洗脳からの開放

S.N. アルテハ
相対性理論の基礎に対する批判


本書のテーマは相対性理論の基礎についての体系的,批判的な分析である。批判の対象となるこの理論の新たな論理的矛盾に主な注意が払われる。論理的矛盾が存在すれば,いかなる理論も価値がゼロになってしまうからである。本書では相対性理論,またこの理論から導き出される帰結が抱える数多くの論争点と矛盾点が詳しく検討され,空間,時間,同時性の相対性といった特殊および一般相対性理論の基本概念が,論理的にも物理学的にも破綻していることが証明される。本書には相対性理論の出現と確立に関係する諸実験の解釈についての批判的分析が含まれている。さらに,本書では相対性理論の動力学概念に対する批判が詳しく提示され,この理論の中で「正常に機能しているかのように見える」部分――相対論的動力学――が矛盾しており,根拠を欠いていることが示される。

本書は大学生,大学院生,教師,科学技術者,そして物理学の基本問題について自立的に深く考えようとするすべての読者にとって興味深いものとなろう。

訳者:吉田正友 日本語訳公開:2014年3月

まえがき

親切で正直,聡明にして楽天的な
我が両親に本書を献げる

前世紀における技術分野の成果がきわめて目覚ましいものであったのにくらべ,科学分野の成果は(科学界の取り巻きが流布している宣伝文句とは逆に)それよりずっとささやかなものでしかなかったことを認めなければならない。それらの成果はいずれも,理論物理学者たちの「ブレイクスルー」というよりは,むしろ実験家や技術者,発明家たちの努力のおかげとみなすことができる。「後付けの説明」なるものの価値がどの程度のものかは,誰もが知っている。それだけではなく,理論家たちのそのような「ブレイクスルー」から生じた「損失」について,実態に即して評価を行なうことが望まれる。前世紀におけるもっとも重大な「損失」――それは,物理学全体の統一性と相互連関,すなわち,科学的世界観と物理学諸分野へのアプローチの統一性が失われたことである。現代物理学が「つぎはぎだらけの毛布」の様相を呈していることは明らかである。そして人々はこの毛布を使って,ばらばらに切り離された研究や互いに脈絡のない事実の堆積からなる,見通せぬほど巨大な山を覆い隠そうと試みている。十分に検証されたいくつかの基礎理論が現代物理学の基礎をなしているという,人為的に支持されている意見とは裏腹に,(個別の具体的現象のための)ad hocな仮説や,さらにはまた,問題の既に知られている答えを覗き見た学生さながら,計算結果を「必要な方向」に補正するという科学を装った行為が,あまりにもしばしば見受けられる。基礎理論が実際的応用において持つ予測力は,(「科学界の芸人」たちの主張とは異なりゼロに近い。これはとりわけ,特殊相対性理論に対して当てはまる。「特殊相対性理論の」実際に検証可能な結果は,この理論の創出以前に得られたもの,あるいはこの理論の着想を用いることなしに(往々にしてこの理論に対する反対者によって)得られたものであって,それより後に「収集家」たちの努力によってこの理論の成果に「組み込まれた」ものなのである。

相対性理論は現代物理学にがっちりと統合されているのだから,その土台をほじくり返すべきではない,そんなことをするより「建物の上階」を増築したほうがいい,この理論を批判しても「コブをつくる」[失敗して痛い目にあう]だけだ,と思われるかもしれない(相対性理論に対する批判を永久機関の発明になぞらえた,ソ連科学アカデミー最高幹部会の決定を思い出そう)。まともな学術雑誌は,今後10億年間検証することのできない仮説であれ,永久に検証不可能な仮説であれ,審査をいとわないものだ。ところが,相対性理論の根本にかかわる問題については,その審査をすべての学術雑誌が引き受けるわけではない,と言うにはほど遠いのが現状である。状況は,これとは逆でなければならないのではなかろうか。相対性理論の基礎は高等教育機関だけでなく,学校でも教えられているのだから,「若者の精神を堕落させない」ためには,どんなに小さな疑問が生じた場合にも,あらゆる問題が科学界によって真剣かつ詳細に検討されなければならない。

しかし,科学エリートの中には,少数だがきわめてアクティブ,かつきわめて地位の高い一群が存在し,これが奇妙にコード化されたやり方で振る舞っている。彼らは,「尻尾がピンクの黄色い象」(ビッグバン後に必ず残ったはずの月内部に存在する超重粒子,あるいはこれに類するもの)のことなら,保護者のように真面目な顔をして議論をすることができる。ところが,相対性理論についての議論の試みとなると,彼らは統一センターからの指令に従っているかのように,そしてまるで自分の体から下着をはぎ取られ,そこに何か「ほくろ」のようなものが見つけられてしまうのを恐れるかのように,アクティブに活動し始める。これはただ単に,彼らに対して「大至急敵を撃滅せよ」という命令が下り,それで彼らは,しばしば相手の論文を読みもせずに,相手の顔に泥を塗りたくっているにすぎないのかもしれない(幸い,筆者は今までのところこの難を逃れている)。いかなる批判であれ,たとえ不愉快きわまりない批判であっても,彼ら自身の理論を改善する力を持った何らかの合理的核心を含んでいる可能性があるにもかかわらず......。

相対性理論は,単なる理論としての役割(例えば電磁理論に応用される各種の計算方法のうちの一つのような役割)ではなく,第一原理としての役割,さらには他のあらゆる検証済みの原理や概念(時間,保存則,等々)を無効とする力を持つ,「至高原理」の役割さえを自らのものとして要求している。したがって,相対性理論はより入念な論理的,実験的検証を受ける用意がなければならない。本書で示されるように,この理論は論理的検証に耐えられない。

相対性理論は,それぞれの局所的要素には矛盾のない,いわゆる「不可能な構造体」(本書の表紙に描かれている「不可能な立方体」,等々)の実例をまざまざと示している。この理論は局所的な数学的誤りは含んでいない。しかし,我々が「記号 t は時間を意味する」と言うやいなや,ただちに構造体を延長することが可能となり,そして矛盾が現れる。空間の性質等々についても状況はこれと同様である。

この理論の元々の「パラドックス」はただ単に,相対論者たちによってあたかも真理であるかのように,ある種の「奇妙さ」に転化されたものであるにもかかわらず,長い間,我々は「パラドックスとともに生きる」という考え方を教え込まされてきた。しかし現実には,正常な人間なら誰でも,もしある理論の中に確実な論理的矛盾が存在する場合には,科学全体が依拠している論理とその個別的理論との間で選択を行なう必要があることを理解している。個別的理論のほうを選択できないことは明らかである。他ならぬこの理由により,本書は相対性理論の論理的矛盾についての検討から始まる。そこでは論理の問題に主な注意が払われる。

現実の現象を記述するあらゆる物理理論は,「イエス/ノー」タイプの原理に従って実験的に検証することができる。相対論者たちもまた,「実験的に検証不可能なものは,存在しないものである」というアプローチを形式的には支持している。相対性理論は低速度(例えば運動学の場合)においては古典物理学に移行しなければならず,その古典的結果は一義的である(観測系に依存しない)ことから,相対論者たちはしばしば,パラドックスを古典的結果と一致する唯一の結果に帰着させる方法で,自分の理論に矛盾が存在しないことを証明しようと試みている。これはそれ自体,相対性理論の運動学的効果を実験的に検出することが不可能であること,すなわち,その効果が実際には存在しないこと(つまり,導入された相対論的な値は補助的な性質のものであるという,ローレンツの元々の見解)を認めていることである。相対論者たちは数多くの論争点を実に様々なやり方で「説明」しようと試みている。すなわち,各人,「裸の王様」の衣装の存在しない細部を自分勝手に考え出すことを許されている。この事実もまた,この理論の非一義性を示す間接的徴候となっている。相対論者たちは,まったく相対論的でない分野の理論も含め,可能な限り多くの理論を相対性理論と整合させることによって自分の理論の意義を大きくしようと試みている。全世界に広がるこのような連携の「クモの巣」が持つ人為性は,一見して明らかである。

相対論者だけでなく,物理学には独自の法律があることを忘れた数学者もまた,相対性理論を(自分の活動領域として)擁護している。第1に,いくつかの最終結論の立証可能性は,その理論の真理性を証明しない(これは,フェルマーの定理が正しいという事実からは,350年の間に提出された「証明」が正しいという結論は導き出されない,あるいはまた,恒星や惑星の観測される運動からは,水晶球[プトレマイオスが導入した,惑星や恒星がその上に存在するという天球]が存在するという結論は導き出されないのと同様である)。第2に,数学においても,式で表すことが困難で,かつ解を求めることを難しくするような追加条件(例えば自然数解を見出せという条件)が存在する。物理学においては,このような事実は,例えば「値の物理的意味」という概念によって表現される。第3に,数学が任意の対象(実在するものであれ,実在しないものであれ)について研究することが可能であるのに対して,物理学が取り組んでいるのは,現実に測定可能な物理量の間における相互関係の探求のみである。もちろん,現実の物理量をいくつかの関数の組み合わせに分解したり,あるいは何らかの複雑な関数に代入したり,これらの組み合わせの意味を「でっち上げ」たりすることは可能である。しかし,それは学校の数学でやる代入の練習以上のものではなく,その練習は難しさの度合いにかかわりなく,物理学とは何の関係も持たない。

我々は,「科学界の芸人」たちの(自らの利益のためにだましたい,あるいはだまされたいという願望は彼らの良心にゆだねておいて,相対性理論のいくつかの疑問点について偏見のない分析を試みることとしよう。

相対性理論の誕生以来の期間をつうじて,そのパラドックスや相対論者の実験に対する批判を含んだ論文が幾度となく現れ,この理論を修正しようとしたり,エーテル理論を復活させようとしたりする試みがなされてきた。しかし,通常,その批判は個別的な性格を持ち,この理論の個々の側面にしか触れていなかった。ようやく前世紀の末になって批判の流れが著しく大きく広がり,その質も高まった(本書末尾の文献一覧には,これに関連する論文と書籍が掲げられている。その内容については,その題名自体が語っている)。

批判側の場合とは異なり,相対性理論の側には専門家による基礎的な擁護論[3,17,19,26,30,31,33~35,37~41]が存在することを認めなければならない。それゆえ,筆者が自らに課した主な目標は,他ならぬその優れた相対性理論擁護論に依拠しつつ,この理論に対する首尾一貫した体系的批判を与えるということであった。本書の本論部分は,一般に採用されている暗黙の慣行に従い,査読付きの国際学術雑誌( GLILEAN ELECTRODYNAMICS, SPACETIME & SUBSTANCE による審査を受け,これを通過した内容からなっている。その結果,論文[48~55]を嚆矢として,課せられた課題は徐々に達成されつつある。これらの論文においては,相対性理論の基礎をなしている諸実験,特殊および一般相対性理論の基礎的な運動学概念,相対論的動力学の動力学概念とその帰結が詳しく検討されている。批判的研究の流れ全体の中で,相対論的動力学に関する仕事はこれまでほとんど見受けられなかった。この事実が本書執筆の主な理由の一つとなった。

本書は,いくつかの発表論文を統一的な見地からまとめ直したものである。(しかも,読者にとって,論理の細部は自国語で読んだほうがより良く理解できるのが常である[著者の前掲論文はすべて英語で書かれている]。)我々は,「不条理な絵」の全体をできるだけ完全に見て取ることができるようにするため,相対性理論のそれぞれの疑問点を,可能な限り他の疑問点とは独立した形で検討するよう努力したい。しかし,本の分量をなるべく小さくするため,本書では,検討されている問題に関する記述の教科書からの引用はなされていない。したがって,相対性理論の基礎について,読者がある程度の知識を持っていることが想定されている。また本書では,この理論の一般的解釈だけでなく,可能な「相対論的代替案」もしばしば検討されている。これは,疑わしい解釈について別の相対論的選択肢を作り出し,相対性理論を修正しようという誘惑が誰かに生じるのを防ぐためである。「怪物」はとっくに死んでいるのだから,生き返らせようとするのは無意味だ――これが筆者の見解である。

首尾一貫した叙述の論理を選択することはきわめて困難であった。どの問題についても,その問題に付随する多様な論点すべてを本書の同じ箇所で一度に叙述してしまいたいという気持ちが生じたが,それはまったく無理なことである。読者に本書を最後まで読み通していただけるだけの十分な力と忍耐があれば,本書を読み進める途中で生まれてくる疑問や疑念は,順次解決されていくものと筆者は期待している。本書の構成は次のとおりである。第1章では時間と空間に関する相対論的概念,また相対論的運動学のその他多数の側面の描像が示される。第2章は一般相対性理論の基礎と相対論的宇宙論に対する批判をテーマとしている。第3章では相対性理論の実験的裏付けに対するコメントが与えられている。その際,我々は,電磁気学,またはエーテルに関する個別的仮説にしか関係を持たない実験については詳しく検討することはせず(これはそれ自体で一個の大きなテーマとなる),もっぱら,相対論の運動学と動力学の本質そのものにのみ関係する一般的な実験について分析を行なう。第4章は特殊相対性理論の動力学概念,また相対論的動力学の結果と解釈に対する批判を内容としている。各章の終りでは短い結論が与えられている。付論ではいくつかの個別的仮説が検討されている・・・

・・・

マイケルソン−モーリーの実験

周知のように,光は相異なる現象においてその姿を粒子として,また波動として現す(粒子と波動の二重性という言葉は,今検討している問題とは何の関係もない)。最初に,光の粒子性を仮定しよう。この場合には,マイケルソン−モーリーの干渉計モデルは互いに垂直な2本のアームの形で提示することができる。理想的な反射器が装置の中央に1つ,各アームの端部に1つずつ設置されている(図3.1)。互いに平行に速度v1(「世界の参照系」に対する速度)で運動している2つの粒子が,それ自体が速度V(前記と同一の系に対する速度)で運動しているこの装置に入ったとしよう。ただしv1> Vである。すると,装置に対する粒子の速度は点O1においてv1−Vとなる。粒子1は装置の中央で反射した後,それと同一の速度(装置に対する速度)v1−V(絶対値)で垂直方向に運動する。2つの粒子は各アームの端部から同時に反射する。また,両粒子は点Oにも点O1にも同時に到達する。速度v1およびVの如何にかかわらず,2つの相互に垂直な方向において,これら2つの粒子の速度にはいかなる差も認められないことになる。したがって,光を粒子の流れとみなした場合,マイケルソン−モーリーの実験(ケネディ−ソーンダイクの実験,トマーシェク[Tomachek]の実験,ボンチ=ブルエヴィチ[Bonch-Bruevich]およびモルチャノフ[Molchanov]の実験,等々)の結果は,いかなる肯定的結果も与えることはできなかった。

今度は光の波動性を仮定しよう。この場合には,光速度は媒質(エーテルまたは真空)の性質および/または伝播しつつある光自体の内的特性にしか依存し得ない。エーテルが存在するという仮説を採用した場合には,光速度はその媒質の性質に依存する(音とのアナロジーによる)。この場合,光速度が光源の運動速度と重ね合わさることができないことは明らかである(超音速機の轟音は媒質によって定まる一定の速度で伝播し,その結果,超音速機は音を追い越す)。さらに,光は物質と相互作用し(物質によって散乱または吸収される),エーテルとも相互作用する(エーテル中を伝播する)のだから,エーテルと物質の相互作用も観察されるはずである。ところが,マイケルソン−モーリーの実験の相対論的解釈においては,エーテルに対する光の固い「結合」,またエーテルと物体の相互作用の完全な非存在(地球や装置によるエーテルの引きずりは存在しない)という,あり得ないことが仮定されていた。当然のことながら,エーテルの部分的引きずり(なお,薄い境界層内における一連の局所的実験の場合,エーテルの引きずりは事実上完全な引きずりとなる可能性がある)が存在する場合には,理論は複雑化する。しかし,このことはけっしてエーテル仮説を覆すものではない(相対論者たちはと言えば,彼らは,ある小話にあるように,夜,暗がりで落とした鍵を街灯の明かりの下で探している酔っ払いのように行動することを提案している――見つけられる場所ではなくて,探すのが楽な場所で探せ,と)。我々は以下においてエーテル概念に簡単に触れるが,その際には,しばらくの間,真空中における場合の古典的相対性原理にのみ依拠することにしよう。特殊相対性理論のあらゆるパラドックスや本書の結果にとって,我々のところにあるのは真空なのか,それともエーテルなのかは重要でないからである。

光が波動であるとすると,光源の速度は周波数のみを変化させる。したがって,その周波数をωとしたとき,光速度c(ω)は光源の速度に依存しない。ここで念頭におかれているのは次のことである。すなわち,同じ周波数の光の波動は互いに同一であるということ,また,我々が周波数ωの光を知覚したとしても,その光が,光源によってその周波数そのもので放射されたものなのか,それとも周波数ω1で放射されたが,光源の運動によって周波数がω1→ω(ドップラー効果)に変化したものなのかは,まったく区別することができないということである。いずれの場合も測定される値c(ω)は同一となる。

さて,マイケルソン−モーリーの実験およびその類似実験に話題を戻そう。入射光,薄板を通過した光,および鏡からの反射光は同じ観測系内では同一の周波数を持つ。それゆえ,光速度c(ω)は2つの互いに垂直な方向について一定であり続け,これらの実験は何も検出することができなかった。2本の同じレーザー光線によるTausonの実験もまた,何も検出することができなかった。なぜなら,複数の光線を(同一方向の)単一のパターンに合流させると周波数は同一となり,規則的なうなりは観測されなくなるからである。このように,1つの固定周波数を用いた実験によって光速度の変化を検出する試みは,その本質そのものが誤っている。検出を試みることが可能な唯一の依存性はc(ω)依存性のみであって,それ以外のすべての依存性は間接的な形で,すなわちドップラー効果を通じて登場することしかできない。

方法論上の目的のために,教科書に含まれている一見真理のように見えるいくつかの誤りについて検討しよう。一部の研究者たちは「古典的な観点」に立ち,エーテルは不動であり引きずられることはないという仮説から出発しつつ,干渉計内における光線の走行時間の差を計算するために奇妙な模式図を描くのを常としている[35]。この模式図では反射の法則が働かない,つまり入射角が反射角と等しくない(図3.2)。これは実験と矛盾する。そうだとすれば,少なくとも,そのような偏差のメカニズムを説明し,実験に対するそのメカニズムの影響を決定する必要がある(古典的法則に従って光の速度と干渉計の鏡の速度との重ね合わせを仮定すれば,それを決定することは可能かもしれない)。また,同一の光線の干渉を可能とする角度をどうやって推定するのかも不明である。すべてのデータを記録するのは干渉計といっしょに運動している観測者だけなのだから,実際問題として,まさにその観測者の視点から実験を分析することが必要とされる[50]。

アインシュタインの方法にもとづく時間同期化は,実験のアイデアにさえ人為的な制約を持ちこむ。相対運動の可逆性(−v+v= 0)により,系の運動速度に対して光速度が依存性を持つようにするためには,奇数の効果しか存在することができない。ところが,光速度を(閉じた経路に沿った)互いに逆向きの2方向についての平均速度として決定しようと試みられている。その結果,系の運動速度に対する唯一の古典的線形依存性が互いに消去され合っている。このように,この種のアプローチは,そのアプローチ自体が,実験的に検証される必要があった光速度不変性の公準と,既にこっそりとすり替わっているのである。

マイケルソン−モーリーの実験およびその類似実験はガリレイの原理と矛盾しておらず,したがって上記において,この実験について真空空間の立場から詳しく検討したのであった。今度は,この実験の元々のアイデアをエーテル概念の観点から検討しよう。精度のオーダーが1桁の実験であれ2桁の実験であれ,その実験の正しさが実用精度で裏付けられる程度に,ほんの少しだけフレネルの随伴係数を修正することがいつでも可能であることを心にとめておこう。公平を期するため,次の点を指摘しておく必要がある。すなわち,マイケルソン−モーリーの実験およびその類似実験は,(計器の構造や理論に関する論争はあったものの)あり得る誤差を考慮に入れた上で,エーテル風の速度はゼロではないという結果を常に確信をもって与えていた[94, 95]。マリノフ[Marinov][90, 91]とシルバートゥース[Silvertooth][115]は残存放射に対する確実な速度を発見した。結果がゼロに近い値になったのは,計器を金属カバーで遮蔽した場合のみであった。エーテル理論を無条件に受け入れないまでも,現在,すべての計器が真空化されている(局所的に閉じた系にされている)事実を,客観性のために想起しよう。そこで,例えば,飛行機が超音速で運動している時でさえ,飛行機の客室内における局所的な音速は一定である(機外の風に依存しない)。エーテル的観点は得られた結果と矛盾しないことになる。すなわち,フレネルの引きずりは金属物体にとっては完全である(金属についてはヘルツの電気力学は確実に正しい),つまり,エーテルは金属カバー内部の計器に対して(局所的に)静止しているのだから,内部でエーテル風を探すのは無意味なのである。さらにもう1つの点が相対論者たちによって通常黙殺されている。金属製シールドが存在しない場合でさえ,そのような局所的に静止した要素による光の再放射を考慮することが必要となるためには,1枚の薄いガラス板(あるいは初期の諸実験においては空気)があれば十分である。その結果,実際に観測される速度は,エーテル概念においては地球の軌道運動速度よりも明らかに小さいものとならなければならなくなっている。したがって,マイケルソン−モーリーの実験は光速度不変性を支持する証拠となっておらず,いかなる古典的原理も覆してはいない・・・

http://www.antidogma.ru/japan/book_japan.pdf

特殊相対性理論

19世紀末頃において、マックスウェル方程式は当時観測可能な電磁気現象をほとんど説明したが、その理論の前提として電場と磁場はエーテルなる媒質を介して伝わるものであり、マックスウェル方程式はエーテルに対して静止したただひとつの慣性系(絶対座標系)から観測される電磁気現象のみを記述するとされた。素朴な疑問としてエーテルに対して運動している座標系から観測される電磁気現象の理論とマックスウェル方程式との関係が探られた。ヘルツ、フィッツジェラルド、ローレンツ、ポアンカレなどはいくつかの理論を提唱したが、例えばローレンツの理論では運動する物体が実際に収縮するとし、検証可能性を欠いていた。それらとはほぼ独立にアルベルト・アインシュタインは自身の論文において、特殊相対性原理と光速不変の原理を導入する事により運動座標系における電磁気現象を簡潔に静止座標系におけるマックスウェル方程式に帰着させる理論を提唱した。その理論が特殊相対性理論である。特殊相対性理論により絶対座標系(エーテルの存在)は否定され、その理論的帰結として磁場は電場の相対論効果であることが示唆された。

マイケルソン・モーリーの実験

19世紀初頭の物理学の光学理論においては、光の波動が伝播するための媒質として「エーテル」が存在すると考えられていた。だが、その肝心のエーテルの存在については、多くの理論的・実験的な試みにも関わらず、どのような証拠も見つけることができなかった。そのため、物理学者たちは、ある種のエーテルは存在しているにもかかわらず、どのような実験技術によっても探り出せないものだと信じるようになっていた。

ところが、静止したエーテル中の電磁気理論(1864年)を作り、光は電磁波であるという説(1871年)を立てたジェームズ・クラーク・マクスウェルは、ある時、自身の方程式の数式中に、直接的ではないものの、静止エーテル中の地球の運動が適当な光学上の実験で探知できることが示されていることに気づいた。

ただし、その方法とは、マクスウェルがワシントンの航海年鑑局に勤務していたデイヴィッド・ペック・トッドに宛てた手紙の中で

光速度を測定する地球上のあらゆる方法では、光は同じ道筋を通って帰ってくる。エーテルに対する地球の運動は、往復で、光速に対する地球の速度の比の二乗だけ変化するが、これは小さすぎて観測できない

と述べているように、光の速さ c に対する地球の軌道運動の速さ v の比 (β = v/c) の二乗、すなわち β2 で表される極めて小さい有限の量を測定するという非常に高い測定精度が必要なものであった。

一方、上記マクスウェルからの手紙を読む機会を得た、トッドの同僚でアメリカ海軍士官であったアルバート・マイケルソンは、そのマクスウェルの考えた測定実験に興味を抱いた。マイケルソンは光の干渉効果の利点を利用することでこの測定が可能なものであると考え、エドワード・モーリーの協力を得て高い精度でこれを観測することを可能にしたが、その結果は否定的なものであった。

サニャック効果

サニャック効果(サニャックこうか、Sagnac effect 又は Harress-Sagnac effect)とは、回転する観測者から見た現象には、時間のずれが移動経路(および移動方向)に依存して生じるという効果を指す。回転する観測者から見た現象は回転座標系を用いて記述されるが、この座標系は非慣性系であり、一般相対論により取り扱われる。

狭義では角速度を検出するリングレーザージャイロスコープや光ファイバジャイロスコープ等において光伝播速度が伝播方向に依存する効果・現象を指す。

この効果は回転座標系から(特殊相対論で扱うことのできる)慣性系に変換して考えれば説明が容易である(したがって一般相対論を敢えて知る必要は無いとも言える)。


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