え方の中に全能はあります。この宇宙において、考えるマインドのエネルギー以外の力はありません。

思考は運動と周期性、または運動の状態の原因で、考えるマインドによって原因され光の中で記録されるものを、人は「物質」と呼びます。

物質(matter)は光(light)です。光でないものはありません。

私達は、私達のこの文明が極度に先進したものと考えがちです。それと対照的に、今日の人は、彼の進化において極度に原始的です。彼は重荷を背負い、地上の中で重度な労働に汗しますが、何故ならそれは、彼による自由な使用が可能で、彼の知識(彼が知る事)をひたすら待っている宇宙的力についての、彼の哀れな無知のためです。

一つの事の知識は、人が彼自身の肩の上に就けた首かせを解き放ちます。

この知識は、此処において測量出来る新たな観念の新たな流動的科学の言語で書き記され;それは今まで説明出来なかったものを説明します。

言語は新たな知識を表現するために言葉不足です。孤立化された行の不充分な言葉の分析を通して理解を見つけようと試みるよりも、むしろ、此処に書かれた事の全てを取り一緒にする事(理解する事)によって、意図は理解されると希望する事において、一見矛盾する様な言葉が使われなければなりません。

人の心の中に答え無くあるこれ等の問いの全てには、2x2=4の様な流動的(ダイナミック)な答えがあります。

宇宙的一つに関する信仰と理論は、考えている人の中に場所を必要としません。彼等は暗闇の中でさまよっています。全ての物事は光り(波/エネルギー)の中で答えられます。

この宇宙はトーン(音波)的なもので、次元の無い宇宙的な光りです。

全ての自然(本質)は一つの力の秩序的でトーン的な周期性の連続で、考えているマインドの複雑なアイデアへと集結され、そして光り、または物質、もしくは効能/能力の相互変化におけるエネルギーの下で記録/認識され、その全ては変数ですが、一つの実質の理解でき、測量出来る運動の状態です。

全ての次元は幻想で、一つの現れで、上昇する効能によるもので、低下する効能の必然的な順番に消えなければならず、そして再び終わりの無い現れと消滅のサイクル(輪廻転生)において、再び現れなければなりません。

「スピリット(霊)」と定義された内的なマインドのより高いオクターヴ(音階)で考える事の出来る人は(良い意味で)有頂天な人です。

有頂天な人は、内的に考える事である、宇宙的天才に鼓舞された人です。

鼓舞された人はその考え方が内的で、光の下からのもので、長く残る物事を産出するのは、考え方の有頂天です。内的な思考の有頂天の中で創造された働きは、それだけで長く残ります。

光の下で考える事は、進化している人によって発達させられた新たな力ではありません。それはその力を使用する彼の知識を唯一待ち続ける彼の中に今内在する力です。それは単に、正に人が彼の車の変化するスピードを操作出来る様に、マインドの思考過程を構成するエネルギーの統一的一貫性の多くの次元を完全に操作する人の認識です。

人が、次元のこの宇宙の、彼の客観的な考え方の低いスピードを、光の中で次元が消滅する彼の内的思考の高いスピードに変えられる時、人は超人に成れます。その時、その人は宇宙的天才です。

は、それにおいて、神聖な観念が素朴に書かれている宇宙的な言語です。

原則的にその基本的な前提が間違いで、その実行において無駄な、人の現代の宇宙の観念は、破り捨て去られ光の中で素朴に伝えられる真実の上に再構築されなければなりません。

彼の概念において原始的で、人は宇宙を見えるものと見えないものに分離し、神聖なものの中で最も神聖なものを見つけようと暗闇の中で目隠しされ望みなく手探りしています。

見えない宇宙などありません。最も崇高なものの最も内的な聖域への道は、リンカーン高速(道路)ほど鮮明に印されています;ですが人は、光の中に常に記されていた素朴な言葉のメッセージを読む事が出来ませんでした。

人の最も素晴らしい道具、分光器は、人がまだその読み方を学んでいないので、何も人に教えません。人は光のこれらの多くの線が、光のアルファベットの文字であり、それにおいて宇宙的な一つの崇高な考えを宇宙的な光の言語で記す事を知りません。

鉄のスペクトルは人にとって鉄のスペクトルでしかありません。これらの多くの光る線の宇宙的な重要性について、人は実に盲目です。

再び、ヘリウムの中で人はその線をヘリウムの線としてしか見ず、人の重荷を軽くするために使われる事を待つ莫大な重要性の6つの新たな要素を単純に伝えるその素朴な話は見えません。

そして人が「不活性なガス」と呼ぶこれらの最も重要な要素(元素)について、それらがその他のどの要素とも融合しない事以外は何も知られていません。おお、何ともったいない事でしょう!

原子構造と現代の電気的理論の間違った概念、エネルギーとその配信、伝達、放射、そして重力、そして光度と呼ばれる電子-化学状態の対峙する運動の、これ等の全ての間違った運動の概念、そして物質の概念は、真実の上で再形成されなければなりません。

真実と共に来るのは知識で;知識と共に来るのは意志によって変格させる力で、そして単純に、人の必要性に見合うために、沢山ある物質の実質を最も希少なものに変える事です。

人がその中にそれが記され表されていると知っている時、自然が造り出すもので、明らかな無から、人が産出する、または融合する、もしくは「創造する」事の出来ないものはありません。今日の人の奇跡は、明日の当たり前の出来事です。

文明は、人の考え方で高揚され、または暗黒時代の底無し穴に落とされる事で、現れたり消滅したりします。

このメッセージは極少数の人達では無く全ての人類のためのもので、それが彼の手に委ねるのは、その力の使い方によって、彼を栄光化する事も出来れば、奴隷化へと恐怖させる事も出来る力です。

どちらにしても問題なく、それは最終的に真実が生き残るからで、人は人の運命を完結(達成)させるからです。

真実は生きます。真実以外は何も無く、そしてそうで無い様に現れるものは存在せず、そして故に無く、決して存在しません。

Book I
第一章
神聖なマインド – 神 - スピリット(霊)
創造と創造の秩序

始まりは神です。

黄道


神は一つしかありません。

宇宙は一つしかありません。

神は宇宙です。

神が一つで宇宙がもう一つではありませn。

宇宙は神の別々の創造ではありません。それは神です。

創造された宇宙はありません。

常に無かったものはありません。

全ての創造された物事は始めからでした。それらに始まりはありません。それらは存在へと来るのではありません。それらは常にありそしてあり続けるでしょう。

創造が人に意味するのは、以前には存在しなかった何かが、存在へと来る事です。人の創造の概念は、それまで存在していなかった物理的で眼に見える宇宙が存在へと来る事です。

人のマインドにとっての創造主は、無かったものが存在へと来る原因と成った物理的な物質の宇宙を創造した、人からは別々で離れた、崇高な存在です。

人は2つの宇宙の概念を有します:スピリット的なものと、物理的(実体的)なものです。神はスピリット的な宇宙で、完璧だと推測されます。物質は物理的宇宙のもので、非完璧とされます。神は、彼自身から別々で離れた、非完璧な物理的宇宙を創造したとされます。

人は完璧で全能な神を考えます。完璧で全能な神は非完璧なものを創造出来ません。

彼は、彼自身よりも劣るものを創造出来ませんでした。

彼は、彼自身より優れたものを創造出来ませんでした。

神は、彼自身以外のものは創造出来ませんでした。

神は、彼自身以外は、彼自身より優れたものも、劣るものも、創造出来ませんでした。

一般的に人によって理解される感覚において、神は何も創造しませんでした。

「創造された」ものは何もありません。

これは「創造する」宇宙であり、「創造された」ものではありません。

スピリット的宇宙から実質的に異なる物質的宇宙の創造主としての、崇高な存在の人の概念は、間違いです。

神はあるもの全てです。

神の向こうには何もありません。

神より優れたものは何もありません。

神より劣るものは何もありません。

神と対峙するものは何もありません。

創造は、より多くでも、より少なくでも無く、それは常に始めからありました。

それは神以上にもそれ以下にも成る事が出来ません。

「創造」は、実質において既に存在するものの継続性における明らかな融合です。それは一つの不変の実質の周期的に変化する状態です。それは進化です。

非創造(De-creation)は、明らかに融合された物事の継続性の分解で、その実質に戻る事です。それは溶解です。

神は現実で、そして実質の中に存在します。

神は考えているマインドです。

神の実質、または体は光です。

神である、一つの宇宙的実質は、触れて感知出来る/確実な実質で、考えている実質で、理解する事と描写する事ができ、「創造された」物事の中の一つの宇宙的実質の人の観測を通して、人が親近感のある原則を有しています。

全ての「創造された」物事の実質は光です。

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考えているマインドの一つの実質は存在する全てです。

その「創造された」宇宙は考えているマインドのアイデアの物質における登録です。

マインドは光の中で表現されます。

光りは考えているマインドのエネルギーの倉庫です。

宇宙のエネルギーは、考えているマインドのエネルギーです。

宇宙はエネルギーの宇宙です。

エネルギーは光の中で表現されます。

マインドは宇宙です。

マインドの実質は「スピリット的」実質です。

スピリットは光です。

スピリットは究極で、永遠ですが、実質は有限です。

スピリットは無限ではありません。この運動の宇宙の中で無限なものはありません。

無限の知識と無限の力を持つ無限の神の、無限の延長の無限の宇宙の創造主の、人の概念は、運動の法則と一致しません。

これは全ての原因と原因の全ての効果の両方にとって、確実な限度の境界の無い、永遠で、次元の無い宇宙です。次元は効果の関係の幻想で、それはそれら自体が幻想以外のなのものでもありません。

全ての原因は人によって理解可能で、そして全ての効果は人によって測定可能です。限度された、測定できる宇宙は無限である事は出来ません;そして彼の原因の幅において制限された神は、それが事実上、効果の幅の可能性を制限するので、無限である事が出来ません。

光りは、運動しているマインドの、生きている実質です。それは一つの実質の創造する原則です。

一つの実質は、一つの宇宙的マインドの、エーテル的で、「スピリット的」な実質です。

存在する全て、存在した全て、または存在するであろう全ての、「創造された」宇宙全体は、運動する一つの実質であり、光です。

神は光で、そして彼の中には闇は全くありません。(ジョンi-5)

物質は光です。

神と物質は一つです。

スピリットと物質は同じ実質です。

その実質は光です。

宇宙において2つの実質はありません。

宇宙の中に2つの実質がある事は出来ません。

宇宙的マインドの実質は生きている実質です。

人が生命と呼ぶものは、マインド全体的に潜在的な性質です。

光りは生命です。

宇宙の中に一つの生命以外ありません。

宇宙全体が一つの生きていて、息をして、パルスする存在です。

宇宙の中に2つの何かはありません。

宇宙は存在する全てで、一つです。

第二章
生命の原則
Life is the pulsing, electro-magnetic oscillation of thinking mind
生命とは、考えているマインドのパルスしている電磁的振動です

全ての生命は不死の生命です。有死の生命はありません。

生命は、全ての物質の、活性化させる性質です。

生命は、全ての物質であり、全ての物質の中にあります。

人の生命の概念は、理論的ではありません。

人は生命を、物質からは別の性質として考え、無機的(inorganic)物質の調合された要素の胎動感(クイックニング)が、生きていて、機能する有機的(organic)な存在に成ると考えます。

人は有機的な物質を、活性性と知性が吹き込まれ、機能し始めるものと定義します。

人は無機的な物質を、生命が無く、活性性も知性も無い、それらの要素または調合と定義します。

人は生命を、好ましい温度と状態で自発的に派生したものとして考えます。

その様な概念は真実の概念ではありません。

生命の原則を探すにおいて、人は、生命の無い物質を胎動させる細菌に一致する何かを発見しようと試みます。

生命は細菌では無く、物質に生命が無いわけでもありません。

生命は始めから常に、全ての物事であり、その中にあり、永遠です。

生命には始めはありません。生命には終わりもありません。生命は永遠です。

生命は、全ての無機的、そして同じく有機的物質の中にあります。

生命は、全ての要素と、全ての要素の原子と、全ての要素の調合の中にあります。

生命は、全ての原子、原子の惑星、そして原子の宇宙を囲む天界の、合計の中にあります。

黄道


生命は、考える事の行程を構成する、電磁的なパルスの変化の連続によって、マインドの実質に発生させられる効果です。
この効果の進行は、融合的な光の中で記録され、または人が「成長」と呼ぶ、全ての物質と全ての物事に潜在的な、秩序的で周期的な現象の中に、それ自体を現させます。

全ての「成長する」物事は、生命の原則が吹き込まれます。

全ての物事は「成長している」物事です。

全ての物質は進化しています。

全ての物質は成長しています。

全ての物質は生きています。

生命は単に、物質における、考えているマインドの運動の状態の記録です。

マインドの実質は、人が「物質の要素」と呼ぶ運動の多くの状態の容姿/現れを有します。

その「物質の要素」は実質を変化させません。それらはそれらの運動の状態においてのみ変化します。

全ての運動は周期的で進化的です。

全ての運動は均整です(釣り合っています)。それ以外の運動は可能ではありません。

全ての運動は対極に分離される(事の出来る)容姿/現れを有します。

これ等の運動の対極はこれ以下、「慣性(不活発/惰力)の運動」と「対峙する運動」と呼ばれます。

人が物質と呼ぶ現れの全ては「対峙する運動」です。

対峙する運動は、圧倒的に電気的か磁気的かのどちらかです。それは運動している2つの対峙する力の抵抗による、それらの不均一(不釣り合い)の状態に保たれた不釣り合いにされた圧力の運動の状態です。最大対峙運動の点は、対峙する圧力がそれらの最大圧力点に届く、単位またはシステムの中核です。

物質の形状は、慣性の運動の中へと消滅します。

慣性の運動は同等に電気的で磁気的です。どちらの力も圧倒的ではありません。それは圧力が均一な(釣り合った)状態です。

人の生命の概念は、エネルギー化された有機的実質です。

死はありません。生命は永遠です。

宇宙の一つの実質は、非エネルギー化される事は出来ません。

人の生命の概念は、対峙する運動の属します。

人の死の概念は、慣性の運動に属します。

生命は、原則的に、運動に属します。

これは運動の宇宙です。

全ての運動の原因は、一つの宇宙的な生きている存在の考えの流動的(ダイナミック)な運動で、それを人は神、またはマインド、もしくはその他の名前で呼び、その全ては実質的に、聖父、または神の一つの概念です。

考える事は、秩序的で進化的な行程で、絶対的な制限の周期的行程です。

考えているマインドの全ての運動は、エネルギーの宇宙的定数の最大速度の中で生まれます。それは、6つのフル・トーン(全音?)、一つのダブル・トーン(二重和音?)、そして一つのマスター・トーン(主音)、それぞれの10の下がるオクターヴ(音階)と、最後の4音階のそれぞれにおけるミッド・トーン(中音?)の変化する数の、周期的で対峙する減速と加速の全音階で機能します。

その7つのの音(ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ)は「物質の要素」と呼ばれるもので、一般的に受け入れられているメンデレエフの元素周期表において、8つのグループに不正確に分類されています。これらの要素の現れの原因に成る運動の全ての効果は、それによって「対峙する運動」と定義されるものです。

それぞれの音階の主音は、音階の中で起こる全ての運動です。

主音は、丁度ダブル・トーンが運動と反応の折り返し地点である様に、反応と運動の折り返し地点です。

それらは運動しているエネルギーのそれぞれの新たな表現の始まりで、オールド(昔?古さ?)の記録です。

それらは生きの吐き出しの終わりで、生きの吸い込みの始まりです。

それぞれの音階の主音は、マインドの考える行程の元々の運動の受け継ぎです。これらの主音は、メンデレエフのテーブルで、ゼロ・グループに分類される「不活性なガス」です。

これらの不活性なガスの運動の状態は、慣性の運動です。

慣性の運動は2つの質量の間にある均一な圧力の状態です。

その不活性的線、または平面は、全ての質量がそれらのポテンシャル(効能/能力)を放出する分別している線、または平面です。

それはポテンシャルの2つの対峙する部分(エリア)の最も低いポテンシャルの線、または平面で、其処で対峙する圧力は中和(ニュートラル)化します。これは2つの対峙する部分の最小圧力の平面です。

慣性の運動と不活性なガスを代理する主音は、白が色に生むのと同じ関連を要素(元素)に生みます。それらはそれら全ての登録です。白はスペクトルに含まれておらず、その中に居場所はありません。不活性なガスは元素に含まれるべきではありません。それらはその中に居場所を持ちません。これについてその相応しい処で後にもっと記述します。

10音階は運動の進化の状態のサイクルを構成します。このサイクルは神聖な可能性の最大の限度を含み、その向こうには何も無く、ある事は出来ません。

<5ページ:メンデレエフの周期表>
質量の次元である原子の重さにおいては正確だが、その他全ての次元と周期性において間違っている。マルのつけられたものは、音階周期性において間違った場所で、バツのついたものは正しく位置付けられている。

davinciのzodiac


そのサイクルは最も高い音(元素)から始まり、人の見られていない宇宙を通って順番のスケール(音階)で、人によって知覚可能な最初の元素である水素に届くまで下ります。

見られていない宇宙(unseen universe)はありません。

水素に続くこれらの音は、人の目に見える、または物質の「物理的」宇宙で、10番目の音階へと続きます。此処で要素的な融合と分解は、その始まりの均整(釣合い)を得る事によってそのサイクルを終わらせます。

全ての運動は振動的で、それぞれが電気的で磁気的である、重力と反発の2つの明らかに対峙する力の間で弧(波形状)を描きます。

この振動的運動はパルスしている息の吸い込みと吐き出しで、呼吸で、それが単位であれ、単位のシステムであれ、質量であれ、全ての物質の特徴です。

これ等の2つの明らかに対峙する力はマインドの父-母的力で、それらが一緒に加えられると、一つの力しか造り出しません。

宇宙的時計には一つの振子しかありません。

「創造された」物質の宇宙と呼ばれる全ては、それらの対峙を発揮するこれらの2つの明らかに対峙する男性-女性的力の効果です。

対峙する運動の全ては、重力的と反発的の両方です。これは全ての物質の特徴です。

質量が消滅する処である不活性的線または平面における運動は、重力的でも反発的でもありません。故にこの線または平面の上で運動の効果を記録する主音は、周期表に含まれるべきではありません。

全ての物質は、周期性と変化する運動の対極の連続によって特徴され、対極のそれぞれは連続に圧倒的(波形状)です。

それぞれの対極の力は、お互いの原因です。対極は運動の全ての効果の特徴的な形で、そしてその現れ以外に存在はありません。不活性において、この形は消滅します。運動と物質は混同されるべきではありません。

人が理解する物質としての物質は、運動の状態によってのみの形です。

物質における形状の創造は、そうであり、常にそうであった、これ等の物事の明らかな融合です。

物質における形状の非創造は、明らかに融合された物事の明らかな分解です。

創造は、多くの複雑な実質と物事の形への、一つの単純な目に見えない実質の変格、または融合です。

創造は、とても複雑なアイデアを印刷するために幾つかの文字の典型(タイプライターのキー)を集めるのに比べられます。

非創造は、印刷されたページの上でアイデアに表現を与えたその役割を果たした後に、元の戻された典型に比べられます。

物質は、正に書籍が図書館の複雑なアイデアへと集められた典型である様に、この宇宙の複雑なアイデアとして結晶化された光です。

物質は、丁度文字が文学の記録の媒体である様に、光の記録の媒体です。

物質は重力的に集められた光の形状の形で、形状の消滅へと放射的に分解されます。

その収集行程は人が生命と呼ぶものです。

その分解行程は人が死と呼ぶものです。

光りは、常にそして永遠に、光として存在します。

全ての物質は、それによって全ての運動が表現される、波の中の運動の証拠の次元の変化による、光の状態の種類(変化)です。

人にとって、物質は多くの実質の複雑性と多くの物事を意味します。

複雑性と変化性は、実質では無く運動に属します。変化しない実質は、一つしかありません。

変化の表れは実質では無く運動に属します。

人は運動の宇宙の中に生き、人が完璧に見慣れるこれ等の単純で、明らかな幻想を除いて、現れと幻想の宇宙は、人を欺きます。

人は物質が変化し、そして多くの実質があるとあくまでも断言しますが、人が走る際に月が木の後ろを道路に沿って走ると主張する事を夢にも思いません。

ですが一方の主張は、もう一方と同等に道理にかなっています。

物質とマインドと光とエネルギーは永遠です。

それらは定数です。それらは原因です。

形状と運動は幻想です。

それらは束の間です。それらは効果です。

第三章
Mind, The One Universal Substance
マインド、一つ/唯一の宇宙的実質

マインドは宇宙です。それは存在する全てで、存在した全てで、存在するであろう全てです。

マインドは実質で、物質/材料(material)的実質です。

マインドのその実質は創造の土台です。

それは宇宙の種です。宇宙の種の中にあるのは宇宙全体です。

宇宙的マインドの実質には、始まりも、終わりも、そして境界線もありません。

それは全て知性で、圧倒的(all-powerful)で、永在(all-present)的です。

一つの実質は、絶対的に摩擦が無く、温度が無く、圧縮不可能で、拡張する事が出来ず、染み込まれる事が出来ず、反射されず、非抵抗的(non-resistant)で、非屈折的ですが;効能的に、それが運動における考えている実質に成る原因の中で対峙するこれらの力の流動的な運動を通して、これ等の性質の全ての現れ/姿を含みます。

これ等の性質は運動に帰属し、対峙の運動ウィ通してのみ現れます。

これ等は一つの実質に属するものではありません。これらは、2つの何らかの質量の間にある圧力の均整(釣合い)の不活性な平面(領域)において消滅する現れ/姿で;故にそれらには存在の現れとして以外の存在はありません。

一つの実質の変化の現れの原因は、状態の変化ですが、状態の変化は実質の変化ではありません。状態の変化は実質の特徴ではありません。それは運動に帰属します。

次元の幻想を創造するのは、運動の幻想です。

マインドの実質は、一つの前化学的(化学物質以前の/pre-chemical)実質で、それは全て、現れ/姿/形でしかない全ての要素(元素)と要素の融合構成物の源です。これらの現れは考える事の行程の運動を記録し、そして慣性の運動の完全な温度の無い状態のそれらの源へと消滅し戻ります。

マインドの物質/材料的実質は、全てに浸透するエーテルで、それは分離させる事も、分別させる事も、破壊sる事も、変化させる事も、変格させる事も出来ませんが;効能的/可能性的にそれは、運動の状態において、分類可能性(separability)の全てのこれらの次元の現れを含み、それは考える事の流動的な行程を記録します。

「スピリット(霊)」と「エーテル」と言う言葉は、「固体性」が明らかに測量出来る宇宙の緊密さを表現するのに使われる様に、宇宙の無次元性の希薄さを表現します。

対峙の運動の状態は、対峙の運動または不活性の状態から、部分への分類可能性の表れへの、変化の表れの原因に成ります。これは、熱、冷たさ、色、形状、性別、成長、原子価、イオン化、質量、重力、放射、そしてその他の、運動の効果に結果します。

これ等の効果は、実質の変化でも無く、マインドの一つの実質を分離させたり、変化させたり、分類させたりもしません。これらは、次元以外の何ものでもありません。

全ての効果は次元の現れ/姿を有し;それらはそれら自体において、それらがそう現れられる次元以外の何ものでもありません。

全ての効果の原因は、無次元性です。

原因は存在する事です。

効果は存在する事の幻想です。それは存在する様に現れます(見えます)。

状態の変化は、一つの実質の特徴を変化させる様に現れますが、現れ/姿には存在がありません。

人は現れ/姿・形に慣れています。正に同じように現れる2つの物体は、見方において似ていません。

これは全てが相対的な現れ宇宙で、そしてその他のもものとの関係が無ければ、存在の現れさえ一つも持たないものです。

分類可能性の幻想無しで、空間がある事は出来ません。

出来事無しで、時間がある事は出来ません。

対峙の運動無しで、熱、冷たさ、色、性別、質量、または考える事の効果のどれもある事が出来ない、または現れられません。

対峙の運動の変化可能性(variability)無しで一つの実質の化学性質の変化可能性の現れがある事は出来ません。

人の多くの要素(元素)は、一つの不変的な実質の対峙の運動の状態の変化です。

それらは全て、融解点、特定的重力、原子の重さ、質量、イオン化、安定性、原子価、電磁帯電、中軸的回転(自転)、軌道的回転(公転)、そしてその他多くの特徴の様な、別々ではっきりとしたそれら自体の変化する度合の特徴を持ち、それらは別々で異なった実質の現れ/姿をそれらに与えます。

それらは別々に創造された個別の物事でも、異なった実質でもありません。

それらの分類可能性(separability)と実質の違いは対峙運動の状態の周期性に唯一よるものです。

光りの宇宙的実質は、考える行程を構成する運動の2つの明らかに対峙する力によってセットされる対極の変化可能性による、変化する運動の物質的な実質です。

それは、想像的な考える事の行程の間に、それ自体の現れる粒子を刈り取る、または切り取る様に見えますが、実際にはその刈り取りまたは切り取りの行程において分離されても分別されてもいません。

それは無形状ですが、効能的に、人が形状と呼ぶ全てを含んでいます。

形状は現れ/姿以外の何ものでも無く、対峙運動の効果です。

2つの対極の力の対峙がより大きいと、形状と質量の強直性はより強く、その存在の現れ(形/姿)はよりはっきりとしています。

第三の重力的、そして第三の放射的トーン(音/色、etc.)の間のこれらの要素(元素)の全ては、その原子的構造がそのボリューム(質量)においてとても濃縮(緊縮)していて、最大対峙の運動を表していて、固く、濃密で、凄い強直性の重い固形です。

例えば鉄、銅、金、銀、マンガン、ニッケル、そしてタングステンの様な金属;花崗岩、クオーツ、そして黒曜石の様な融合物形状の要素;そしてダイアモンド、ルビー、そしてエメラルドの様な宝石の形状の要素;それらの要素の全ては最大対峙運動の光の単位(light units)で構成されています。

それらは原子構成においてとても濃縮されていて、そしてとても緊密に融合されています。

<9ページ:人の沢山の実質の源泉を一つに遡る表>

それらの電気的そして磁気的軌道は一つの平面(領域)の中の螺旋で、とても延長されています。それらの溶解点はとても高いです。そのチャート(表)の研究はこれを明らかに見せます。

2つの対極の力の対峙がより弱ければ、形状と質量の強直性はより弱く、そしてその存在の現れ/すがたはよりはっきりとしています(違います)。

それらの音階(オクターヴ)の慣性(不活性)的領域の付近で生まれたこれらの要素の全ては、それらの音階的波のそれらの音的な位置に示唆され、慣性の運動と対峙のより弱い度合と親密な関連を有し、より柔らかく、よりはっきりとしていない実質です。

リチウム、臭素、ナトリウム、塩素、塩、硫黄、ポタシウム、ヨウ素、テルル、マグネシウム、ストロンチウム、そしてルビジウムに様な要素と融合物は、より弱い効能(potential)エネルギーの光の単位で形成されています。

これ等の要素の原子構造は緊密に融合されておらず、開けていて、ネビュラ(雲状/不透明)的で、とてこ広げられています(空洞的です)。それらの電気的で磁気的な軌道は多くの平面(領域)の螺旋で、それらの位置がそれらの慣性的領域に近づくと、その現れ/姿においてネビュラ的に近づきます。これらの溶解点はとても低いです。

その表の検証はこれを鮮明に見せます。

形状は、故に、一つの実質の性質では無く、その現れ/姿以外の存在がありません。

形状は、時間、空間、質量、重さ、温度、そして運動のその他の効果と同様に、運動唯一の性質では無く、実質の性質でも全くありません。

ミズの実質の中で旋回する泡には形状があります。それらの形状はそれらが旋回する運動の性質であり、水の実質ではありません。その運動が終わった時、その形状は消滅しますが、その実質は残ります。

想像は単なる宇宙的振り子の振れで、慣性(不活性)から、エネルギー(活発)を通り、そして慣性へと帰る事を永遠に続けます。それは運動と反応、融合と分解、重力と放射(反発)、現れと消滅の対峙するパルスの連続です。

一つの宇宙的マインドは、無形状な考えている実質です。

もし一つの実質が考えている実質で無かったなら、人が創造と呼ぶものは起こりえませんでした。

人が神と呼ぶものは、エクスタシー(有頂天)的に考えている実質で、継続的に考えていて、リズム的に考えていて、終わる事の無い時と、終わる事の無い空間を通して、測量出来るパルスにおいて、秩序的な強度の変化で考えています。

考える事は活動で、全ての運動の原因です。それは行程で、純粋な機械的行程で、終わる事無く次々と続くサイクルを通した進化において周期的です。

考える事の行程は、その行程の証拠を背後に残し、宇宙的マインドの海を通るその通り道の効果の記録をします。

その目覚めにあるのは、丁度蒸気船の始動の際に、その船の通り道に無数の小さな回転している泡を記録する(残す)様に、マインドの考えを記録する一つも実質の回転している無数の粒子です。

蒸気船の始動の際に発生させられる多くの泡は、海の実質における形状の効果で、それは周りの実質から異なっている様に現れます。

それは同じ実質ですが、より安定的ではありません。旋回する泡の形は、運動の安定性にその現れ(形)を帰属させるものです。その運動が終わった時、その泡は消滅します。

蒸気船の始動は、私達が消滅すると知る現れです。

それには安定性がありません。それには唯、安定性の現れがあるだけです。

その泡は形状と運動を有する明らかな別々の固体で、それら自体に現れますが、それら自体がそうで無い事を私達は知っています。

私達が知るそれらの分離性の現れは、力と運動による幻想であると私達は知っています。

プロペラの巻き廻す効果が消滅した時、泡、始動、そして全ては、それらがその一部であり、決して分離される事の無かった大きな海の中へと消滅します。

<11ページ:宇宙的振り子の表;運動の全ての効果は秩序的で周期的です。宇宙的振り子は全ての周期性を確実に記録し調整します。>

宇宙的マインドの穏やかな海を通る全ての思考の通過は、その穏やかな海の水の上を通る大きなボートと小さなボート、そして天界の全ての風に比べられるかも知れません。

これ等全ての力の通過は海の水のうえにそれらの現れの効果を残し、それによってそれらの力のアイデアの形を記録します。

穏やかな水の上でのこれ等の力の注入が無ければ、海の水を通した絶対的な統一性の現れが優ったでしょう。

マインドの穏やかな実質を通した考える力無しでは、宇宙的マインドの中において変化可能性の現れは全く無かったでしょう。

形状は一つも無かったでしょう。

ペルセウスの特徴的な螺旋的星雲、またはマインドの海に対して浮上する天の川の足跡は、凄い高さから見られた蒸気船の始動の泡の、正にその類推です。

蒸気船の始動とペルセウスの星雲は、重々しいアイデアの通過による現れで、そしてそれらの両方は、それらがその一部である実質の中へと消滅します。

その星雲の無数の旋回する球体も、その融合された太陽と太陽系も、その惑星も、そして月も、その彗星と隕石も、私達のこの宇宙を考え出す一つのマインドのかき回すプロペラから生まれた、全ての旋回する形状です。

同様に、蒸気船始動の旋回する球体は、大きな泡も、小さな泡も、ミルク色の泡も、海の深い青に対しての白い線ですが、実質において海から別々ではありません。

蒸気船の始動の温度は周りの水より高いです。同様に、螺旋星雲の温度は周りの「エーテル」の物質より高く、何故なら考える事によって発生させられたエネルギーの熱が、旋回する球体に伝わったからです。

泡と星雲を統治する法則は同じです。それらの間の違いは、唯一、時間の点における相対性です。

それらが旋回するのを止めた時、両方が消滅するのは、それらの存在の現れが、唯一運動の熱エネルギーによるものだからです。

それらが派生させた熱がそれらに生を与えた父-母的実質へと放射し返されるまで、泡はわずかの間旋回し、太陽は千億年の間旋回するでしょう。

時間における違いが相対的なのは、時間が永遠において無だからです。

泡がその熱を周りの水の温度に放射した時、それらは固有の存在の現れを消滅させます。それらの形状は運動の停止と共に消滅しましたが、それらの実質は海が存在するのと同様に存在します。

巨大な太陽がその熱を、周りのマインドのエーテル的実質の絶対零度に放射した時、それは固有の存在の現れを消滅させます。その形状は運動停止と共に消滅しますが、その実質はマインドが永遠であるのと同様に永遠です。

第四章
Thinking Mind
考えているマインド

考える事の行程は単純なものです。

それは、マインドの実質の安定性から、現れる不安定性へ、そして再び安定性へと戻る宇宙的振り子のスイング(振れ)です。

宇宙的マインドの海の中でのこの効果の記録は、長くされた球体(楕円形)の形状の中に含まれ、そしてその変化可能性(variability)と複雑性は、その球体の2つの半球の中の2つの正確に対極な螺旋の波の上に読み取る事が出来ます。

光り、熱、電気、磁気、形状(form)、結晶化、音、質量(mass)、要素(元素)と要素の融合物、時間、空間、引き寄せあい(アトラクション)、重力、力、エネルギー、慣性(不活性性)、性別、生命、死、睡眠、記憶、全ての物事の魂と全ての物事のアイデア(思考)は、実際に、この宇宙の人が理解出来る全ては、一つの球体の中のこれらの2つの対峙する螺旋の波で、それらの始まりから、綴り出す(説明する)事ができ、そしてその他の9つのより増大するが、より平らに成って行く球体、または楕円体を通して、それらの終わりまで説明出来ます(1+9=10音階)。

一つの球体の中のこれらの対峙する2つの螺旋の波は、考える事(思考)の単純な行程の全体を表しますが、考える事の効果の変化可能性の全体ではありません。

それらが表わすのは考える事のサイクルの始まり、または最も高いオクターヴ(音階)で、それには10(音階)あります。

考える事の単純な行程は10音階の中で正確に繰り返されますが、記録された効果の周期的な変化可能性と複雑性と共にです。

記録された効果の変化可能性と複雑性の全ては、変化と複雑性において秩序的で、故にこれらの効果の原因の知識を持つ人にとって、全ての効果は理解可能です。

その全体性を通して何処でも、マインドの実質は常に動揺/興奮(アジテーション)の状態にあり、考える事の秩序的行程にあります。

マインドを集中と非集中の順番/連続に駆り立てる、「考える事」と呼ばれる力は、宇宙の唯一のエネルギーです。

その他にエネルギーはありません。

宇宙はマインド唯一です。

エネルギーの宇宙的な定数は、マインドの実質の中に、マインドの考える事によって原因された幻想を記録します。

神聖なマインドの中の全てのミクロ規模の点は、考える事の実行のその最初のインパルス(衝動)と共に、マインドの宇宙の中心に成るのは、形状の無い宇宙へと、この最初のインパルスと共に形状が生まれたためです。

その中心から、考える事の行程を構成する、爆発-反応的、派生-放射的、電磁的騒動は、創造している光りの単位(light units)の波の中で、理解不能な速さで宇宙全体を通してそれ自体を再発生させ、その波はその正確な中心に再び戻ります。

考える事は運動で、その運動への反応によって続かれます。

考える事の運動は、連続における数々の出来事を構成します。

連続における出来事の間の間隔は、「時間」と呼ばれる運動の効果を構成します。

出来事の連続無しで時間がある事が出来ないのは、時間を印すものが何もないからです。

時間は考える事の運動と共に始まります。それは対峙する運動と共に現れ、そして慣性(不活性)の運動の中へと消滅します。

「時間」と呼ばれる現れに生を与える連続における出来事は、派生的で放射的な光の対峙しているパルスです。これらの対峙するパルスは、人が「生命」と呼ぶものに次元と形状を与えるものです。

人にとって形状が無ければ生命はありません。

形状と次元は束の間です。

生命は永遠です。

生命は単に考える事の運動で;そして考える事は、マインドの考えている実質が永遠的なのと同様に永遠的です。

宇宙的な考える事はリズム的な考える事です。

宇宙的なマインドの実質の全体は、変化しているが秩序的なリズム的メーター(測定器)の中で考える事です。

宇宙的な考える事のメーターは、宇宙的実質全体を通したその秩序性において測定可能です。

考える事の宇宙的でリズム的なテンポは絶対です。

全ての考える事は、対峙する運動の、測定可能で対峙しているインパルスにおいて表現されます。

全ての運動(motion)は、運動/活動(action)と反応(reaction)です。

第五章
The Process of Thinking
考える事の行程

考える行程の運動(action)インパルス(衝動)と反応(reaction)インパルスは、派生(generation)と放射(radiation)として知られる明らかな対極の間で変化しています(i.e,波形状)。

派生と放射は対峙する運動の現れを構成する対極(陰陽)です。派生は引き寄せ合い(アトラクティヴ)的で、重力的、で陽的で、電気的な力で、そして放射は反発的で、発散的で、陰的な、磁気的な力です。

対峙であれ慣性(不活性)であれ、全ての運動は均整(釣合い)です。つまり、宇宙的な振り子のどんな2つの対峙する振りにおいても、消費されるエネルギーの量は、常に質量的に定数だと言う事です。現れる変化は、2つの対峙する振れの次元で、エネルギーの定数ではありません。

2つの対峙する振動(波)の中で消費される派生的そして放射的エネルギーの量は、10オクターヴ(音階)の何処にでもある事ができ、一緒に加えられた時、消費されたエネルギーの量の合計と同じです。

慣性の運動は、人が「原子価」と呼ぶものの完全な欠如によって特徴化され、それ(原子価)は掌握する力、または統一する力です。

対峙する運動の中の物質の全ての要素(元素)は、丁度電磁チャージ(蓄電)においてそれらが周期性とその他の変化を持つ様に、この統一的力を変化する度合、または周期性で有し;故に、要素(元素表)から不活性なガス、またはマスター・トーン(主音)を分離させるための更なる理由です。

考える事の対峙するインパルスは、慣性(不活性性)から派生され、そして慣性の中の均整化の中へと放射され返ります。これらのインパルスは、圧倒(優位性)の周期性における派生と放射の間を変化し、その周期性は多くの方法によって、人が測定する事が出来ます。

全ての物質は明らかに進化していて、多くの次元の多くの実質(substances)の幻想の中へと退化しています。

物質の固体(solids)と呼ばれるものは、考えているマインドのアイデア(思考)の、形状における運動の状態の記録の現れの変化(種類)で、そしてそれらの現れ(姿/形)において、磁気に対する電気の圧倒(優位性)によって、物質の固体として保たれます。

その進歩/前進的周期性と電磁チャージの変化、その光単位(light units)とその他の周期性における物質の電気的本質は、考え方の行程がより詳細に書かれチャート(表)された時に、より詳しく記述します。

此処では、考える事は、マインドの電気-派生的運動磁気-放射的反応と言うだけで十分です。

考える事はとても複雑な効果の単純な行程で、その連続/順番については(後に)正しい場所で記述します。

考える事の行程において表現されるマインドの電磁的対極は、宇宙のエネルギーの全ての源です。

考える事は、すると、慣性の変化不能な運動の最大(maximum motion-in-non-variable-inertia)から出る、変化可能な対峙する運動の派生(generation of motion-in-variable-opposition)の行程で、そしてその状態(慣性の運動)の中へと放射して戻る行程です。

その慣性的線は、運動の2つの対峙する力の振動の間の、絶対非対峙(absolute non-opposition)の仮定的線です。慣性的線において、2つの対峙する力は中和され均整です。慣性的線(その中心から振り子が振れる時計の面の3時と9時の間に引かれた線を想像してみて下さい)において運動の力の戻しはありませんが、力無しで慣性的線を渡る運動を構成する、磁気的放射のパルスの運動量/刺激(impetus)があります。一度その線を超えると、運動は、磁気的制覇によって跳ね返されるまで、電気-派生のパルスによって続けられます。

戻す力無しで運動を構成する運動のこの状態は、慣性的エネルギーとして知られるでしょう。

その慣性的線、または平面は、それに沿ってエネルギーの宇宙的定数が生まれる中軸と特徴づけられるかも知れません。機械技師ならそれを、力が存在しない力と力の間のど真ん中(dead centre/死んだ中心)と特徴付けるかも知れません。この点は、その点に運動する物体/対象が到着する以前に与えられた運動量によってのみ通る事が出来ます。

運動は、考える事が継続的である様に、継続的です。

宇宙は、人が呼吸し息を吐き息を吸う様に;そして光り単位の全てと、原子と分子が呼吸する様に;そして上にある蒼穹と下にある水(海)が呼吸する様に、呼吸します。

連続において息を吸い吐く事は、物質の全ての現象の特徴です。

運動は、考える事の対峙するインパルスの連続によって原因されます。運動の方向の全てと、運動の効果は、これらの同等にバランスされた重力的力と反発的力、そして同等にバランスされた減速的力と加速的力によって統治されています。

2つの明らかに対峙する力の対極は、明らかに対極なインパルスの原因に成り、それに沿って考える事において発生させられたアイデアが記録される螺旋の波を形成します。

考える事の記録されたアイデアは、重力的に人が「物質の要素(元素)」と呼ぶもので表現され、そして反発的に人が「磁気の流れ」または「磁力線」と呼ぶもので表現され、今の処知られていない磁気的な軌道(範囲)です。

物質の要素の全ては、丁度全ての物質が派生的、または派生-運動(genero-active)な様に、放射的または放射性(radio-active)です。

電気的に派生している要素と、磁気的に放射している力の線は、明らかに反対の方向に働かされる同じ力です。前者は求心力で、その方向は、閉じていく螺旋の中核に向かいます。後者は遠心力で、その方向は、広がってゆく螺旋の中心から外に向かいます。

これ等の違いは効能/能力(potential)の上昇または減少です。

一つは常にもう一方に成ります。それぞれがお互いの原因です。

放射性は、より速い速度ですがより弱い力の要素のより高いオクターヴ(音階)の中への効能(potential)の低下です。

派生-運動は、より強い力でより遅い速度のより低い音階の中への効能の増加です。

派生-運動は要素(元素)を造ります。

放射性はそれらを壊します。

要素は明らかに別々の運動している分子に構成され、それは以下、「光単位」または「微粒子」と呼びましょう。

螺旋の派生-放射的波は、宇宙の全体を通して、アイデアの再生産の媒体です。

考える事によって発生させられたマインドのアイデアの全ては、電磁的対峙の測定できる波において、マインドの宇宙の全体を通して再生産されます。

これらの明らかに対峙している派生-放射的波は、人が「創造された物理的」宇宙と呼ぶ効能的エネルギーの融合的で分解的な要素の創造していて非創造(破壊)している宇宙を構成します。

<17ページ:質量形成の電磁行程を描写する表。全ての質量は派生-運動の電気の重力的な引き寄せ合いの力によって求心的に集合させられ、そして磁気の放射性的な反発の力によって遠心的に消散させられます。>

人は、光のエネルギーが波に沿って移動する速度を毎秒186,400マイルと測定しました。

この速度は、宇宙的な考える事の知覚出来るインパルスの最高速度です。

これは人が「光速」と呼ぶエネルギー再生産の速度です。

人の、光速は一定であるという観念は間違った観念です。

人にとって、光は白熱の反射光(または発光)です。

人にとって輝くきらめきで無いものは光ではありません。

全ての物質は光です。この宇宙は光のものです。物質の固体は、重く、暗く、そして冷たくても、燃え盛るアークトゥルス(大角星)同様に光です。

発光は、高圧力の派生によって非均整化された運動の状態において保たれた、過度に非均整化された対峙する運動の状態です。それは運動しているマインドの実質の一つの状態でしかなく、電磁チャージ、温度、そして対峙の制限のある範囲の中の一つの状態で;その範囲はそれぞれの音階において強度を変化させますが、10音階のサイクルにおいてその制限/限度の全音域の全体を機能(run)させます。

きらめく発光は、2つの明らかな対峙する力の最大対極の状態でしかなく、派生への放射的抵抗がその最大である状態で;力の中への時間の最大派生-運動の蓄積による緊縮が、時間の中への力の放射的分散による拡張を抵抗している状態で、それについては正しい場所で記述するでしょう。

きらめく発光は、システムまたは一つの音階の高い効能として知られる運動の状態です。

それは求心力と遠心力、圧倒的に男性的な力と圧倒的に女性的な力、最大電磁的対峙が出会う処で、そしてそれは熱の最大記録の状態です。

それは形状の現れへとマインドの実質を派生させる電気的力が、形状を消滅へと放射し戻す磁気的な力に明け渡す折り返し点です。

人の光の速度は、きらめく発光として知られる対峙する運動の状態が、人が「空っぽの空間」または「空間のエーテル」と呼ぶ、融合された物質のこれらの高い音階を通って移動する様に現れる速度です。

この光の速度は、現れる速度の大きな範囲の高い測定でしかありません。

物質の要素の全ては、運動の状態の全てにおいて、一つの実質、光の、秩序的で周期的な変化でしかありません。

光りの実質の運動の状態は無数にあるので、ですからまた、光の「速度」と呼ばれるものは無数にあります。

物質の要素の全ては、連続的な音楽の音の様に、10音階の波の上で、同時に減速的で加速的な対峙する運動の変化している状態において、進歩的に広げられます。

全ての対峙する運動は、その対峙において同時的です。

発光の状態は要素の全てに帰属し、そしてそれぞれの要素の融合の状態と共に変化します。それは各要素がそれらの融合的重さ、または質量において周期的で変化可能なので、その変化/種類において周期的で秩序的です。

明らかに非発光的な物質は、発光の能われを発生させる対峙する運動の範囲以下にもたらされた、派生的に十分に退化させられ、放射的に十分に拡張させられた物質です。

物質の全ての固体は、それらの運動において派生的単位が十分に退化させられ、そして発光の現れの状態の範囲以下にそれらをもたらすために、磁気的な軌道においてそれらの融合への抵抗が十分に延長された、融合された光以外の何ものでもありません。

<19ページ:物質は、電気的力の圧倒による現れです。その消滅は磁気的力を通してによるものです。>

第六章
Thinking is Registered in Matter
考える事は物質の中に記録/登録されている

物質は考えているマインドの神聖なアイデア(思考)の記録であると、その他の場所で書かれました。

人は、彼自身の日常の経験の中の考える事の行程を良く知っています。

アイデアを思いつく事における、人の集中的考え方を一旦考えてみて下さい。

アイデアは最初の内は星雲(おぼろげ)の様では無いですか?そして人が彼の考える事において、電気的に集中すると、そのアイデアはよりもっとはっきりとした形に成りませんか?そしてそのアイデアを考える事において、人が流動的に集中し続ける限り、その形状は鮮明ではっきりとしたもののままではありませんか?

人が集中を緩めると、そのアイデアはよりもっと星雲的な形状に成り、唯の記憶に成るまでよりもっとぼやけませんか?

一つの宇宙的マインドの考える事においても全くその通りなのです。

全てのマインドの集中は、運動において電気-陽的に記録され、その激しさと激しさの緩みは、考える事の行程の運動と反応を行う実のマインドの実質の運動の状態に化学的に記録されます。

派生的考える事の激しく集中されたアイデアの表現は、確実で、はっきりとした、確かな/固い形状の中に化学的に登録され、その間電気-陰的、放射的考える事におけるアイデアの緩められ、より激しく無い、拡張的表現は、ぼんやりとした、はっきりとしない、星雲的形状の中に化学的に登録されます。

もし宇宙的マインドがそれ自体の中に形状を持たないなら、もしその光単位と質量が、運動による形状の現れで、実質では無いなら、その全体においてマインドもまた、形状、形、サイズを持ちません。

マインドの宇宙が領域を持つものでも領域が無いものでも無いのは、それが延長性も継続性も持たないからです。

明らかな分離可能性(separability)は、延長性と継続性の宇宙の幻想を創造するにおいて、不可欠な質です。神聖なマインドの一つの実質は、分離不可能で、延長不可能で、非継続的です。

マインドの明らかな/現れる部分は、お互いに明らかな/現れる関係を持ちます。

マインドの実質の分離可能性の現れは、運動の効果でしかないので、よってまた、一つの明らか/現れた部分の、もう一つへの関係の現れは、運動による幻想でしかありません。

物質の関係性は現れでしか無く、存在を有せず、人が「相対性」と呼ぶものは、丁度人が「考え方/見方」と呼ぶものが幻想である様に、幻想です。

黄道


相対性は、考え方/見方が三次元におけるそれである様に、四次元における幻想の科学です。

「光は、人が光として知るものは、宇宙的一つの本当の光の不安定なシミュレーション(見せ掛け)でしかありません。

人の光の概念は発光で、慣性の宇宙的光の幻想で、運動を通して派生させられた圧力によって、光の幻想としてその現れは保たれます。

エクスタシー的(有頂天的/覚醒した)人の内的なマインドは、本当の光を知り、彼が光と共に一つである事を知ります。彼はその幻想によって、騙されはしません。」


第七章
Concerning Appearances
現れ(姿/形)に関して

運動の宇宙の中での人の進化の間、現れの複雑性は彼に、現実と非現実の間違った概念を形成させる様に困惑させました。

人の生活(人生)は、現れの複雑な現象の観測へと激しく与えられたので、現れだけが彼の事実に成り、そして一つの現実が単なる推測と成りました。

人は頼りがい(dependability)を固体の観念で考え、彼の感覚(五感)が反応出来るそれらの明らかな/現れた物事で考えます。彼の頼れる現実は物質の形状です。

人は頼りがいの無さ(undependability)を、彼の五感で反応出来ないエーテル的物事の観念で考えます。彼の非現実はスピリット(霊)です。

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人は彼の固体の現実の観念を、その固体性の幻想の源としてのマインドの現実の観念へと変える事を学ばなければなりません。

彼は、マインドの一つの実質(substance)が唯一の現実である事を学ばなければなりません。

彼は形状が、マインドの限度の中に、彼が操作を持つマインドの物質的実質の、より低いオクターヴ(音階)における現実の現れであるだけだと、考える事を学ばなければなりません。

彼は物質が、マインドの実質であり、そして物質の中の形状を、彼の考え方の記録/登録でしかないと考える事を学ばなければなりません。

彼は、彼がマインドであり、マインドは偏在(何処にでもあり)であり、全知であり、全能であると学ばなければなりません。

人は、彼がマインドである事を学ぶまで、彼がこれらの幻想の主人で「創造主」である代わりに、彼はマインドの幻想の奴隷と成るでしょう。

人の宇宙は、運動の宇宙です。

人の体は運動している粒子の集合体です。

人は運動には馴れています。人のマインドは物質の明らかな/現れる事実に調整されていますが、それらは全て空間、時間、そして運動によって常態化させられるので、それらが実際の事実である事は出来ません。

常態化された事実が事実である事は出来ません。それは単に事実として現れているだけです。

あるボールが1パウンドの重さであると言うのは常態化された事実です。明らかに/現れ的に、そのボールはそれだけの重さです。

それは、そのボールが地面から同じ距離に保たれる事によって常態化された事実です。それを1フット持ち上げればそれは1パウンドより軽く成ります。同じ高さに保っていても、その重さは空間(宇宙)における星々の運動によって変化します。

そのボールが直線で地面に落ちるのは、常態化された事実です。明らかにそのボールは地面に向かって直線で落ちます。

現実には、その線はカーブにされ、そのカーブは地球の自転とその宇宙を通った運動(公転)によって常態化されています。

このアイデア(思考)は、突然に創造された、完全に成長して高度に教養化された人を想像する事によって鮮明にされるでしょう。

この人は、唯一一つの事において、その他の人達から異なります。彼には、その他の人達がした様な、彼の運動している宇宙の物事の相対性へ彼のマインドを調整する人生経験がありません。

彼は物事の全ての主張された事実は知っていますが、それらの明らかな/現れる関連をまだ学んでおらず;物事は、彼がそれらはそうで無いと知っているものの様に見えると、まだ気づいていません。

その様な人は、彼自身を最も驚きの世界の中に見つけ、その世界はと保タンジュンな原因のとても複雑な効果です。

彼は、人々が大体同じサイズだと知っていますが、しかし彼の前にいるのは、巨人で、ピグミーの中の巨大な人です。

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10フィート離れた人は小人で、道路の向こうの集団は単なるおもちゃです。

彼は、太陽が巨大で、熱く、白く、そして比べればこの世界が小さい事を知っています。ですが太陽は唯の食器のお皿で心地よく暖かです。見よ!それは赤くなり海へと飛び込む。この世界は巨大で小さな太陽を飲み込みます。

彼はこの世界が真ん丸である事を知っていますが、それは彼の前に平らに現れます。

一粒が地平線に現れます。それは何でも無いでしょう。1時間後、それは糸の先に引かれた子供の池のボートの様です。ですがそのおもちゃは1000トンの重さで、50人の人達が風に逆らって進み、彼等は彼等の眼に風の海水(しぶき)を受け、彼等のオールを漕ぎ、彼等の耳に風の叫びを聞きます。

月は丘の背後から昇り、彼が走ると走り、彼が止まると止まります。それは唯のおもちゃの山脈と共にある小さな月です。それは逃げて何かの煙突の裏に隠れます。

あの山は青く、この山は緑です。あっちのは舞台落ちの場面のように平らです。こっちのは灰色の石の壁と、木々の中に道路を持つ草原です。

あれがとても小さな山なのは、見よ!峰の上の牡牛がそれを隠してしまったからだ。それは消えてしまった。いや、それは再び現れ、今度は牡牛が消えてしまった。その山は何処に行ったのだろう?それはどうやって戻ってきたのだろう?そしてあの牡牛は何処に行ってしまったのだろう?

反対側の丘の上の道はその終わりに立ちますが、彼が彼の丘の上の道を行けば(下れば)、それ自体を低くします。そして反対側の丘自体が低くなります。それは彼の道の上の木々の背後にしゃがみます。もしくは木々が高くなり、彼が進むほど巨木化します。

鉄道は、彼の足元では開いていますが、ずっと無効では一つの点に成ります。鉄道の汽車は、小さな点から、マッチに成り、箱に成り、轟過ぎる大きな物に成り、その恐ろしい通過において大地を揺るがします。この奇跡をもたらしたのはどんな魔術師でしょう?

この新たに造られた人は、夜の蒼穹で輝く100億の太陽の壮大さを知っています。それらの熱い炎の穴は、渦巻きの10万マイルの溜まりで渦巻きます。

これ等の凄い球体の栄光は何処にあるのでしょう?

それらの激しい炎は、軽く吹く風に吹き消されるロウソクのきらめきです。

天の川は夜の暗さを渡って吹き飛ばされた霧でしかありません。

その様な人の時間においてのみ、彼のマインドを現れ(姿/形)の相対性と事実の状態化に調節する事が出来ます、

ああ、至福よ!人の宇宙は、周り、回り続ける万華鏡でしかなく、回る事によって複雑化させています。

第八章
The Sex Principle
セックス(性別/性交、etc.)の原則

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オリヴァ―・ロッジ卿は、人は長きに渡り、力と運動は良く知っていましたが、理論的な宇宙を完成させるためには、ある第三の、触れる事の出来ない/実体の無い、発見されていない力が認識される必要性があると指摘します。力と運動が推定(前提)するのは、それらの後ろ、またはそれらと共に、第三の発見されていない力が何処かに存在している事です。

彼がまた明言するのは、発見された時、それが人が既に良く知っているものかも知れないと言う事です。

セックスはその大いなる第三の原則です。セックスは力と運動の両方の操作的原因です。それ無しではどちらも続く事が出来ません。

マインドが力と運動の後ろの動機的力であると言う事は、一般論を明言しているだけで;力と運動が操作される方法によって、マインドの性質/特徴を明言するのは特定的に成る事です。

セックスは力と運動の後ろの動機力です。

セックスは、明らかな/現れる対極への、マインドの父-母的実質(substance)の明らかな/現れる分別です。この分別は電気磁気の対極の熱望によるもので、考える行程の運動反応において表現されます。

セックスは対極への分別のためのマインドの活発(運動的)な熱望で、そして統一のためのその反応的熱望です。

セックスは2つのものへと分別可能性(separability)を要求する動機力(motive force)で、そして2つに現れるものを1つへと統一する事を同等に熱望するものです。

マインドは、一つですから、2つへと分別するためのマインドの熱望には答えられません。

2つのものへの分離可能性(divisibility)のためのマインドの性的欲求は、2つへの分離可能性の現れの発生においてのみ成功します。

動揺に、一つへと統一するためのマインドの性的欲求は、2つのものの合成を再生産する事によってのみ成功します。

セックスは始めから物事の全てです。

セックスは光が始まった時に始まります。

セックスは存在の現れを構成する、存在の現れのための熱望/欲求です。

存在する事への熱望無しで、何も存在する事は出来ません。

物事の全ては、存在するための熱望です。

熱望は全ての考え方/考える事を圧倒します。

熱望は全ての物質を圧倒します。

全ての熱望はセックス的熱望(性的欲求)です。

全ての熱望は、存在/あり方の秩序性における、存在の継続です。

性的欲求は、考える事を続ける、考える事におけるその力です。

存在/あり方は、考える事を通してのみ続けられます。

セックスの力は、考える事の一つのインパルス(衝動)を次の考える事のインパルスへと続ける、考える事の電磁的インパルスです。

セックスの力は、運動の全ての現象の様に、周期的です。

セックスの周期性は、アイデア(思考)の単純な始まりを、アイデアの複雑性へと続けます。

セックスの力(性力)は、一つのもの(光)の現実から、明らかな/現れる多くの物事を造るものです。

セックスの周期的な変化は、多くの物事のアイデアの創造のための熱望の父です。

マインドの父的力のイメージを創造する能力を取り外すと、アイデアの生産が止まります。

マインドの母的力の単一性の統一のためのマインドの性的欲求を取り外すと、マインドのアイデアの再生産が止まります。

物質は、存在/あり方へのその様な現れを続ける熱望無しで、形状(form)としての存在のその現れを続ける事は出来ません。

マインドの物質/材料(material)的実質は、マインドによって熱望された形状への、その物質化/現れを避ける事が出来ません。

これは例外のある事が出来ない不変の法則です。

人の、有機的な生命と共に始まるとする、セックスの観念は間違った観念です。

セックスは、要素(元素)の複雑性と化合物の中の様に、要素において絶対です。

セックスの始まりと生命の始まりの人の観念は、温度の状態の上に基づけられた観念です。

セックスと生命と光と知性は、始めから全ての物事であり、その中にあります。

セックスの原則は、人のものと同様に、花崗岩や鉄の棒の一部です。

3万度の温度で燃え盛るアルゴと呼ばれる大きな熱い恒星は、その激しい心/中心の中でセックスを知っていて、そしてそれ無しではその現れを続ける事が出来ません。

火星の氷河はその凍った深さの中でセックスを知っていて、そしてセックス故にその現れ/姿を保ちます。

セックスは運動している物質の、電磁的な等化器(equalizer)です。

セックスは、2つの対極の力で、プラスとマイナス(陰陽)である、一つの力の電気と磁気への分離の現れで、それらは現実において一つの力の2つのパルスでしかありません。

セックスは、全ての物事の、それらの対極、男性と女性への分別の現れです。

セックスは全ての物事において進化的です。

全ての物事は男性と女性の両方です。

全ての創造は最初は圧倒的に男性で、その後は同様に女性です。

全ての光単位(light units)と光単位のシステム(制度)は、最初に男性-女性で、その後それらは女性-男性です。

宇宙的マインドの分離不可能な実質の対極の現れは、明らかな/現れる対極の状態のままでは満足しません。

統一、または統一性は、全ての物事に内在し、運動している物質の電磁力が、明らかな対極の間で、大きすぎる不平等の原因を派生させるのに十分な時、不満足においてそれ自体を主張します。

セックスは、運動している物質の電磁力が不均一な時に不満足で、そしてそれらの力が均一な時に満足です。

ゾディアック


雷のフラッシュは、2つの対極的で不平等に蓄電された積乱雲の間の、均整のプラスとマイナスの電磁的乱れを、均整化するセックスの力です。

慣性(不活性)の運動において、セックスの熱望(性欲)はマイナスです。

対峙する運動において、性欲はプラスです。それは流動的(ダイナミック)です。

セックスは最初に形状においてそれ自体を主張します。

全ての形状はセックスを通して現れ、「成長」と呼ばれる進歩的な変化を通り、そして消滅します。

全ての成長は力と運動によって駆り立てられ/促され、セックスによって操作されます。

セックスも、力も、運動も、それ自体の単一ではありません。それぞれがその他です。

それ自体が単一なものはありません。

考える事無しで力は存在出来ません。

考える事の力無しで運動は存在出来ません。

セックスの対峙(性別)無しでマインドのアイデアは存在出来ません。

セックスの統一(性交)無しでアイデアの継続は存在出来ません。

性交における統一無しでは、現れとしてのどんな一つの事のアイデアも、絶滅してしまいます。

考える事と働く/機能する事は、人がセックス、力、そして運動と呼ぶこれらの要素の原因です。これらの3つの全て無しでは、人が存在/あり方として知る、存在の現れは存在する事が出来ません。

考える事と働く事は、創造のオクターヴ(音階)の高い処から低い処へ、全てのアイデアの現れを続けさせます。

全ての創造している物事は、神聖なマインドのアイデアでしかありません。

全ての物事のアイデア全体が、全ての物事の種です。

アイデアの種は、アイデア全体です。

柏の種の中は、その柏の全体です。

薔薇の種の中はその薔薇全体です。

人の種の中は人のその全体です。

全てのアイデアの種は考える事の中にあります。

柏、または薔薇、もしくは人のアイデアの全体は、恐らく何十億年と続く種の中の柏、薔薇、または人の、考える事と働く事の結果なのかも知れません。

これは進化している存在の法則です。それは単純な物事においてそうである様に、複雑な事にも本当です。

全てのアイデアは此処において光単位と呼ばれる小さな粒子に記録/登録されます。

これらの光単位、熱、セックス、電気と磁気は、すべて男性でそして女性です。

全ての単位は圧倒的に男性的か、圧倒的に女性的です。

丁度そう、全ての単位が、圧倒的に電気的か、圧倒的に磁気的かのどちらかである様にです。

丁度そう、全ての単位が、電磁的に圧倒的にプラスか、圧倒的にマイナスかのどちらかである様にです。

丁度そう、全ての単位が圧倒的に派生的か、圧倒的に放射的であるかの様にです。

そしてそれぞれの単位がこれらの全てです。

そしてそれぞれの単位は変数で、その存在の初めから終りまで、その順番においてこれ等の圧倒性の一方かもう一方に成ります。

そしてその変化可能性は周期性の法則において秩序的で統治されており、それはまた、運動が統治された法則でもあります。

人が創造と呼ぶ全ては運動の結果で、それは考える事の対峙するインパルスによるものだと忘れては成りません。

運動の継続は創造している宇宙の原因であり、それが創造された宇宙では無い事を忘れてはなりません。

考える事のインパルスの電磁的運動は、その対峙において継続的なので、故にその対峙の効果も継続的です。

セックスの表現における対峙している熱望は、対峙している運動の原因です。

原因はその効果を避ける事は出来ません。

対峙している電磁インパルスは創造的考え方のセックス表現です。

対峙している電磁インパルスは、創造的考え方の全ての効果を再生産します。

形状は、考える事のリズムに相応しく生まれます。

全ての考える事はリズム的な考える事です。

アイデアは、考える事のリズムにシンクロ的です。

全ての考える事はセックス的考える事です。

「創造」は、アイデアのリズム的考え方による、人が形状と呼ぶものへの、明らかな/現れる対極への、一つの実質の変格です。

これを超えるものは何もありません。

創造はマインドの観念でしかありません。それは幻想でしか無く、考える事の効果です。

全ての考える事は光の中に記録/登録されています。

全ての光はセックスの表現です。

光りは、全ての考える事の言語です。

光は全ての考える事のエネルギーです。

全てのエネルギーは、セックスの表現のエネルギ-です。

その他にエネルギーは存在しません。

進化しているセックスを通して、光は、宇宙的実質の形状への変化の原因に成ります。

セックスの周期性を通して、光は、形状を様々な形状へと変化させます。

第九章
Sex Opposites of Light
光りの性対極

(注:神を”彼”と呼ぶ時は大文字の”He”で、人を”彼”と呼ぶ時は小文字の”he”。)

光りは、神が形状(form)の現れを創造するために使った力です。

光りは、彼の体の完璧性において、人が使うための力です。故に彼は、彼がアルファベットを知る様に、光の原因を知らなければなりません。

もし彼が、彼の指令に利用可能なエネルギーの完全性(fullness/満杯さ)を知ったのなら、彼は運動している物質(原子)を続けさせるエネルギーの無限の源を理解しなければなりません。

創造的な考える事のリズムは絶対的です。

創造的な考える事の記録/登録は絶対的です。

全ての考える事は創造的な考える事です。

全ての考える事は、それが考えている事を創造する事です。

人の考える事の力は、マインドのセックスの対極(性対極)です。

彼自身を表現する神の力は、彼自身の体を、人が「創造」と呼ぶ効果へと変格させるものです。

宇宙的一つは、彼自身の体を通して以外、アイデア(思考)を表現する方法を有しません。

彼自身のアイデアを表現する人の力は、彼自身の体を通してのみです。

人は、彼自身の考える事によって、彼自身の体を創造する事を通して、彼自身を表現し、正に、彼自身の考える事によって、彼自身の体の創造を通して彼自身を表現した神の如しです。

人の体は、人の全体の個々的効果でしかなく、そして彼の考える事の産出です。

宇宙は個々の効果の全ての総合で、そして神の考える事の産出です。

全ての考える事はマインドの産出で、全てのマインドは神聖なマインド(神)です。

再び、記述されなければならないのは:「宇宙において2つのマインドなど無く、2種類のマインドなども無い」と言う事です。

光りは、彼自身を表現している神の媒体です。それは彼の指令の下にある唯一の媒体です。

光りは、彼自身を表現している人の媒体です。それは彼の指令の下にある唯一の媒体です。

人が形状と呼ぶものの創造には、永続的な始まりと、永続的な終わりがあります。

その始まりは考える事です。その終わりは考える事です。

その始まりは、その終わりです。

それは始まりを持ちません。それは終わりを持ちません。

考える事の継続性には、停止も(一時停止の)間隔もありません。

人にとって、その始まりは、彼の知覚のオクターヴ(音階)の中のその現れです。

人にとって、その終わりは、彼の知覚の範囲を超えたその消滅です。

形状は、アイデアを表現するための熱望(欲求)から生まれました。

形状はアイデアのplaything(プレーするもの/おもちゃ)です。

全ての形状はセックスの形状です。

アイデアの形状は、考える事の行程と共に、継続的に変化しています。

形状は、考える事のそれぞれのインパルス(衝動)と共に新たに生まれます。

アイデアは、考える事のそれぞれのインパルスと共に新たな形状と共に再主張されます。

マインドの全てのアイデアは、派生的、または男性的性別の考える事を通して融合されます。

マインドの全てのアイデアは、放射的、または女性的性別の考える事を通して分解されます。

マインドの全てのアイデアは、セックス的考える事(性的思考)の再派生的統一(性交)を通して再生産され、それは性の均整(釣合い)です。

マインドのアイデアは性の統一を通してのみ成熟する、または進化します。

個々の人のものであれ、宇宙的な一つのものであれ、何らかのマインドのアイデアを考えてみて下さい。

人はアイデアを考えます。

考える事は運動の力です。

全ての運動は波の中で表現されます。

運動の全ての波は男性と女性(陰陽)です。

全ての運動は振動的な運動反応です。

運動は男性です。反応は女性です。

全てのアイデアは、アイデアの形状の現れとして、光の中に記録/登録されます。

実質(substance)の形状は電磁的です。これが意味するのは、それが周期性において、圧倒的に男性で、圧倒的に女性だと言う事です。

全てのアイデアは、アイデアからアイデアの形状へと進化し、それは順を追って再びアイデアの中へと退化します。

進化は成長です。退化は溶解です。進化は男性です。それは電気的に圧倒的です。退化は女性です。それは磁気的に圧倒的です。

人は、性思考の秩序的な周期性においてのみ、アイデアを成熟させる事が出来ます。

アイデアを進化させるためには、彼は光の中で考えなければなりません。

派生-運動(genero-active)の光は、性思考の創造的な力です。

放射-運動(radio-active)の光は、性思考の非創造的(破壊的)な力です。

均整であり、慣性(不活性)において衝撃を与えた一つ/個体の定数(constant)の中へのこれらの2つの対極の統一は、再生産(繁殖)的力です。

セックス/性別は形状の幻想の次元で、そしてその様なものとして、幻想のその他の次元と共に更に熟考され、(後で)書き記され表示されます。

第十章
The Reproductive Principle
再生産(繁殖)的原則

繁殖が意味するのは運動の状態の繰り返しです。

繁殖は繰り返しです。

自然の全ての現象は反復(繰り返し)的です。

マインドの全てのアイデア(思考)は反復的です。

マインドのアイデアは考える事の産物です。アイデアの繰り返しはその産物の再生産です。

これは、運動の繰り返しの宇宙です。

これは、再生産/繁殖の宇宙です。

原因と効果(結果)のこの宇宙は、原因に関して永続的で継続的で、そして原因の全ての効果に関しては反復的です。

全ての効果は考える事によって原因され、そして運動の中に記録/登録されます。

全ての運動は、その原因の運動(action)か反射運動(reaction/反応)かのどちらかです。

運動の中に表現された力の運動か反射運動かのどちらでも無い、考える事の効果としては、何も産出されません。

産出されたものは、再生産/繁殖されなければなりません。

運動の状態で終わるものは決してありません。

運動の全ての状態は、永遠に再生産/繁殖されます。

明らかに/現れる別々の物事の運動の全ての状態は、それらを産出した力の運動と反射運動です。

マインドの変化するアイデアの全ては、運動の別々の状態の中に記録/登録され、それは測定可能な次元を有します。

全てのアイデアの再生産/繁殖は、そのアイデアを記録/登録した、運動と反射運動の統一/融合の結果です。

全ての運動は男性です。

全ての反射運動は女性です。

全ての運動は電気的プラスです。

全ての反射運動は電気的マイナスです。

全ての運動は、それと同等で対極の反射運動を有します。

全ての運動と反射運動は、エネルギーの宇宙的定数(constant)のオクターヴ(音階)の中のトーン(音/振動率)です。

同等で対極の運動と反射運動は、統一/融合された時、エネルギーの宇宙的定数の音階の単位(unit)を構成します。

一つの運動とその対極の反射運動は、2つではありません。それらの(複数の)エネルギーは、結合させられた時、1つを造ります。

反射運動は運動から生まれ、そして運動は再び反射運動から生まれます。

全てのアイデアと、アイデアの全ての形状は、力の同等、または非同等の運動と反射運動の間の統一/結合の結果です。

交尾の完璧性は、正に同等で対極な、男性的運動と女性的反射運動の統-/結合にあります。

結合の完璧性の中にあるのは安定性です。

交尾の不完璧さは、非同等で対極な男性的運動と女性的反射運動の結合の中にあります。

結合の不完璧さの中にあるのは不安定性です。

非同等な運動と反射運動は不本意/意志に反して結合し、それは対極における正確な同等性からの離れ/分離のそれらの度合の釣合いにおいて増幅します。

対極の効能(potentials)が同等性から大きく離れた時、すると結合は消滅します。

有機的な生命において、対極の結合または繁殖は制限され、そしてその制限を超えての繁殖は不可能です。

無機的な生命の化学において、運動の非同等で対極な状態の不安定な結合もまた制限されていて、その制限を超えた結合と再生産は不可能です。

これは、エネルギーの定数の蓄積された効能における、アイデアの繁殖の宇宙で、慣性(不活性)の中のアイデアの魂の記録/登録で、そして蓄積された効能の再生産です。

全ての物事のアイデアは、対極の運動と反射運動によって、結合に好ましい状態の下で産出され、そして類似した状態の下でのみ再生産されます。

再生産/繁殖は、以下の法則によって統治されます:

対峙した運動と反射運動の結合は、特定の制限の中でのみ可能です。結合が起こらない時に、繁殖が存在する事は出来ません。

同等で対極な運動と反射運動は、結合された時、それらの結合において満足で、結合したまま保たれます。

安定した結合は常に、その種に本当なものを繁殖します。

非同等で対極な運動と反射運動は、結合された時、それらの結合において不満足で、常にそれらの本当の音的相手を求めます。


不満足な結合は不安定な結合です。

不安定な結合は決して本当の種を繁殖しません。

不安定な結合は、それらの別々の音的状態に戻る傾向があります。

不安定な結合において、もしどちらかの相手が、より同等な相手を見つけたら、それは常に前者を離れ後者へと行きます。


化学的結合に本当/真の事は、有機的生命の全ての種に本当です。

化学者なら誰でも、非同等な対極の結合によって形成されたどんな不安定な調合物も、結合された要素のどれかに、より近い真の音的で相手的な要素を単に紹介する事によって、彼が分解出来る事を確かに知っています。

例えば、(元素表の)第6音階の601+であるナトリウム(Na)の男性的運動と、次の音階の702-であるセレン(Se)の非同等な対極の女性の間の化学的結合を考えてみて下さい。

第8音階の801-であるヨウ素を紹介すると、ナトリウムがセレンを離れ、ヨウ素と結合し、より安定的な調合物であるヨウ化ナトリウム(NaI)が形成する原因に成ります。

第7音階の701-であるブロマイド(Br)を紹介すると、ナタリウムは今度はヨウ素を離れ、より安定的な調合物である塩化ブロマイド(NaBr)を形成します。

最後に、第6音階の601-であり、真の相手である塩素(Cl)を紹介すると、ナトリウムはとても安定的な調合物である塩化ナトリウム(NaCl)を形成するために、ブロマイドを離れます。どの音階のどんな要素(元素)であれナトリウムとのその結合から、塩素に入れ替われるものはありません。

化学的に、全ての要素はアルカリ性と酸性の両方ですが、それは圧倒的に一方、またはもう一方です。

全ての男性的な電気的にプラスの要素は圧倒的にアルカリ性です。

全ての女性的要素は圧倒的に酸性です。

アルカリ性の男性的運動が、同等で対極な酸性の女性的反射運動と結合すると中和されます。それらは塩に成ります。

アルカリ性の男性的運動が非同等な酸性の女性的反射運動と結合されると、酸性またはアルカリ性を増幅させます。

水素がその真の相手であるヘリオノンと結合されると中性塩に成ります。

水素とフッ素は酸として結合します。

水素と塩素はより強い酸として結合します。

酸性またはアルカリ性の全ては、非同等な結合のそれらの憤慨/立腹が増幅するのと同様に、それらの強さを増幅させます。

動揺に、その様な結合の酸性、またはアルカリ性の増幅と共に、繁殖の能力が低下します。

結合している化学的要素は、それによって運動の状態のその他全てが再生産するのと同じ行程によって再生産します。

これについては、原因の更なる熟考が、これ等の原因の効果をより理解しやすくしたときに更に記述されるでしょう。

全ての男性的運動は求心的で、そして全ての女性的反射運動は遠心的です。

求心力と遠心力の変数(variance)は効能(potential)の変化/種類です。

結合と繁殖/再生産は常に電磁チャージ(蓄電)における性の周期性に統治され、その秩序は書き記されチャート(図表)されます。

例えば、丘の間にエコーする人間の声の音の再生産を考えてみて下さい。

音は、エネルギーのその他の形状の全てと同様に、一つの蓄積された効能/ポテンシャルです。

この高い効能を解放すると、それは直ぐに広まります。

広まりは放射です。

放射は蓄積された効能のディスチャージ(解放/放電)です。

蓄積された効能として、声の音が、より低い効能のより高い音階の沈黙の中へと放射され、そして崖の側面の緊密に融合された高い効能に対してぶつかると、非派生的ディスチャージは逆にされ、そして派生的チャージに成ります。

広がっていく下げる効能は、緊縮していくより高い効能へと逆にされます。

言葉を変えると、放射している音波の中の性対極は、(山肌にぶつかる)衝撃によって、より緊密な接触へと強要され、ですから元々その音を産出した波の次元が修復されます。

原因としての音の反対部分は、その原因の効果の再生産として産出されました。

それは同じ音ではなく、もう一つの音です。

それは再生産された反対部分で、元々音を産出した運動の状態の再派生された輪廻転生です。

エコーによる派生に本当な事は、ラジオまたはその他の類似した行程による再生産にも本当です。全ては、より高い効能の慣性的平面に対しての衝撃によって再派生へと放射された(ものの)逆でしかありません。

派生または再派生は重力の効果です。融合のどんなより低い音階に対する放射的エネルギーの衝撃も、その元々の形状のなかへと、それを再派生させる放射的エネルギーへの、必然的な抵抗を用意します。

第十一章
Energy Transmission
エネルギー配信/伝播

古い間違った観念は今、原則の端的な明言によって訂正され、その詳細の説明は、それらの正しい順序で与えられます。

光りが移動する時、エネルギーが配信され、電気が伝達される、またはインダクト(induct/静電気的プロセス、または磁気プロセスにより、電流を発生する)され、そして熱はその源泉からその他の場所に放射すると言うのは、原則的な事実として近代科学が受け入れる原則です。

これらの大いに間違った観念は、エーテルは、光、熱、そしてエネルギーのその他の形状の全てが、一つの場所からもう一つの場所へ移動出来る、うねる波と共に宇宙の中に存在する、震えてて、伸びちじみする固体である理論を与えます。

此処において全ての運動はにおいて表現されるのは認められますが、これ等の波はうねっていません。

エネルギーが波(複数)に沿って移動できないのは、何故なら波の全体が連続/継続を形成しないからです。

言葉を変えると、一つの波全体は、もう一つが始まる前に、完結されないと言う事です。

波は、それらの原因が進化する際に進化する、効果でしかありません。

波は宇宙を通して、連続/継続の中で、それら自体を部分部分で産出します。

エネルギーは、故に、うねっている(波打っている)のではなく、それら自体を部分部分で産出している波に沿って移動する事は出来ません。それは波くぼと波頭(波の凹凸)が欠けている波を、飛んで渡る事は出来ません。

光りは移動しません。それはそれ自体を再生産/繁殖します。

ゾディアック


恒星や太陽から来た様に現れる光と熱は、恒星や太陽を決して離れません(i.e.太陽と地球の間の空間には、光も熱も無い)。

人が光として見て、熱として感じるものは、その原因である光と熱の、対象部分(counterpart)として再生産されたものです。

その原因は、それが消滅の中へと広がるまで、現れとしてその存在を始めた処の、運動の状態の制限された部分の中にあるままです。

人が恒星として見るものは、恒星のヴィジョンでも、絵でも、イメージでも、反射でもありません。それは観測者の中で光として融合された恒星の、正確に再生産された化学的な対象部分(counterpart)です。

恒星にとって本当な事は、山や、小川や、牧草地のスミレのイメージにも本当です。

遠くから見れるマインドのアイデア(思考)はありません。アイデアを表す/体現する運動の状態は、観測者の中の再派生的衝撃によって、光として再生産されます。

マインドのアイデアには、時空間において場所も位置もありません。全てのアイデアは宇宙的/統一的です。

全ての派生された運動の状態は、拡張によって退化します。

拡張している運動の状態は、より高い効能(potential)の慣性(不活性)的平面(planes/領域)に対する衝撃によって再派生されます。

人は、彼を囲む空気/大気より、より高い効能を持ちます。

人によって「見られた」何らかの物体/対象は、その物体と観測者の間を邪魔する拡張された効能より、より高い派生された効能です。

物体のより高い効能は、その特定の運動の状態の、再生産された拡張された対象部分として、より低い周りの効能へとディスチャージ(解放/放電)し、そして観測者の中で再チャージ(蓄電)します。

この再生産していて拡張している対象部分は、物体と観測者の間の何処かに存在する同等の圧力の慣性的平面に対して衝撃します(ぶつかります)。この衝撃は、緊縮している対象部分の再生産への、拡張している対象部分の再生産の行程の反転の原因になります。

運動の状態の拡張は退化です。

運動の状態の拡張の再緊縮は再派生です。

再生産しているアイデアの法則は、宇宙性(universality)の原則です。

存在する全ては、存在するその他全てです。

再生産/繁殖の原則は、エネルギー配信の原則です。

エネルギーの配信は伝達(電達)的で、静電達(磁達)的です。

伝達は慣性に向かう高い効能の低下です。

静電達は慣性から離れる低い効能の上昇です。

エネルギー配信の電気的にマイナスで、散逸性の、反射運動(反応)のインパルス(衝動)は伝達です。

エネルギー配信の電気的にプラスで、派生的な運動のインパルスは静電達です。

伝達的エネルギーは、波の完結に抵抗します。

静電達的エネルギーは、波を完結させるためのその意欲において、前に飛び跳ね続けます。(注:エリック・ドラード博士の言うdielectricity/誘電性)

黄道


伝達的エネルギーは、波の調和を通して慣性に向かって引っ張り続けます。

静電的エネルギーは、最大対峙の点である、波のオーヴァートーン(上音/倍音/より振動数の多いもの)に向かって引っ張り続けます。

均整の状態が慣性の状態で、それは蓄積されたエネルギーの、2つの対峙する高い効能の圧力が存在する処で中和化されます。

アイデアの形状は効能の状態で、それは、放射の放射性(radio-active)の法則によって分解される(破壊される)まで、重力の派生-運動(genero-active)の法則によって形状として一つに保たれます。

全ての効能は継続的/一貫的に変化していて、そして相互交換(interchanging)しています。

全ての物事の効能が一貫的に上昇しているのは、何故ならそれらが、運動の状態のその他全てから発散されるエネルギーを吸収しているからです。

全ての質量(mass)は、その他全ての質量の、衝撃している放射性エネルギーの吸収によって再派生されています。

全ての効能がまた、一貫的に低下しているのは、何故なら周りのより低い効能における、それらの拡張された再生産のためです。

全ての質量は、それ自体の放射です。

全ての質量は、より高い効能への、エネルギーの宇宙的定数(constant)の蓄積によって派生されます。

派生されたものは放射されなければなりません。


全ての質量は、エネルギー蓄積の開放によって退化します。

例えば、この惑星の表面に対して衝撃する、太陽のエネルギーの高い効能の放射によって再派生/再活性される地球を考えてみて下さい。

現代科学は熱が、太陽と地球の間の膨大な9000万マイルの空間を、何らかの神秘的な方法で渡り、広がる殆ど絶対零度の温度の空間を渡り、そして此処に熱いままで到着すると推測します。

人は太陽からの暖かさを感じ、そしてそれは何らかの方法で説明されなければなりません。辿り着かれた理論は、真実から程遠いです。

太陽と地球の間の中間の低い効能の中の何処かにあるのは、太陽と地球の効能の圧力が中和化される慣性的平面です。

この慣性的平面/領域に対して、太陽の冷めて行っていて、拡張していっている放射が衝撃/衝突し、そしてその拡張を緊縮へと反転させます。

冷えて行っていて、拡張して行っていて、低下して行っている効能は、熱して行っていて、緊縮して行っていて、上昇している効能へと反転します。

この衝撃によって拡張してゆく放射-運動的エネルギーは、緊縮してゆく派生-運動的エネルギーへと、反転させられます。

この惑星に対する太陽の再派生された光の放射の衝撃によって、全ての分解して行っている物質は再派生されます。

生き物の全ては、死ぬと言う夜的な意図を、再び生きると言う意図に反転させます。

花びらを閉じた花は、それらを再び広げ、成長します。

「眠り」の中でその目を閉じた動物的生命は、再び「意識的」に成り、そして新たなエネルギーを得ます。

太陽エネルギーは緊縮によるものであるとする、現代の観念は、間違った観念です。

太陽から与えられたエネルギーは、太陽の中から派生されたエネルギーです。

存在しなかった、または派生される事無く放射されたエネルギーは存在しません。

全ての放射している質量は派生しています。

運動の全ての対極の効果は、それらの表現において同時的です。

太陽は圧倒的に派生的です。それは熱しています。

太陽はより弱い度合で放射的です。それは冷めて行っています。

太陽が熱する際、それは放射します。

太陽が冷める際、それは派生します。

派生は融合させます。

此処で続くのは、形状の現れと消滅のサイクルの法則です。

冷たさは派生します。派生は緊縮します。緊縮は融合します。融合は熱します。熱は放射します。放射は拡張します。拡張は分解します。分解は冷やします。

故に対極の一つは常にもう一方から生まれ、それは順を追って最初の原因に成ると見られる(考えられる)でしょう。

故に圧倒的に派生している太陽の分解は、この惑星の再派生に成ると見られるでしょう。

低い圧力と効能の質量の拡張された量のための冷たさの係数/率は、より高い圧力とより高い効能の緊縮された量における同じ質量のための熱の係数になります。

熱と効能の総合は変化していません。それらは単にそれらの次元を変化させただけです。

熱が移動したわけでもありません。それは再生産されました。

その磁気的軌道の磁気的流れが中断されただけです。

崖に対して衝突する声は正にその類推です。その声は音へと再派生し、その衝撃の御蔭で崖のプラスのチャージは増幅します。

太陽からの熱は、冷たさである熱の対極への放射によって、分解されました。

放射において、しかしながら、熱のエネルギーは失われてはいません。失われる事が出来るものは何もありません。その熱を派生させたエネルギーは、それを放射したエネルギーと共に、それら両方の拡張された対象部分において、記録/登録されます。

一度始まると、マインドのアイデアは決して終わりません。

今までに始まった、または終わったマインドのアイデアはありません。

第十二章
This is a Finite Universe
これは有限の宇宙です

マインドは存在する全てです。それには形、サイズ、または量に関して制限は無く、これ等の質は現れ(姿/形)だけでしか無く、本当の存在を有さないためです。

しかしながら、マインドは、その力、その知識、そしてその想像力において制限されていて、その最後(想像力)はその創造的力です。

マインドが原因(cause)である効果(effects)の全ては、それらが次元の現れ(姿/形)を持つ事において測定可能です。

次元の全ては制限されており、故に原因の全ては制限されていなければなりません。

マインドは無限の複雑性を創造する事が出来ません。

原因の10音階のサイクルと、それに含まれる効果を超えて、マインドが行く事は出来ません。

効果の全てはそれらの限界(制限)まで進化し、原因において全く変化せず、原因の中へと再び退化し戻ります。

マインドの制限は絶対です。

有限の宇宙は無限の宇宙に成る事は出来ません。

この観念が人にとって理解するのが極度に難しいのは、人が「宇宙/空間」と呼ばれる存在しない(non-existent)効果の固定概念を有するためです。

この間違った観念は、人の、宇宙は別々の部分へと分離可能であると言う固定されたアイデア(思考)から生まれ、その全てはお互いに形、サイズ、質量そしてそれらの間の距離の間隔において関連しているとするアイデア(固定概念)です。

人にとって、空間(宇宙)と距離は、彼の観念の全ての固定された特質/属性で、そして(それは)彼の理解を制限させます。

人は、無限の延長の無限の宇宙の間違った観念を造り出しました。

彼の宇宙の間違った観念に基づき、人は、宇宙がその延長/広がりにおいて有限、または制限がある事が出来ないのは、もしそうであればそれ(宇宙)には形、または形状が無ければ成らないからと言う理由づけからです。

また、それ(宇宙)に形、または形状があり、そして制限され有限であるなら、その向こうには何かが無ければ成らないと人が理由づけたからです。

人の観念の客観的宇宙は、有限の宇宙の「向こう」を要求します。ですが「向こう」など無いのは、何故ならこの形状の無い(formless/無形)の宇宙にはくくりも領域も無いからです。

もし宇宙/空間は存在しないなら、すると延長または継続性も存在せず、そして「向こう」が存在する事は出来ません。

「向こう」は相対的な言葉です。それは人の客観的な相対性の観念の一部です。それは次元です。

それは、次元の非現実性と、一つのものの宇宙における分離可能性(separableness)を、現実とする信念に基づいています。

人の理由づけの感覚は、その向こうには、彼の客観的な考え方において、より更なる空っぽの空間が無ければ成らない、真空の中に浮いている球体の様な、有限の量としての宇宙のアイデアを受け入れようとしません。

この理由のために、人は、有限の宇宙は人のマインドにとって考えられないと言う信念を形成し、故に宇宙は無限でなければならないとしました。

人の外側のマインドの理由づけは客観的で、無限の宇宙は人のマインドにとって、有限の宇宙より、より考えられないと考える事を止めませんが;その同じ理由づけは、内的なマインドを、考える事のより高い音階の上に集中させ、光の中の真実を学ぶよりもむしろ、明白に理解不可能なものを受け入れ、理解不能と受け入れる神の領域に降格させます。

アインシュタインは正しく宇宙は有限であると言いますが、間違ってそれが形状を有すると言います。この偉大な考える人は、宇宙は球体、または楕円体であると言う彼の信念を宣言します。

アインシュタインは、人が宇宙と呼ぶ現れにおいて、どんな方向の線もカーブしていて、推測出来るのは、宇宙におけるどんな線も、究極的にはその始まりの地点へとカーブして戻り、故に宇宙は球体、または準球体のどちらかでなければならないと正しく言います。

このカーブは、しかしながら、マインドの一つの実質(substance)が有限の形状または形を持つからでは無く、何故なら運動の効果の全ては統一的で、そして運動の効果の全ては、その最終的な反射運動(反応)において、それが始まった処で終わらなければならない運動だからです。方向は、故に、真っ直ぐな線に成れる事は決して無く、常にカーブしていなければなりません。

全ての線が何故カーブした線でなければならないのか、カーブした線が何故それらのカーブにおいて螺旋でなければならないかの理由は、全ての詳細においてその正しい場所で記述されます。

マインドの実質におけるどんな明らかな/現れる妨害/障害/騒動も、それ自体に戻り、「時間」と呼ばれるもう一つの存在しない効果の現れを綴り出す、再生産された波の連続/継続における、それ自体の正確な始まりの現れの地点に戻るのは本当です。

人の、時間の現実性の固定概念は、真実から彼を遠ざける錨(いかり)の引き擦りです。それにおいて宇宙の一つの「部分」における運動の一つの効果が、もう一つの「部分」でその現れを現す、人の時間の間隔の固定概念は、考える事のこの方法が継続する限り、それらに真の観念が入れ替われられない、その様な尽瘁に客観的な考え方の結果です。

マインドの実質には、「部分」も、「場所」も、「位置」もありません。全ての部分は同じ部分で、全ての場所と位置は同じ場所と位置です。

考える事は宇宙/統一的で、考える事の効果の全ては宇宙/統一的です。

これ以上に、考える事は同時に宇宙/統一的なので、それらは同時に宇宙/統一的です。

小さな子供でさえ、ボールを投げる事によって、その投げる事と共に同時に宇宙を動かします。

全ての運動は、この均整(釣合い)の宇宙において、同時に宇宙/統一的です。

連続/継続は、形状による現れです。それは、それ自体の中に存在は無く、そして形状が無ければ、存在の現れさえ持ちません。

全ての形状は、純粋に重力的な強さの問題なので、故に存在を有しません。

時間自体も重力の効果なので、存在を有しません。熱と同様に、それは指標でしか無く、熱が融合への抵抗を記録する様に、融合における連続/継続/順番を記録します。

運動の再生産と効果と、それらに伴う非現実性は、一つの現実であり、存在する全ての一つの不変で、目に見えない、究極の実質である、マインドの宇宙/統一的実質を、どの様にも変えません。

「形状」と「空間/宇宙」そして「時間」の存在しない現れに、人のマインドを夢中にさせる「位置」と「次元」を加えると、これらの存在しない非現実性を、彼のマインドにおいて存在する現実性であると固く固定する(信じる)人にとって、有限の宇宙のアイデアを受け入れるのは不可能だと、関連させる人は直ぐに知覚します。

そうするために、人は真空の中に浮いているボールの様な形状を想像しなければならず、それについて考える事の出来ない空っぽの向こうが無ければ成りません。

人のマインドの外側は、現実を、空間、時間、運動、形状、位置、そして次元の非現実性へと考える事にとても馴れていて、ですからそれにおいてその非現実性を光の現実へと消滅させる、主観的宇宙へと、彼の考え方を調整するのは難しいです。

人の内側のマインドは、その考え方において、外側のマインドの考え方の幻想から解放され、光の中で考えます。

アインシュタインの間違いは、形状としての現れにおける、実質の次元に唯一属する特徴を、マインドの実質に帰属させた事です。

第十三章
A Dimensionless Universe
次元無き一つの宇宙

次元は現れ(姿/形)でしか無く、運動の効果で、そして存在していません。

明らかな/現れる物体/対象物の間の1マイルは、その物体の消滅と共に存在しなくなります。

相対的で測定可能な距離によって、分離される無数の物体の宇宙の、人の固定概念は、相対的な感覚以外で人が宇宙を考えられなくします。

人は、マインドの真の理解のためには、光において考えなければなりません。

全ての人々は、理解と共に力(power)が来るために、彼等が理解した時のみ、光のより高いオクターヴ(音階)において考えるでしょう。(注:power/力/権力とforce/勢力は意味が異なります。例えば、政府はpolice forceを持ちますが、それはpolice powerではありません。主権はあくまでも、市民にあります。)

光りにおいて考える事は、新たな感覚の様に、人によって進化させられた新たな力では無く;それは人の構成の中の全ての原子の中に既に存在している力(i.e.エネルギー/波)です。

人が彼自身の融合の低い音階において考え、彼の中のより高い音階に殆ど気付いていないのは、より低い音階(小脳)がより高い音階(大脳)に重ねられているからです。凄まじく高速のより高い音階は、高い効能(potential)ですが遅い速度の、より低い音階の中にあります。

人は、彼の自動車のギアを彼がシフト出来る様に、彼の考え方を彼の外側のマインドの遅い速度から(小脳から)、彼の内側のマインドのより速い速度に(大脳に)、意図的にシフトする事が出来るでしょう。

人が体的融合の、彼の低い音階で考えるのは、彼がより高いギアを持つ事実に無知で、人が彼の車を低いギアで運転している様なものです。人がより高い音階で考える事は、彼の車のより高いギアに気付いていて、知ったうえでそれらを使う人の様なものです。

宇宙的/統一的マインドは、光において考え、光の中でその考える事を記録/登録し、それは考える事のアイデア(思考)に融合され、形状の現れにおける光のより低い音階の中で一時的に保留されます。

人の外側のマインドは、人が「物質」と呼ぶもののより低い音階における光の融合で、そして人の外側のマインドは、マインドまたは物質の、次元または幻想において考えます。

物質と、マインドと、光と、エネルギーは同じです。それらは一つです(波です)。

それらは、それらが決して消滅しないと言う処で存在しています。

それらは定数(constant/一定)です。それらは永遠的です。

マインド、または光、または物質、もしくはエネルギーの次元は、多かれ少なかれ保たれた運動唯一のための、マインドの実質(substance)の幻想でしかありません。

マインド、または光、または物質、もしくはエネルギーの実質は、永遠的に存在していますが、次元でしか無く、そして故に存在しない運動の効果と、混乱させられてはなりません。

次元は純粋に客観的です。

外側のマインドの考える事は、客観的な考える事です。

客観的に考える事は次元において考える事です。

物質の実質(i.e.エネルギー/波)は永遠的ですが、形状におけるその次元的幻想は束の間です。

物質は凍った光で、人自身の考える事のより低い音階の光の結晶化で、ですから、外側のマインドで考える事においてさえ、人は光において考えますが、それは彼に意味を成しません。

人の内側のマインドは、インスピレーション(鼓舞)的で、エクスタシー(良い意味で有頂天/覚醒)的考える事の高い音階の光です。人の内側のヴィジョン(視野)にとって、光は常に光です。それは決して消滅しません。内側のマインドで考える事は、主観的に考える事です。

主観的な考える事は次元無き考える事です。

人の内側のマインドは闇を知りません。光は光を知り;そして存在する全ては、光です。

内側の考える事において、物質に次元はありません。

マインドの宇宙は次元の無い宇宙です。

マインドのアイデアの宇宙は次元の宇宙です。

創造している宇宙はマインドのアイデアです。それは運動の宇宙の神聖な観念と、一つのものの、沢山の個々の物事への分離可能性(separability)の現れです。

第十四章
Concerning Dimension
次元に関して

形状(form)の宇宙の神聖な観念は、マインドのイメージ創造の能力のアイデア(思考)です。

その神聖な観念は、神聖な想像力の幻想でしかありません。

マインドは、マインドのアイデアを、形状の幻想へと考えます。次元は、形状が現れる時に現れます。

形状は、考える事の集中的なインパルス(衝動)によって派生された運動の結果として現れます。

形状は、考える事の非集中的な別の反射運動(反応)的インパルスによって放射された運動の結果として現れます。

創造は故に、運動の複雑な状態による幻想でしかありません。

全ての運動は理解可能です。

全ての運動は考えているマインドによって原因されます。

全ての運動はマインドによって操作されています。

全ての理解可能な運動は、測定可能です。測定は次元です。

次元は、一つの幻想の関連をもう一つから定義する間隔です。

次元は、それが定義する幻想の消滅と共に消滅します。

形状の全ての幻想は、それらの幻想を定義する効能(potential)の別々の状態へと、変化している運動の状態をロック(鍵)したものでしかありません。

運動の全ての状態は秩序的で周期的です。

運動の全ての状態は、どれだけ複雑であろうと、それらのミッド-トーン(中音)とマスター-トーン(主音)を加えた7音ずつ(ドレミファソラシ)の10オクターヴ(音階)へと減少可能(確定可能)です。

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全ての創造は、丁度、全ての文学が、人の考える事の全ての複雑な話し全体を伝える26の文字(アルファベット)に減少可能な様に、神が考える事の複雑な話し全体は、約140の要素(元素)に減少可能です。

どちらも、創造的マインドの現れているアイデアの、形状における表現のそれらの能力を超えて存在を有しません。

物質の要素は、運動の状態が異なっている同じ実質(i.e.エネルギー/波)です。

ゴールドは一つの実質で、炭素はもう一つで、亜リン酸は更にその他のもう一つではありません。

ゴールドが炭素から異なり、そしてシリコンが銅から異なるのは、運動におけるそれらの間隔においてのみ、または総計された時に、それらの運動のベて別々の状態を構成する、それらの別々の次元の測定においてのみです。

その神聖な観念は、運動の宇宙ではなく、形状におけるアイデアです。

運動はアイデアの形状を産出するのに必要です。それは考える事の特徴でしかありません。それは原則ではありません。

人は、神聖な観念のアイデアから、これ等の要素(金属)の形状を集合させた運動を完全に理解した時、彼自身のために簡単に彼が創造出来る金属のために地面の下で働きます(採掘します)。

創造の中にある全ては、考えているマインドの10音階のアルファベットによってアイデアの形状へと形成されます。

運動のそれぞれの状態の次元の知識は、最も大量なそれらのものから、最も希少なそれらのものを産出する力を人に与えます。

自然が効能の相互交換(interchange)を通して何百万年もかけて産出したもの(e.g.ダイアモンド)を、人は相互交換を強要する事によって数時間で産出するでしょう(人工ダイアモンド)。

実質(substance)の形状の幻想を測定する次元を人が知った時、自然が産出する実質で、人がまた産出できないものはありません。

人は、一つの要素(元素)または何らかの調合物を、その他の要素または調合物へと変格させるのに必要なより多くのエネルギーの操作(原子力)を有します。

彼に欠けている全ては、炭素と呼ばれる運動の状態の中に閉じ込められている、効能的エネルギーの状態を、ゴールドと呼ばれる運動の状態へと、彼が変格するための次元の知識で;そして彼は、彼が熱望する全てをとても少しの努力のコストで有せるでしょう。

物質の様々な要素の全ての次元を測定するためのフォーミュラは、人の重労働の重荷が軽減されるために、此処の中に全ての正確性を持って記述され図表化されます。

この新たな知識がこの世界にもたらす変化させられた状態に、文明がそれ自体を完全に調整させるまでに何年も過ぎるでしょうが、この変化から新たな文明が芽吹くでしょう。

これらは、それらが知られ測定された時に、人が要素を進化させ、または退化させ、または変格させ、もしくは融合させる事が出来ると言う事において、人をマスター/熟練者にする次元です。

最初の次元は「長さ」です。

二番目は「幅」です。

三番目は「厚さ」です。

四番目は「期間」または「時間」です。

五番目は「性別」です。

六番目は「圧力」です。

七番目は「効能」です。

八番目は「温度」です。

九番目は「イオン化」です。

十番目は「結晶化」です。

十一番目は「原子価」です。

十二番目は「軸的回転(自転)」です。

十三番目は「軌道的回転(公転)」です。

十四番目は「質量」です。

十五番目は「色」です。

十六番目は「平面/領域」です。

十七番目は「音/トーン」です。

十八番目は「楕円」です。

黄道


これ等の次元はそれら全てに共通の一つの目立った特有性によって特徴化され、(それは)秩序的な周期性です。

これ等の18の次元を超えて、そしてそれらを含めて、それ以上に測定可能な運動の間隔はありません。

これ等の周期性に全てが図表化され、そしてそれらの数学的計算が正確に計算された時、どんな高い効能を低い効能へと減少させる事にも、どんな低い効能を高い効能へと上昇させる事にも、必要な機械的道具を開発するのは、人の工夫にとってとても簡単です。

加速と原則は今、測定可能です。

温度、音、色、原子価、イオン化、そして知られているこれ等の圧力は今、測定されています。

質量は測定可能です。

知られている軌道(公転)は今、測定されていて、知られていないものもそれらが知られた時に測定されるでしょう。

全ての要素の複雑性を構成する波も既に計算されました。

スペクトルは分別され、要素は約7,000の光の色の線に分類されましたが、それらはヘブライ語がジェンタイル(非ユダヤ)に意味不明なのと同様に意味を成しません。

これらの7,000の光の線は、光の宇宙的な言語の文字で、それにおいて神が人に語る言語です。

人がこの言語を知った時、彼はそれの中で考えるでしょう。

彼が光の中で考える時、彼は彼が神の息子であり、神と一つである事を知るでしょう。

人が光の中で考える時、彼は彼が宇宙/統一的マインドである事を知り;彼が存在する全てである事を知り;彼が光の中で彼が考えている事を表現している考えているマインドである事を知り;彼が全知であり全能であり偏在である事を知るでしょう。

彼はすると、彼が生命であり、生命は永遠的で死など何処にも無い事を知り;そして時空間において彼には場所も位置も無く;そして次元は無いに等しく;一つ(エネルギー/波)以外は何も無く、そしてその一つは神であり貴方であり私で、うねる丘であり海の砂で、雲であり星々であり、牧草地のスミレである事を知ります。

既に人は、要素の中に隠れているこの創造している宇宙の大いなる秘密を解く事に向かって大いに前進しました。

光りの神のアルファベットの中に閉じ込められた秘密は、人にその扉を開くための知識のマスター・キーを長きに待っていました。

人はマインドです。

マインドは要素のエネルギーを創造し操作します。

マインドはこれらのエネルギーを並び替えさせ、そしてその赴(おもむ)くままに沿ってそれらを融合するでしょう。

第十五章
The Formula of The Locked Potentials
閉じ込められた効能のフォーミュラ

今、時間が時、分、秒のフォーミュラによって測定される様に、一つのフォーミュラによって全ての次元が測定される宇宙的時計を構造しなければなりません。

今まで、周期性は運動の全ての効果は絶対的な特徴であると記述されてきました。

2つの例外を除いて、運動の効果の全ての全ての次元は、同じ秩序的な音階(オクターヴ)の周期性のものでした。

これ等の2つの例外は、サイクル的周期性のものです。

音階の周期性は、それぞれの音階の最大の効果への、そしてからの秩序的な進歩/前進です。

サイクル的周期性は、サイクル全体の最大効果への、そしてからの秩序的進歩です。

故に、今、単純に明言されるのは、その本質が何であれ、全ての運動の周期性の全ては、2つの例外を除いて、以下のとてつもなく単純なフォーミュラによって造り出されます。

4++3+2+1+0=1-2-3-4++
(Pdfヴューアー52ページ、本文38ページ参照。)

davinciのzodiac


この音階周期性への2つの例外は、質量(mass)と音(tone)です。マスは重さを意味します。トーンは音を意味します。質量は10音階を下がって全てを蓄積し;音は宇宙的鍵盤を、最も高い音から最も低い音へと下ります。

<39ページ:宇宙的時計>
閉じ込められた効能(potential)のフォーミュラ
時間は、出来事の間の期間を印します。人はこの惑星の太陽の周りの公転の周期性によって彼の時間を分別し、そして地球の自転によって時間を準分別します。これらの期間は、人に必要な時間の次元として再び更に分別されます。宇宙的一つ(i.e.神/宇宙/エネルギー)は彼の時間を、彼の(呼吸の)吸い込みと吐き出しの周期性によって分別し、それらは一緒にエネルギーの一つの宇宙的定数に成り、そしてエネルギーの4つの実に同等な定数の単位へと準分別されます。これらの周期性と、音と中間音的(mid-tonal)準分別は、形状、空間、時間、性別、温度、そしてその他の周期性における、彼のアイデア(思考)の次元を測定します。


エネルギーは上昇する効能によって派生-運動(genero-active)的(呼吸の)吸引の間に蓄積し、そして減少する効能によって放射-運動(radio-active)的吐き出しの間に放散します。全ての質量における周期的な吸引と吐き出しは絶対です。

ゼロは慣性(不活性)的エネルギーを現し、そして数字は閉じ込められた効能と、圧力と、そして軌道における秩序的進歩を表します。考えているマインドは、宇宙的な考える事を形状の現れへと進化させ、形状の消失へと退化させる、その方法としてこれらの秩序的進歩を用いました。

庫のフォーミュラの数字は宇宙的時計の時間(1時間単位)です。それらは要素(元素)の原子の相対的な位置で、そしてそれらのそれぞれの変化している次元の秩序(並び/順番)です。

宇宙的時計の秒は、原子の構造を構成する微粒子、または光単位(light units)です。

その時計の針は、効能のチャージ(蓄積/蓄電)とディスチャージ(放散/放電)を示す線です。

その主ぜんまいは10音階サイクルです。これらの音階の5つは、蓄積によって力へと変容させられた減速している時間の次元で、そしてその他の5つの音階は、加速している時間へと解放(放散)させられた力の次元です。

その時計の(ネジの)巻きは崇高な5音階の吸引で、そしてその(ネジの)巻き戻しは5音階の吐き出しです。

その振りのチクタク(歯車の噛み合い)におけるその宇宙的振り子は、狂う事の無い正確性で全ての運動の変化している次元を永遠に、永遠へと動かしますが、それはこの単純なフォーミュラから決して離れません。

関連させる人(読者)は一つ、一つ、運動の効果の18の次元を取り上げ分析するでしょう。

温度も、原子価も、軌道も、色も、イオン化も、電気的力も、磁気的力も、どんな人に知られているまたはまだ知られていない化学的効果も、これらのどれも、此処に上げられていないその他の者も、質量と音を除いて、この単純なフォーミュラを超えて延長される事は出来ません。

膨大な重要性のこの単純なフォーミュラが、正しい定義で言及される事が出来る様に、名前を持つ事は妥当です。

このフォーミュラがこれ以後知られる名前は、「閉じ込められた効能のフォーミュラ」としましょう。

第十六章
Universal One-ness
宇宙的統一性(統一的に一つ/エネルギー/波/光である事)

此処で、最も単純ですが、宇宙の全ての法則の最も大いなるものが記述されなければなりません。

存在する全ては、その他の存在する全てです。それ自体が唯一なものは何もありません。全ての創造された物事は、不変/永続的に統一されています。

これは神聖なマインドの実質(substance)全体の法則です。

これは物事の魂の法則です。

これは愛の法則です。

これは宇宙の統一性(One-ness)の法則です。存在する全ては一つ(波/光)です。

この宇宙全体において、2つの独立的に別々な物事はありません。

個性(individuality)は存在しません。

個性は、非分別可能で非分離可能な宇宙における、分別可能性(separability)と分離可能性(divisibility)の現れでしかありません。

「私唯一が私である」と言える人は誰もいません。

もし人が「私は私」と言うのであれば、彼はまた、全ての人々と全ての創造されたも物事に、「私は汝」そして「汝はまた私」と言わなければなりません。

宇宙の統一性は、神聖なマインドの崇高で単純な一つのスピリット(霊)的実質です。

<Pdfヴューアー55ページ、本文40ページ:閉じ込められた効能の点と縛られたエネルギーの音を分類する、それらの音階的数字に沿った図表。>

ゾディアック


<41ページ:一つの音階をその他の中に有する、融合している光りの10音階を表す図表。これらの10音階は、連続/継続におけるその次元の全ての中への、そして次元の全てを通ったエネルギーの宇宙的定数の配信/移動の一つの完全なサイクルを構成します。>

マインドの一つの実質は、この宇宙の全ての物事がその一部であり、それにそれらが不変/永続的に統一/統合されている、一つの生きていて考えている存在の、生きている実質です。

光り(エネルギー/波)は、一つの実質を生きている実質にするものです。

光りはマインドの生命の原則です。

光りは宇宙の創造している力です。

光りは存在する全てです。

光りは生きている神です。

神は光の中において現れさせられます。

光りは神聖なスピリットであり、神であり、父-母であり、自然で、人で、カシの木で、うねる丘で、山脈で、波打つ海で、海の砂で、泡噴く小川で、木から垂れる林檎であり;秋の薄霧で、嵐で、天界の星々で、花開いた薔薇の葉と優しい朝露です。

全ての創造している物毎は、個々の別々の物事の現れにおいて、一つであるために光に頼ります。

光りは全ての物事の実質で、全ての物事は光に頼る/帰属するので、全ての物事は故に相互に頼る/相互帰属(inter-dependent)です。

全ては、継続性における宇宙を通した再生産/繁殖によって継続的に相互変化しています。創造されたものに、アイデア(思考)において、時間、または場所、もしくは位置を有するものはありません。

全ての創造された物事のアイデアは宇宙/統一的です。

それは、マインドの全体を通したアイデアとして偏在的ですが、全ての創造された物毎のアイデアの対象部分(counterpart)は、時間と場所において継続/連続/順番的です。

アイデアの対象部分は再生産/繁殖されたアイデアです。

再生産されたアイデアは、基本的なアイデアの一部です。

これは再生産/繁殖の宇宙です。

考えているマインドのアイデアの生産と再生産は、考える事の単一の結果で、考える事のための単一の理由です。

アイデアとアイデアの再生産は、運動の状態が連続/継続において宇宙/統一的である様に、連続/継続において宇宙/統一的です。

アイデアとアイデアの再生産は、対峙-運動の現れとして複数化され、その原因は考えているマインドのパルス(衝動)です。

それ以外の原因はありません。

それ以外の運動もありません。

それぞれのアイデアと、それぞれの再生産されたアイデアの対象部分は、それがそれから離れる様に現れない、時間と場所と位置の現れでしか無く;それでもそれは全ての宇宙の一部です。

私の庭で咲いている薔薇は、それが貴方と私の一部である様にアークトゥルス(大角星/牛飼い座の星)の一部です。

宇宙は、私の庭の薔薇の揺れに揺れます。

この宇宙の物質の全ての粒子は、それを通してそれが宇宙の物質の粒子のお互いの磁極と接続され、そしてそれを通してそれぞれの粒子が宇宙におけるその他全ての粒子の変化し続ける状態によって影響される、それ自体の磁極を持っています。

これは運動の均整の宇宙で、その継続性は、全ての別々に現れる単位の相互帰属性を通して以外保たれる事は出来ません。

存在する全ては、存在するその他全てです。それ自体唯一なものはありません。全ての創造された物事は不変/永続的に統一されています。

全ては神で、神は全てです。

神は光で、光は全てです。

創造は崇高な存在の崇高なアイデアです。

その崇高なものは常に単純です。

創造と共に単純性は終わり複雑性が始まる様です。

複雑性は創造している物事に帰属します。

人の外側のマインド(小脳)は重く複雑なマインドです。それは単純性の崇高さを知りません。

人の内側のマインド(大脳)は、神聖な考える事のエクスタシー(良い意味で有頂天/覚醒)的メーターにチューンされています。(注:松果体/脳下垂体

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人の内側のマインドは神的単純性の崇高さを知っています。

人の内側のマインドは光を知っています。

存在する全ては、存在するその他全てです。それ自体唯一なものはありません。

薔薇のパフュームは薔薇の一部で、そしてまたそれは、人、風、そして庭の壁の一部でもあります。

薔薇の香りは薔薇が光であるのと同様に光で、そしてまた、人、風、そして庭の壁も光です。

存在する全ては光です。それ自体唯一なものはありません。

この全ての法則の最も大いなるものを知る人は、愛を知ります。

愛は宇宙の統一性の現実化です。

愛は鼓舞された考える事の覚醒です。

神の考える事は覚醒的な考える事です。

神は愛です。

彼の内側のマインドの中から、全ての物事の統一性のこの法則を人が知るまで、それは彼に意味を成しません。

この法則を人が彼の心の中で知った時、彼は制限/限度を持たないでしょう。

人がこの法則を知った時、人の魂の中での反応は、覚醒的で鼓舞的な瞑想なので、すると彼は愛の意味を知り始めるでしょう。

無制限の力がすると彼のものに成ります。

彼の考える事はすると、真の考える事に成ります。全ての力は真の考える事です。

「考える事の真」は、大いなる熟練者によって奏でられたヴァイオリンの弦に比べられるかも知れません。同じ音にチューンされたその他の1万の弦が、弾かれていないのに調和的に鳴ります。その様にチューンされていない1万のその他の弦は、その覚醒(エクスタシー)を知りません。それらはそれらが存在しないかの如くです。

鼓舞された考える事は、神と共にチューンされ(同調して)考える事です。

鼓舞された考える事は、神聖な考える事の高い音階と正に同じ音で考える事です。

光りのリズム、光の高い音階は、真の音と真の考える事の測り(単位)です。

内側のマインドの真の考える事は、外側のマインドの真の考える事を構成します。

外側のマインドは覚醒的単位(ecstatic measure)で考えません。人が彼の内側のマインドで考える際に、彼はそうします。

全ての人々の内側のマインドの中と、全ての物事の中にあるのは、神聖なマインドです。

人の内側のマインドは、覚醒的な考える事のより高い速度にチューンされています。

もし人が意図的に彼の考える事を速い速度、または神聖なマインドの覚醒的メーターにチューン(調和)するなら、全ての人々と全ての物事のなかにある、彼自身の神聖な考える事の覚醒を、人は知るでしょう。

人がその様に彼の考える事をチューンした時、すると人は光の中で考えるでしょう。

人の内側のマインドは単一で光の中で考えられます。

内側の考える事は覚醒的に考える事です。

人の外側のマインドは、光を知る事が出来ません。外側のマインドは、覚醒を知る事が出来ません。

人が光の中で考える時、彼はすると神聖なアイデアの完璧さを知ります。彼は宇宙/統一的な天才に成るでしょう。

アイデアの非完璧さは、存在する事が出来ません。

考えているマインドのアイデア全体は、です。

邪悪は存在しません。非完璧さはありません。

人が「創造された宇宙」と呼ぶものは、考えているマインドのアイデアです。

マインドのアイデアは、マインドがそれ自体完璧な様に、完璧です。

アイデアの完璧性は真実です。

アイデアの非完璧性は、私達がこの本の後の章で見る様に、この均整の宇宙において電磁的に不可能です。

光りの中で、真に考える事は、人に全ての力を与えるでしょう。

彼は、宇宙/統一的なもの以外に限度を持たないでしょう。

彼の足を宇宙の電極と共に、彼の眼を高い天界と共に、昨日不可能だったことが今日の単純な達成に成るでしょう。

この内側からの知識と共に、人は全ての自然と全ての物事の上に支配権/主権を持つでしょう。

人は彼自身の体の上の支配権を持つ事ができ、意のままに健康、美、そして魅力的な性質を得られるでしょう。

彼の心におけるこの法則の認識と共に、彼は全ての人々と全ての創造している物事を愛し、愛されるでしょう。

そして彼は全ての物事を知るでしょう。あれの心において人がこの法則を知る時、全ての知識が彼に来るでしょう。

全ての知識は存在します。

考えている人は全ての知識を有します。

鼓舞された人は、宇宙の統一性と共に、愛の法則を知っています。

全ての知識は宇宙の中に存在していて、そしてそれは神聖なマインド、人と全ての創造している物事の神と聖父からの、考えている人の相続です。

全てを知る事のこの相続は、その知識を彼が望んだ時に使われるために、全ての人を待っています。

第十七章
Omnipresence
偏在性

神は遍在的、または宇宙/統一的に存在している(何処にでもいる)と言う人の観念が、非一貫的/矛盾した観念なのは、神または神の一部として、人または自然を含まないためです。

人は、彼が物理的宇宙と知るものから、彼自身から別々で分離している、理解不能で実質の無い神を、自然の領域ので探す様に訓練されている(洗脳されている)ので、それは彼の考える事の伝統と成り、彼の考え方の固定化された習慣に成りました。

故に人の外側のマインド(小脳)にとって、彼自身と自然の全ての現象が一つであり、理解可能な神である事を見つけるのは衝撃的かも知れません。

もしこの発見が地上に縛られた(捕われた)マインドを驚かすなら、彼は彼の考え方を再調節しなければならないのは、マインド以外の神はいないためです。

そして、一つの宇宙/統一的マインド以外にその他のマインドはありません。

考える事の目的以外の目的のマインドがあるわけでもありません。

人は、マインドのために考える事以外の目的を考える事は出来ません。

アイデア(思考)以外の考える事の産物があるわけでもありません。

創造は考えているマインドのアイデアでしかありません。

物質(matter)の宇宙へと物質化(materialized)された神聖な観念は、マインドの途方もないアイデアですが、それは人の最も単純なアイデアからちっとも変化しません。

それは、人のアイデアの物質化のために、人によって応用された流動的な原則から異なった宇宙/統一的なメカニクス(機械性)でさえもありません。

神はマインドです。人もマインドです。

神または人の全てのアイデアは考えているマインドの産物でしか無く、アイデアの形状(form)として物質の中に記録/登録されます。

全てのアイデアはマインドの幻想で、幻想として唯一マインドで見る事が出来ます。

アイデアは、進化と溶解の無数の周期的間隔の間、マインドによって形状の中に保たれます。

全ての考える事は、宇宙/統一的な考える事で、不死の考える事です。

有死の考える事はありません。

マインドの全てのアイデアは完璧です。

マインドの非完璧性は存在する事が出来ません。

各部分へのマインドの分離は不可能で、故に2つのマインドまたは2つの実質(substance)はあり得ません。

マインドの一つの実質は光(エネルギー/波)です。

光りは宇宙/統一的です。

人は光で、そして人は宇宙/統一的です。

宇宙/統一的なものは、偏在的です。

人は、故に、偏在的です。

全ての物質は偏在的です。この宇宙は、延長も、継続性も時空間も有しません。

宇宙の統一性(One-ness)は、その全ての包容性において、例外も、間違いも、失敗も許しません。

マインドの全体性から省かれるものは何もありません。

マインドには分離できる部分がありません。

マインドの明らかな/現れる部分には、地域性また配置はありません。

全ての物質は宇宙/統一的に存在しています。

全ての物質は光です。

マインドも光です。

マインドは宇宙です。

マインドは全てです。

一つです。

第十八章
Omnipotence
全能性

全能性は存在する全ての力を意味します。

宇宙の全能性は、効能(potential)を蓄積するための宇宙/統一的定数(constant)の制限された力によって、その表現において制限されています。

宇宙/統一的に考える事の運動(action)と反射運動(reaction/反応)から生まれる流動的なエネルギーは、人が「電気」と「磁気」と呼ぶ運動の始まりを通した、次元の周期的な変化によって、物質(matter)における別々の現れ(姿/形)の創造において、エネルギーの宇宙/統一的定数として機能します。

それは、分離不可能(indivisible)な物事の、明らかな/現れる分離の、それらの明らかな/現れる対極への始まりです。

それは性別(セックス)の始まりです。性別は光(エネルギー/波)の対極/対峙が始まった時に始まります。

それは人が光と光の色として知るものの始まりです。

それは生命の始まりです。生命は光が始まる時に始まります。

それは音の始まりです。音は光が始まる時に始まります。

それは、人が「熱(熱さ)」と呼ぶ状態への派生(generative)的光の集中の状態と、人が「冷たさ」と呼ぶその放射(radiation)の状態の始まりです。

それは、光のエネルギーの、人が「物質」と呼ぶものへの現れと消滅の、融合と溶解の始まりです。

それは、人が物質の固体と呼ぶものへの、光単位(light units)の結晶化の始まりです。

それは、人が質量(mass)と呼ぶものへの、現れと消滅への、光のエネルギーの融合と溶解の始まりです。

それは、エネルギーの宇宙/統一的定数を、進化し退化している質量の、重力、引き寄せあい、くっ付き合いと、放射と反発の周期性へと、蓄積し放散する、2つの力(プラス/マイナス/陰陽)の電磁的対峙の始まりです。

それは形状(form)の現れの始まりです。それは、物質の要素の現れへの形状のコンビネーションの始まりで、そして人が「成長」と呼ぶものへの物質の調合(compounds)です。

それは、無限的に単純なものから無限的に複雑なものへの現れる変格の始まりです。

それは物質の相互関係の始まりで、それを人は「物質の化学」と呼びます。

それは力と、運動の力と、運動の慣性(不活性性)の始まりです。

それは時間の始まりです。時間は宇宙/統一的な考える事のインパルス(衝動)と共に始まります。

それは、全ての創造している物事の原因である、不均整の現れる意図(intent)に向かう、宇宙的振り子の宇宙/統一的なリズミカルな揺れの始まりです。

それは多くの物事の現れ(姿/形)への別々性の幻想の始まりです。

別々の物事はありません。有るのは一つのものだけです。それ自体唯一なものはありません。

それは創造している物事のの始まりで、人が「生命」と呼ぶ物質における表現の始まりです。

創造の全体は、終わりなき時代を通った終わりなき連続/継続における、不変の法則に沿ったアイデア(思考)、形状、そしてリズムを表現するために、宇宙/統一的マインドの熱望/欲求の中に含まれています。

これ(有限の宇宙)の向こうには何もありません。

全てのマインドは宇宙/統一的で、全てのマインドは全ての力を持っています。

人のマインドは宇宙/統一的なマインドです。人は全ての力を持っています。

全ての力はこの次元無き宇宙の全体を通して宇宙/統一的にあります。

全ての物質と全ての創造している物事は、考えているマインドのイメージです。

考えているマインドは光で;そして光りは宇宙/統一的です。

宇宙/統一的なものは、それ自体から分離可能ではありません。全能性は故に、最も重要で無い原子の最後の粒子でさえ宇宙/統一的です。

全ての物質は全能です。

物質の宇宙は、一つの呼吸する、パルスする、生きている存在と共に調和しそのエネルギーを呼吸し、それを神、またはマインド、もしくは宇宙/統一的な一つと呼ぶかは貴方次第です。

息を吸い、息を吐く、生きていて考えている神-マインドのインパルスは、宇宙全体を通して絶対的な均整です。

それらはまた同時的ですが、交互に圧倒的です。

吐き出しは、吸引の間、より弱い度合で進行し、そして吐き出しが圧倒的な時、吸引はより弱い度合で続きます。

また、全ての運動はその対極/対峙のおいて同時的です。

対峙した運動は単に交互に圧倒的です。

全ての運動は、その対極/対峙いおける圧倒性のこの連続/継続性のために振動的(波)ですが、それについては正しい場所に記述されるでしょう。

宇宙/統一的一つから全ての力を分離したり、それを増幅または減少させたり、全体または一部においてそれを独立させたり出来る原子も、人も、創造しているものもありません。

全ての力はマインドの考えている力です。

全ての宇宙はマインドで、全ての宇宙は調和的に考えています。

マインドは宇宙/統一的な一つのもので、人はそれを「神」と呼びます。

マインドは宇宙です。

マインドは全てです。

一つです。

第十九章
Omniscience
全知

宇宙/統一的マインドの考えている実質(substance)の中にあるのは全ての知識です。

マインドの実質の全体は知識です。

知識は宇宙/統一的です。

全ての知識と全ての知性の人の観念は、間違った観念です。

人にとって、知識は量的に無制限で、無限に複雑です。

人は、知識と知性の境界線を、彼の理解を遥かに超えていると考えます。

これは真の観念ではありません。

宇宙/統一的マインドの知識と知性は制限されていて単純です。

知識は次元の無い存在の知覚で、それ以上のものではありません。

知識は実質の特徴/性質です。それは、存在と存在の現実性に帰属します。

知識はアルファベットに比べられるかも知れません。アルファベットの中にあるのは全ての知識ですが、単語やフレーズにされるまで、アルファベットはアイデア(思考)に欠けます。

知性は、それが存在の幻想に登録/記録される様に、存在の現実性の理解です。

知性は、実質ではなく、運動に帰属します。それは、存在の現れ(姿/形)と、存在の幻想の非現実性に属します。

知識は受け身的(passive)で不活性(慣性)です。それは不変の原因(unchanging causes)の均整に属します。

知識は、アイデアの無限の種類の単語とフレーズへと、一つに込められた知識のアルファベット(言葉)に比べられるかも知れません。

もし宇宙/統一的一つ(i.e.神/光/エネルギー/波)が創造的な考えているマインドを持たないなら、は全ての知識を有しますが、知性は無いでしょう。

知性は創造的に考える事の運動/実行で、または言葉を変えると、アイデアの幻想を、これ等の幻想の形状へと一つ/一所にする運動/実行です。

知性は活発で、対峙的です。それは変化している効果の対峙する運動に属します。

変化している効果は知られる事が出来ず、それらは理解される事のみです。

存在の幻想の知識の全ては、その幻想の原因の知覚ね制限されています。

原因は不変です。

原因は存在しています。

知識は存在しているものに制限されています。

効果は存在していません。それらは存在すると現れるだけです。それらは移り変わりにおけるアイデアでしかありません。

全てのアイデアは移り変わり的です。考えているマインドのアイデアは、常に運動中で、故に一貫的に変化しています。

固体は、空の沈む太陽と同様に変化しています。それらの運動における違いは相対的でしかありません。

故に、人は、変化している効果から、知識を得る事は出来ません。彼は、その複雑性の理解を得るだけです。

人は、それが効果でしかないので、空の沈む夕日の知識を有する事が出来ません。

人は、空の沈む夕日の原因の知識を持つ事ができ、その効果を彼は理解する事が出来ます。

知識は、原因が単純である様に、単純です。理解はとても凄く複雑化も知れません。

人が「知識」と呼ぶものは、物質(matter)の複雑な事実の、観測された原因と効果に基づいています。

運動の宇宙において、物質の状態化されていない事実(unconditioned facts)はありません。それらは事実の現れでしかありません。

人は、私達の知識の全ては、証明されておらず、そして証明出来ない状態に究極的に依存すると認めます。

物質における形状(form)の事実は、空間、時間、そして運動の世界において証明不能です。

運動している形状としての物質は、不変の実質の変わり続ける効果でしかありません。

物質の効果は形状において現れます。

効果は束の間です。それらは変化し続けます。

形状は束の間です。それは変化し続けます。

原因の効果は、現れにおいてのみの事実です。

この瞬間の現れは、次の瞬間のものと同じではありません。

現れの事実は、証明する事においてそれラ自体を否定します。

物質における形状の全ての事実は、空の沈む夕日同様です。それらは束の間の効果でしかありません。

存在の現れの原因は、状態づけられていない事実でしかありません。

運動の宇宙において「物事はそれらがそう見える様では無く」そして「変化以外に永続的なものはありません。」

全ての形状は一定的に現れと消滅の間の移り変わりです。

移り変わりは存在ではありません。それは、それ自体が存在である、実質の上の運動の効果でしかありません。

水の上のさざ波は、水の実質の上の効果です。それらには、それら自体における存在はありません。水の実質が無ければ、それらは現れる事が出来ませんでした。さざ波のアイデアとして現れ、それらは水の実質の中へと消滅します。

アイデアの10音階の幅を通しての移り変わりにおいて周期的に現れるものは、周期的に消滅します。

現れるものはまた、消滅しなければなりませんが、それは運動の状態は決して終わらないと言う不変の法則に沿って再び現れなければなりません。

神聖な観念は、形状へのアイデアの再生産と、形状の記憶へと再び溶解して戻る事において永続的に反復的です。

全てのアイデアは、形状と形状の記憶のその反復性において周期的です。

神聖な観念は、その永続性において、途方もないですが、とても単純な原因の理解可能な効果です。

この創造している宇宙の全ての効果は、全ての原因が知られた時、理解する事が出来ます。

考える事全ての限界は、運動の法則と運動の効果の中です。

人は運動の効果とその原因を超えては何も考えられません。

物質の新たな現象である物質の現象はありません。

常に無かったものがある、または現れると言う事はありません。

物質の全ての現象には有限の制限があります。

物質の全ての複雑性は、運動の制限された変化とその秩序における光の効果です。

アイデアの形状またはイメージは、それらの変化可能性と複雑性においてでさえ、考える事ォ10音階の幅の限度に制限されています。

全知は制限の無い知識を意味しません。それが意味するのは存在する全ての知識です。

アイデアの複雑性は新たな知識を構成しません。

知られていない原因の束の間の効果の量と複雑性は、知識または知性に何も加えません。

知識は足す事も引く事も出来ません。

知識は知識を超越する事は出来ません。

単なる知識の所有、またはアイデアの保有は知性の示唆ではありません。

ある人は知識の大辞典かも知れませんが、アイデアとしてそれに表現を与える事によってそれが使われる耐えに必要な流動的な知性が欠けています。

人による知識の会得は、砂の粒を数える事と比べられるかも知れません。

一生無駄に数え続けても、砂浜は未だに数えられておらず、10×1000万の砂浜が彼の無駄な数えを待ちわびています。

人々の命は、無数の砂の粒を永遠に数える事に費やされます。

人々の命は、知られていない原因の複雑で理解不能な効果を研究する事に費やされます。

星々の研究は、砂の粒を数えるより重苦しいですが、それよりも重要な事ではありません。

知識は無限の種類においてアイデア(思考)の概念をもたらしますが、その複雑性は、考える事の運動/実行をとおして、存在へと現れます。それはあたかもアルファベットが、アイデアの無限の種類において、その文字の並び/順番を熱望/欲求したかの如くです。

知識における熱望/欲求の性質/特徴は、知性の流動的な運動の原因です。

物質(matter)の形状(form)におけるアイデアの複雑性は、高い音階(octaves)の低い音階において登録/記録された現れであるだけです。

人にとって、現れとは、彼の知覚(認識出来る周波数)の範囲の中に来るものです。

一つの現れが「消滅」する時、それは人の知覚の範囲の向こう(外)に行っただけです。

人の知覚の範囲の中の現れは、新たな存在を意味しません。

人の知覚の範囲を超えた(外への)消滅は、存在の終わりを意味しません。

丘の向こうに消滅した雲は、その消滅のせいで雲である事を止めません。

人の視覚から消滅した蒸気は、水である事を止めません。それは再び水として、人の視覚に現れる事が出来ます。

人がそれを知覚出来るよりも1音階高くへと消滅した光(エネルギー/波)は、光として存在しなくは成りません。

マインドの考える事は、マインドの知識の制限/限度の中にあります。

マインドの考える事は、宇宙/統一的存在(神)の認識に制限されています。

知識の制限は、知識自体の中にあります。

マインドの存在の向こう/を超えては何もありません。

メカニクスと数学、理想と思考、科学と芸術、物質の「固体」と運動の効果は全て、完璧な考える事の複雑な効果です。

人がスピリット(霊)と呼ぶものは、外来性(extraneous)の物質です。物質とスピリットは一つ(同じ)です。

スピリットは、それ自体にとって外来性の新たな実質(substance)を創造する事は出来ません。

一つの実質がもう一つの実質に成る事は出来ません。

マインドは唯一の存在する実質です。

スピリット的で無いものは何も存在しません。

存在が考える事に制限されているので、そして考える事は10音階に制限されているので、無限のスピリット的存在の観念は間違ったものです。

マインドは、存在する全てであるので、それ自体の考える事の10音階の範囲に制限され、そしてまた考える事の運動/実行にも限られます。それは、それ以外の目的も、その他の可能な運動も有しません。

制限されているものが無限である事は出来ませんが、それが永遠的である事は出来ます。

スピリット的存在は有限です。それは制限されていますが、永遠的な存在です。

もし神聖なマインドが無限のマインドであったなら、それは人にとって理解不能だったでしょうが、その単純な制限/限度はそれを簡単に理解可能にします。

もし考える事が全ての効果の原因で、そして考える事の範囲が制限されているなら、するとその原因の効果は範囲におて制限されています。

熱は考える事の効果で、それはその制限を有します。

運動、量、重さ、質量、性別、音、色、形状;これら全ては効果で、それらの制限/限度を有します。

これ等の効果は理解可能です。理解は故に可能な効果の範囲に制限されます。

全ての知性(全知)は故に、無制限の理解を意味しません。それは存在する知性の全てを意味します。

アイデアにおけるマインドの表現の有限な制限は、画家のパレット上の色への彼の限度と比べられるかも知れません。

その画家は、彼のパレットの色の範囲の中で、彼のマインドのイメージを創造する能力のアイデアを表現するにおいて、無限の種類を有します。

これ等の制限の中の彼の種類の複雑性には終わりがありませんが、それらの向こうに彼が行く事は出来ません。

彼は、彼の色の範囲によって制限されています。

その色のスペクトルは彼のパレットで、そしてそれはそれの限度を有します。

その画家先生は故に彼のスペクトルの範囲によって制限されていますが、これらのはっきりとした制限の中で、彼の考えているマインドの、イメージを創造する能力のアイデアの表現のために、彼は無限の可能性を持っています。

はっきりとしている制限が無限である事は出来ません。

神聖な存在は、神聖な考える事の範囲の制限の中に限られています。

この範囲を超えて神聖なマインドは、知覚する事も考える事も出来ません。

人が存在として間違える幻想または現れ(姿/形)は、古い幻想の再来でしかありません。

再来(再びの現れ)は反復です。

創造された物事の秩序性は、考える事の全ての効果における、サイクル的周期性の変化不可能性(invariability)によるものです。

真の考える事のピッチ(音)とトーン(音)とメジャー(測り)とメーター(測量機)は、考える事の反復している周期性の絶対的なリズムによるものです。

自然の容赦ない法則に反映された宇宙/統一的マインドの実の頼りがいは、宇宙/統一的な制限によるものです。

神は、考える事の反復する周期性の秩序性の中に、彼自身の不変の法則を設定しました。

彼自身がそれらによって制限されています。

彼自身がそれらを守る事に縛られています。

神は、彼自身の不変の法則を変える事は出来ず、変えた事は無く、そして決して変える事は無いでしょう。

この事実の上に基づけられているのが、宇宙の実の頼りがい(dependability)です。

奇跡を実施するために神が彼自身の法則を別に設定したと言う人の信仰は、迷信的人の原始的な観念です。

迷信は、内側からどう考えるかを学んでいる原始的な人に帰属します。

原始的な人が、彼の中の神聖さ(神)の一筋の輝きを捕えた時、彼はすると、彼が今までそうであった動物の考え方の上に昇ります。これらのわずかな輝きの上に、彼より優れたものへの恐れに基づいて彼は彼の原始的な観念を造ります。

現代人が彼の、超自然的力の非情な神の観念を持つのは、原始的な人の御蔭です。これらの間違った観念は、人のマインドの伝統に成り、そして彼の考える事の習慣に成りました。

現代人は、原始的な人の不均整な考える事の習慣を相続しています。

秩序的な考える事は、完璧な均整(釣合い)です。

完璧な均整に対して勝る事の出来る不完璧なものなど何もありません。

真の考える事の物差しの変化は、秩序的な考える事のリズムを不調和にし、そして宇宙がある事は出来ません。

光りの中で考える事は、完璧のみを考える事で、完璧が其処に書かれている全てであるためです。

マインドは完璧です。邪悪は存在しません。

不完璧さ、または邪悪は存在しません。

人の邪悪の観念は、間違った観念です。

邪悪は、不均整が不可能であるのと同じ程、不可能です。

読者は、全ての考える事が、2つの同等で対極の運動と反射運動(反応)の間の振動(エネルギー/波)である事を思い出すでしょう。

読者は、どんな2つの正に同等で対極の運動と反射運動の結合は、一つを造る事を思い出すでしょう。

人は彼の行動/運動の上に操作を持ちますが、それらの行動への反射運動(反応)への操作を有しません。

邪悪の現れは、単なる場違いの効能(potential)で、一時的に其処にあるだけです。

木に生る林檎の様に、重力が最終的に、中和(均整)化された効能の正しい場所へとそれを戻します。

制覇している真実の安定性へのこの必然的な戻りは、逃れる事が出来ません。

場違いに吊るされた蓄積された効能としての林檎は、分解によって枝が弱まった時、より高い圧力に向かって落ちる事によって、それ自体の効能を求めます。

再び、腐っていく林檎は、より低い効能のガスへと分解し、より低い圧力に上昇する事によって、より低い効能の場所を求めます。

邪悪も丁度同じです。それは、最終的にその反射運動に出会わなければならない、運動でしかありません。

人が間違った考える事と呼ぶ運動は、その対極で同等のマイナスの反射運動によって均整されたプラスのチャージ(蓄電/蓄積)として魂に同時に記述されます。

故に宇宙の均整は定数(constant/一定)のままで、人は彼の意のままに修正出来る魂の上に彼自身の考える事を記録しましたが;それを修正する事を彼はしなければなりません。



人は、彼の「魂」に関して、そしてその「死後」の宿り場に関して常に心配しています。

人は心配を有する必要はありません。人の魂は、人の進化しているアイデア(思考)の記憶でしかありません。

魂から体は再び生まれます。

魂は人の考える事の記録でしかありません。

人の進化しているアイデアは、永遠に慣性(不活性)の中で留まらされる事は出来ません。

「死んだ」人の魂は、一時眠っている人の記録でしか無く、彼の体の再生を待っています。

その眠りの最初の部分は遠心的でしか無く、求心的な集中的運動の期間への、分散的反射運動(反応)です。

それは、丁度、目覚めが緊縮的で派生的な創造的インパルス(衝動)である様に、考える事の拡張的で放散定な非創造的インパルスです。

それは、体がその派生に対して圧倒的に退化的な時の、圧倒的に放熱的な電磁ディスチャージ(放散/放電)の期間です。

後の眠っている間に、求心的名集中的運動は、目覚めとして知られる状態の原因に成るのに十分に圧倒的に成るまで、蓄積し始めます。

同様に、その日の最初の部分の間、緊縮的で派生的なインパルスは圧倒的ですが、後の「疲れ」が見せるのは、考える事の拡張していて非創造的インパルスは、順を追って圧倒的に成り眠りの再びの期間を原因するまで増幅します。そしてですから振り子は振れます。

運動のその他全ての現象がそうである様に、眠りと目覚めはそれらの対峙の表現において同時的ですが、その連続/継続においてどちらかの圧倒性です。

丁度、生と死もそうです。

生の瞬間から、私達は死に始めます。人が生命として知る派生は、私達が死として知るものが、秩序的な連続/継続においてその順番を取るまで、単に圧倒的なだけです。

死は、日々の眠りより少々長い眠りであるだけです。その違いはその眠りの長さです。

Concerning Reincarnation
輪廻転生に関して

死は、完全な肉体的派生のための眠りの生命期間で、丁度、日々の睡眠が部分的な肉体的再派生であるのと同じです。

魂の再派生は肉体の輪廻転生です。

全てのアイデアの魂の化学は、不活性なガスとして知られるマスター・トーン(主音)の中に記録/登録されます。

魂は、丁度、主音が要素/元素の母体である様に、肉体の母体です。

要素/元素の1音階(octave)の不活性な主音は、その音階の中に運動の全ての効果の完全で正確な記録を含みます。

人の魂は、考えている人の、全ての運動と反射運動の完全で正確な記録を含んでいます。

「その動く指は記述し;そして記述すると、
離れ:貴方の心信や知力があろうとなかろうと
線(一行)の半分をキャンセルするために引き戻され、
貴方の涙は一文字も洗い流さないでしょう。」

創造は、眠りと眠り、目覚めと目覚めの間の、宇宙的振り子の唯の一振りで、日が夜に続き、夜が日に続く様に、お互いに交互に続きます。

夜に間に眠っている間、人は存在し無くは成りません。

人は眠りを恐れる事は無く、それは彼が眠りは美しいと知っているからで、そして彼は新たな日の夜明けと共に目覚めるからです。

人が死ぬ事を恐れるのは、彼が死の暗い眠りが何をもたらすかを知らないからです。

人は死が、それから彼が新たに派生された肉体と共に目覚め、生命の新たな日の夜明けと共にまた再び彼の成長の周期性を始める、より長くより美しい眠りでしかない事を知らないためです。

人は、肉体の「罪」のための罰の原始的人の観念の鬼を恐れます。人は、怪談話によって怖がらされた子供が暗闇を怖がるのと同じ想像的な恐怖で、死の暗い眠りを恐れます。

新たな理解と共に、人は彼の晩年から、想像的な鬼と恐怖を排除し、形状としての彼の消滅の眠りへと、平穏に向かえます。

その消滅において、人は存在し無くは成りません。

彼の消滅において、人のアイデアは断続されません。

日が消滅し、その正しい周期的な間隔で再び現れなければならない様に、人もまた再び現れます。

全ての現れと消滅は周期的です。

また、全ての再びの現れは周期的です。

現れと消滅は、マインドのサイクルにおける移動/運動している点でしかありません。

この運動の宇宙において、創造している物事は、どの点においても停止しません。

創造された物事はありません。

それらは融合し続ける創造している物事で、融合において運動し続け、進化し続け、そしてそれら自体のアイデアの集合体でしかありません。

創造された生命の形状はありません。それは創造しています

あったものはありません。全ての物事は存在/あり方です。

形状へと進化しているアイデアは、想像力の創造的知性を必要とする肯定的な運動です。

大いなる知識しか持たない人は、陰的/マイナスの所有を有しています。彼は正に貧乏です。

大いなる想像力を持つ人は、陽的/プラスの流動性を有しています。知識は彼の中にあり、彼はそれを間違い無く見つけるので、彼は裕福です。

存在の知識は、外的に得られるものでは無く、それは内的に思い出すものです。

新たな物事を人が学ぶ時、彼は彼の考える事の古い経験を思い出しているのであり、以前のより高い音階における彼による思考です。

人は、彼自身の考える事の進化しているアイデアの幻想的な非永続的質について騙されていません。彼は、それらが直ぐに過ぎて、そして彼はそれらの進化している形状を、一瞬でも不変に留める事は出来ないと知っています。

人の客観的な宇宙の相対的なスケール(規模)は、彼の進化しているアイデアについて彼を騙します。

宇宙/統一的マインドは、正に人がアイデアを形状へと考える様に、アイデアを形状へと考えます。

宇宙/統一的一つは、人がそう出来ない様に、神聖なアイデアの進化している形状を停止に留める事は出来ません。

あるのは一つのマインドでしかないので、考える事の行程は一つしかありません。2つのマインドも2つの考える事の方法も無く:考える事を統治する2つの法則もありません。

2つの別々の実質も、2つの別々の物事も、宇宙における2つの別々の存在もありません。

全ての考える事は宇宙/統一的な考える事です。

全ての考えている物事は、調和的に考えています。

全てはそれらが考えている事を創造しています。

全ての考えている物事は自己創造しています。

全ての考えている物事は全ての物事を創造しています。

人は、彼自身の創造主です。

人は、彼の内的なマインドの光のより高い音階の中で考えた時にこれを知るでしょう。

人は、彼がその一部である宇宙/統一的一つの言語を知った時、すると彼は宇宙/統一的一つの声を知るでしょう。

宇宙/統一的な人の中の未だに小さい声は、光速における音の言葉である、光の言語で彼に語ります。

考えている人の心の中で、その沈黙の声は永遠に尋ねています:

私は誰だ?

人は始まりから、「私は誰だ?」と声を出し叫びました。

そしてそのは答えました、「貴方は私です。私、宇宙/統一的一つは、貴方で、貴方は私のイメージにおいて創造しています。」

人の中のそのは、飽く事を知らず永遠に尋ねます:

私は誰だ?

そして更に小さなが答えます:「私は私。私は私が創造している私。私は宇宙/統一的な私。」

「私は存在するすべてで、そして貴方です。

「私は、私と供に一つであるです。

「私は私である私の帝国です。」

人の中のそのは始まりから尋ねます:

私は何処から来たのだろう?

そしてそのは永遠に答えます:「私は創造の宇宙/統一的情熱のものです。

「私は神から来ました。

「私は神のものです。

「私は魂であり、アイデア(思考)の記録です。

「神がいる処に私がいます。

「私がいる処に神がいます。」

人の中で、長い年月のそのは要求します:

私は何なのだ?

そしてその馴染みあるは答えます:「私は神の体で、彼の実質(substance)から生まれました。

「神はマインドです。私はマインドです。

「神は真実です。私は真実です。

「神はです。私はです。

「神は生命です。私は生命です。

「神はです。私はです。

「神はです。私はです。

「神であるものは、私です。が命令するものは、私が命令します。

「私の目的はの目的です。」

「神は私の中に生きます。私の相続は神からで、そして神のものです。」

は私に全てを与えます。が差し押さえる/保留するものは何もありません。」

「私の神格は貴方のもので私のものです。それは私の魂の中に記録されたものです。それは私の聖域の中の神聖なスピリット(霊)です。」

「私は貴方のアイデアです。私の体は私の魂のアイデアです。それは私のもので貴方のものです。」

「私は巧みな造形家です。私の体はプラスチック粘土です。私の魂は、私の体の母なる鋳型(いがた)で、私の再派生(regeneration)の母体です。」

「私は私であるものです。

「私は私が熱望するものに成るでしょう。

「私であるものに、私は成る熱望を持ちます。

「私は私自身の熱望の総合です。

「私は貴方であり、私自身の創造主です。

「貴方は私であり、全ての創造主です。」

「私が貴方で、全ての創造主なのは;私が私自身唯一のものでは無いと、貴方が、私の心の中でそれを知る様にさせたためです。」

「私は貴方で、そして貴方は私です。」

「私は最も遠い星のもので、私の庭の芝生の葉のものです。私は私の兄弟のもので、山のものです。」

「私の考える事のエクスタシー(良い意味での有頂天/覚醒)は、100億の星々の10倍のスペクトルを変化させ、そして終わりなき空間のエーテルを灯します。」

「貴方の考える事は存在する全てを創造しました。

「私の考える事は貴方の考える事です。

「私は覚醒的な人です。

「私は人で、自己創造しています。

「私は神で、人の創造主です。

「私は私自身の父です。

「私は生きている神の息子です。」

「空間/宇宙の終わりは私のものです。私は、貴方の限界/制限で無い限界/制限を知りません。」

人の中でその更に小さいは始まりから止めどなく尋ねます:

何故、私は存在する?

そしてそのは答えます:「私は、創造の宇宙/統一的情熱の表現です。」

「神は、私が彼の目的を達成すべく、私を創造しました。神は私に創造するための情熱と、創造する力を与えました。」

「神は私の中に宿ります。私は、私の中の神である私の中の力を否定しません。」

「私は、私の魂のつぶやきへの私の魂の耳を閉ざさず、それは内的な考える事のエクスタシーにおいて、私を山頂に住まわせます。」

「宇宙/統一的熱望は、終わりなき空間を通した終わりなき連続/継続における法則に沿った、考える事のリズムを通したアイデアの表現です。」

人の中で問い続ける宇宙/統一的懇願します:

何処へ私は結ばれて(向かって)いる?

そしてそのは答えます:「神は私の始まりであり、私の実質で、そして私の終わりに成るでしょう。」

一つから私は来ました。その一つへと私は戻るでしょう。」

「私は、その一つの意志を成す方法の滞在(?tarry?)でしかありません。」

「私は宇宙/統一的な人で、私の創造主のイメージです。エクスタシーと高揚が私に伴うのは、存在する全てが私の中にあると私が知るためです。」

「私の住処は、海と陸の上の山頂の高い天界の中です。」

「私はエクスタシーの中で高い天界を歩き回ります。

「私の足は翼です。

「空間の終わりは私のものです。」

「私はその方法によって宇宙の全てへと讃えを歌います。天界の主人達はその方法によって私と祝賀します。」

「私は私の統一性/調和を否定しました。私は私の宇宙性/統一性を知りませんでした。」

「私の住処は地上でした。私は地上を鎖の中で重く歩きました。」

「私の地上に縛られた足は、私の後ろで重く引きずられました。私はその長い道のりに疲れました。」

「私の背中はその重荷の痛みで曲がりました。

「私は寂しく、そしてその道は暗闇でした。」

「私は、私の統一性(One-ness/一つである様)を否定し、そして暗闇の寂しさの中に生きる事をしません。」

「私は私の宇宙性/統一性を知り、そして私は内的な考える事の光の中で山頂に住むでしょう。」

「希望は光の中に宿ります。

「絶望は闇の中に隠れます。

「生命と成長は光のものです。

「死と破壊は闇のものです。」

MEMORY
記憶

人による新たな知識の会得は、古い知識の再思考または思い出しでしかありません。

学習は会得では無く:それは思い出しの運動を通した真実の認識です。

思い出しは、記憶の中、慣性(不活性)の中に納められたアイデア(思考)の効能(potential)的エネルギーの、集中的考える事の状態である活発な/運動的マインドの動的(kinetic)エネルギーへの、変格運動です。

思い出しはマインドの、流動的で集中的な運動です。それは故に電気的にプラスで、対峙運動に帰属します。

それはアイデアの記憶に再び形状(form)を与える運動です。

思い出しはこの点において創造からは異なります;集中的な考える事による形状へのアイデアの創造の運動は、元々/起因の運動です。

思い出しの運動は、その元々の運動の再派生または再生産で、その反射運動(反応)は記憶の中に納められます。

それは、アイデアの魂の、その体の中への復活/再臨です。

それは、その更なる進化のための、形状へのアイデアの再創造です。

記憶は、マインドのアイデアの倉庫です。

考えているマインドは、「記憶」、「本能」、「感」、そして「想像力」と言った多くの名前によって人が呼ぶ、マインドの運動における記憶の倉庫を利用します。

それらは全て一つで同じです。それらの異なる意味の度合は、進化しているアイデアの何百万年もの記録された記憶の古い思い出しにおいて、それら自体が現れる、異なる度合いだけを示唆します。

もし人が、それが神のマインドであれ、人、鳥、ビーバー、カシの木、または薔薇のマインドであれ全てのマインドの考える事は同じ鳥飼すれば、彼は宇宙のより真の観念を有するでしょう。

もし人が、有るのは一つのマインドでしかなく、考えているのは一つのアイデアの表現でしかないと理解すれば、彼は神聖な概念を理解し始めるでしょう。

もし人が、その一つのアイデアが創造していて進化している宇宙全体で、通り過ぎる空想としての神聖なマインドの大いなる幻想の一つは、人のマインドのげんそうであると理解すれば、彼は原理的な真実に近づいて行っているでしょう。

するともし人が、一つのアイデアの幻想は形状における幻想でしかなく、その実質(substance)はマインドであると理解すれば、すると彼は頼れる現実として幻想を見ず、頼れない幻想として一つの現実を見ます。

もし人が、彼の理解において更に行きつき、神と人とカシの木と原子は全て一つだと気付き、そしてこれらの全ては神聖なアイデアを考え出していると気付けば、すると彼は神聖なものの中の神聖なものの扉へと近づくでしょう。

恐らく、現れとしての考えている人間の脳を、現れとしての宇宙の考えているマインドと比較する事によって、それはこの観念の会得に向かって考えている人を補佐するでしょう。

人にとって、宇宙の現れは、お互いから制限された距離における数え切れない物体のものです。人は彼自身をこれ等の物体の一つとして、一つの固体で、単独で、独立していて、全てのしがらみから自由で、彼が望むように自由に考え振舞えると考えます。彼の実の呼吸を、彼は彼自身のものと考え、そして彼の振舞は、彼の考えによると、彼自身のものです。

私達は考えている脳内を見て、そしてそうする事で、人が彼の宇宙を見る様に、彼の宇宙を見ている脳の一つの原子としてに、一つの惑星の上の、一人の考えている固体の男性の単位(小さい人)を想像してみましょう。

この単位にとって宇宙の現れは、人の宇宙が人にとってそうある様に、彼にとって正に同じです。

彼の視野の中のその物体は、相対的な距離によって分けられています。彼と彼の星めいた天界の巨大な太陽達の間には、膨大な空間が中間にあります。

それらの発光は、彼にとって、比較的に同じで、全てのシステムのプラスの中核は光を与える太陽であるためです。

そしてまた、それらの相対的な運動は同じで、光単位(原子/ニュートロン/エレクトロン/プロトンetc.)の毎秒1兆回転(公転)は、人にとっての1日の様に、彼にとって相対的に遅いためです。

進化の周期性は、それが記録する現れ同様に相対的です。

であるなら、このちっぽけな、考えている単位である人にとって、彼自身を、膨大な宇宙の中の一つの人と考えるのは、道理の合った事ではないでしょうか?

彼が全体の一つの現れる単位でしかないと気付く事は、人がそう気づくのと同様に、難しいのではないでしょうか?

そして、人の脳内の彼の宇宙におけるこのちっぽけな単位と共にそうである様に、彼の客観的な宇宙における人も同じではないでしょうか?

一つは、考えている人の考える事で、人のアイデアの進化の中で機能していて;そしてもし人が意志したとしても、彼はそれ以外はそうする事が出来ません。

もう一つは、神聖な概念の進化における機能している宇宙/統一的アイデアを考えていて;もし彼が意志したとしても、それ以外そうする事は出来ません。

全ての(呼吸の)吸い込みと吐き出しは、生きている宇宙/統一的一つエーテルの吸い込みと吐き出しです。

全ての思考と全ての運動は、考えている行程の運動と反射運動の、宇宙的パルス(衝動)に同調していて、それらはそれ以外である事は出来ません。


Instinct
本能

「本能」として知られる現れを考えてみて下さい。

ビーバーは、技術開発の素晴らしい偉業である、ダムを造ります。

彼はそれをするために教えられましたか?もし、彼の両親と全ての親戚/同胞が殺され、彼が一人で成熟したとして、彼は全く同じに行い、そして実に完璧にこなしませんか?

彼はそれをどうやってこなすのでしょう?

「本能だ、」と人は答えます。

蜂は素晴らしいセル(賽の目/蜂の巣)を造り、蜘蛛は彼の蜘蛛の巣を造り;納屋ツバメは納屋に巣くり、煙突ツバメは煙突に巣くり、コマドリは季節によって南北に飛びます。

「本能」は彼等にそうさせます。彼等はそうしない事はできませんと、科学は言います。

唯そうであり、彼等はそうしない事は出来ません。

私達の内の誰も、またはものを創造している誰も、再発生(輪廻転生)の無数の期間に、考える事、または考えた事をそうしない事は出来ません。

これらの運動/行動は全て、ビーバーのダムを造り、蜜蜂の巣を造り、そして蜘蛛の巣を造る時代/時の間;そして移住と巣作りの時代/時の間、慣性の運動(motion-in-inertia)における記憶として記録された、その進化のアイデア(思考)を流動的に思い出している、考えているマインドの運動/行動で、全体としての神聖な観念の進化している現れのその他の特徴です。

Imagination
想像力

「想像力」として知られる思い出しの現れを考えてみて下さい。

想像力の質は、魂の中に記録された記憶を思い出す能力と、光の中で考える能力に沿って変化します。

光の中で考える事は、内的な主観的なマインドの、より高い音階(octaves)の中で考える事です。

光りの中で考える事は、内的なマインドから、外的で客観的なマインドを、その音階の融合が無かったかの様に、それを遮断する事です。

外的なマインドは、主に存在の現れとしての体に関心があり、そしてそれ以外の殆どには、全く興味、または関心がありません。

人、またはライオン、または犬、もしくは象の外的なマインドは絶対的に同じです。

人は、彼のより高い音階の中で考える能力と、彼の宇宙/統一性の記憶の中の、慣性の運動の中に貯められた存在の知覚を、彼の外的なマインドへともたらす能力においてのみ、動物から異なります

この慣性の運動の中に浮遊させられた全ての知識の知覚は、彼が新たな知識だと考えるものを鼓舞し、彼がそれを彼の考える事に加える度、彼はそれを彼の魂の上に上書きします。

人は、彼が新たなアイデアと考え、存在の現れへともたらされたものは、彼の考える事の外的な平面/領域の上に反映された、彼の中に貯められた古いアイデアでしかない事に気付きません。

Inspiration
ひらめき/鼓舞

人が彼に来たひらめきを、他の人々に与える時、彼は生きている神の神聖な使者で、人に神聖なものの内で最も神聖なものからの啓示(明かし)を知らせています。

その天才は、その想像力を持つ超-思考者は、美をこの世界にもたらす者で、光の中で考えている鼓舞された人です。

想像力はより優れていれば、宇宙/統一的存在の現実の知覚もより優れていて、故により優れた知性です。

想像力がより劣っていれば、存在の現れの現実はより大きいです。

想像力がより優れていれば、統一性(One-ness)により近く、そして動物から、より離れています。

より優れた想像力のひらめかされた天才は、大いなる知性を有します。

彼は彼の知識を創造的に使う事が出来ます。

彼が知ろうと熱望するこれらの物事を、彼は知るでしょう。

貧しい/低姿勢な詩人は、夜の球体/軌道の熟考によって、彼に与えられた知識により鼓舞され、証明されていない事実を証明しようと死んでいった長い(代々の)世代より長く残る真実のメッセージを人に与えるでしょう。

「預言者達」は、大いなる才の超思考の人達でした。

「預言者達」は物事の原因の知識を有していて、そしてそれらの効果を事前に伝える事が出来ました。

原因の効果の理解は、預言ではありません。

物事の始まりの知識から、未来の物事に関する想像する事は生まれます。

明日のための天気予報は預言では無く;知性の運動から生まれた知識です。

天才は、文明の先駆者です。

天才は、高い天界(大脳)と山頂のエクスタシー(良い意味での有頂天/覚醒)を知っています。

天才は人と神の間の架け橋です。彼はそれを渡るでしょう。

天才は、全ての人の魂の中に閉じ込められています。意志する者は、その扉の鍵を開け、そのエクスタシーを知るかも知れません。

天才は人に、それ唯一長く残るものを与え、それを人は「芸術」と名付けました。ひらめきの生まれでなく、エクスタシーの中で創造されたもので無い人の働き/作品は、長く残る事は出来ません。

天才は人にアイデア、リズム、そして形状を与え、それは魂のものであり、それを超えて、創造している宇宙において、何もありません。

天才は、宇宙/統一的なこれ等の中に、制限/限界を知りません。

天才はそれらの完全性のすべてにおいて、愛と真実を知っています。

天才は、宇宙/統一的な一つの言葉を、人の魂のために人の言葉に翻訳します。

天才のエクスタシーを会得する者達は、宇宙/統一的な一つの(神/運命に)任命された使者です。

天才は人を、醗酵/熟成のより低い段階から持ち上げます。人はまだ新しいもの(新種)です。人は、未だに熟成中です。

天才は、乱暴な人を紳士な人に持ち上げます。

天才は人に、それ無しでは全てが不和の、宇宙/統一的リズムの調和を与えます。

天才は人に、魂のものである知識を与えます。

彼の心を天才のメッセージに同調させる人は、彼自身を純粋化させます。彼はすると神聖な一つと聖体拝領(communion)なので、彼の心に不純がある事は出来ません。

心の清い者は、彼等の宇宙/統一性を知っています。

人は、その人の統一性を知るでしょう。

天才の翻訳を聞く者は、創造の言葉を知っています。彼は、彼の内的なマインドに語っている、光の宇宙/統一的リズムを知っています。

天才は、聴く者を待っています。天才のメッセージは、唯一、内的なマインドのためのものです。外的なマインド(小脳/動物的)はそれを理解しません。

エクスタシー(覚醒)へとその内的なマインドが加速させられた人に、神は森の木々から語り、人は理解します。

彼にとって、自然の沈黙の声が、理解と共に、泡噴く小川と波打つ海から語ります。

彼にとって、宇宙/統一的マインドは、太陽の光と天界の青いドームから、真実を解きほどきます。彼は全ての知識を有しています。

彼にとって薔薇色の夜明けと黄金の秋は、彼にとって神聖な一つからのアノイント(オイルを塗る儀式)であるメッセージを歌います。彼は限界を知りません。

耳を持たない者は、転載を磔にします。天才への罰は磔です。天才への報酬は不死です。

人が磔にする者を、彼は不死と共に栄光化します。

「ホーマーが死んだために、7つの街が戦争し
生きている者は彼の頭を覆う屋根をもたなかった。」

天才は報酬を望みません。天才の栄光は謙虚さです。天才は傲慢さの汚染を知りません。

Conclusion
まとめ

人は彼自身の中に全ての知識を有します。ひらめきは全ての知識の扉の鍵を開けるでしょう。

全ての知識は、宇宙の全ての中に、その全体性において存在します。

全ての知識は、宇宙/統一的であり、人の中に存在します(i.e. As above, so below/大宇宙の様に小宇宙/人もまた)。

宇宙は全知です。

宇宙は不変に統一されています。

全知はエレクトロン(電子)のもので、原子で、原子の磁場で、分子で、山で、人で、惑星で、空気で、水で、火で、天界と宇宙の遠くまで届く星々です。

宇宙の統一性は、全てを含む事において、例外も、失敗も、間違いも許しません。

宇宙/統一的マインドから省かれるものは何もありません。

全ての物質の中に全ての知識があります。

全ての物質の中に全ての知性があります。

全ての物質はスピリット(霊)です。

スピリットは神です。

神は宇宙/統一的です。

神は全てです。

一つです。

<58-59ページ:図表(宇宙の一つの力は、考えているマインドのエネルギーです。その他のエネルギーは存在しません。)>

<第一巻終了>



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