原因、原理、そして統一性 マジックについての小論集

ジョルダーノ・ブルーノ

Cause, Principle and Unity
Essays on Magic
原因、原理、そして統一性
マジックについての小論集

by Giordano Buruno
ジョルダーノ・ブルーノ著


目次:
前書き
年代表
更なる情報
文書についてのメモ
原因、原理、そして統一性
マジックについて
束縛の一般的な説明
インデックス

前書き
viiページより:

ジョルダーノ・ブルーノは1548年、ナポリの近くのノーラで生まれました。彼はドミニカン・オーダーに入門し、今は失われてしまった幾つかの研究を出版した後、1579年にイタリアを離れ、スイス、フランスと移動し、最終的にイングランドに移りましたが、その移住は恐らく、彼が広めようと試みた新たな科学によって、教会(カトリック/ローマン・カルト)が、それ自体が脅かされていると感じた事からの、彼自身の母国の、圧政的な雰囲気からによるものでした。ラモーン・ルル(Ramon Lull c.1232-1316年)と記憶の芸術への大いなる興味を得た後、彼はロンドンにおいて無限の宇宙についての彼の見識を公表し、その中で彼は宇宙的な becoming(~に成る)の原理の土台の上で、地上的な物理学天界的な物理学再統一しようと試みました。彼はまた、宗教的な戦争の原因も反映させ、当時の神学的な論争の起源を判定しようとしました。彼がイングランドで出会った異議を反映させたDe la causa, principio e uno (原因、原理、そして統一性)から始まり彼は、彼の宇宙学から進化した、新たな神の概念を派生させ、そして急進的/革命的に反キリスト教的な姿勢を取りました。彼の記述の全般を通して彼が採用した、全てについてのマジック的、アニミズム的な見識は、彼の人生後期のものだけでなく、此処においても明らかです。科学的な革命への彼の特別な貢献に加えて、彼はルネッサンス哲学の発達に重要な貢献をした、一般的な形而上学(哲学/精神)的な見識を公表しました。太古の知識と正統派的な信仰を融合させる事の正当性の討論の間、1591年にイタリアへ戻ると、ローマのサピエンザ大学でプラトン的な哲学を講義していたフランチェスコ・パトリッツィ(Francesco Patrizi)の策略に、ブルーノは恐らく騙されたのでしょう。彼自身の教えの最も異端的な特徴を放棄する、または隠す事によって、彼は彼自身のために役割/仕事を見つけられるかも知れないと考えました。これは幻想で、そして彼は宗教裁判の手に落ち、そして1600年に Campo de' Fiori において火あぶりの刑に処されました。

La Cena de le CeneriThe Ash Wednesday Supper/灰の水曜日の夕食/レントの初日)は、ブルーノが1584/5年に出版したイタリア語の対話篇の最初のものでした。その中で筆者が、コペルニクス主義(地動説)を主張するこの研究の驚くべき特徴は、太陽の周りの地球の年間の運動(地球の公転)と、宇宙の無限性の間の直接の関連を確立した事でした。これは、しかしながら、伝統的な宇宙に新たな次元を与え、天界の巨大さを認識しましたが、宇宙が無限か否かの最終的な判断は、自然哲学者に委ねるとしたコペルニクスの立ち位置とは、とても異なるものでした。灰の水曜日の夕食の中で、対照的に私達は、私達自身のもの(太陽系)と同様な、無限数の太陽系を有する、無限大の宇宙の鮮明な肯定を見つけます。それぞれの太陽(恒星)とそれぞれの地球(惑星)は、私達自身の要素で構成されていて、それらは生きていて、住まわれている存在( beings )で、それらは生きているもの達として認識されるだけでなく、神々である星々としてもまた、認識されます。

ブルーノがこれらの結論、特に宇宙の無限性のテーゼに導かれたのは、幾つかの要素によってでした。コペルニクスの研究において、地球はその他の惑星同様に、太陽の周りを公転する天体として構造され、それは暗黙的に星(恒星の意味もある)の地位に昇格され、故に、コペルニクスは彼の地動説から派生する、巨大で物理的な問題に対処しようと欲しませんでしたが、それは月の下の世界(i.e.地球上)と天体的な世界の間のはっきりとした分離を壊しました。重大なのは、彼の De revolutionibus orbium celestium (On the Revolutions of the Heavenly Bodies/天体の公転について)の中で、固定された星々の球体( Sphere )はもう、特定的で物理的な機能を有せず、そしてもう、運動の原則を構成しませんでした。これは、ブルーノの眼から見ると、イタリアの自然哲学の幾らかの発展、特にバーナディーノ(ベルナルド)・テレシオ( Bernardino Telesio )のものによって強化される事の出来る結論でした。ブルーノは此処で更に深く入り、彼にとって全ての星々が地球から同じ距離の様に見えるのは、単なる目の錯覚の結果の様だったので、その様な球体の実の存在を問い/疑いました。

灰の水曜日の夕食における、ブルーノによる彼自身とコペルニクスとの間の比較は、この問題についての更なる光を照らします。コペルニクスは天文学の歴史において、ヒッパルカス( Hipparchus )やプトレミー( Ptolemy )と比較出来るとランクされますが、彼の本当の重要性は、一般的な軽蔑、卑猥なアリストテレス派哲学、地球は天界の中心で不動であると言う、明らかに自己証明的な見解(i.e.天動説)の勢力に彼が対峙出来た、人間思考の英雄であると言う事実にあると考えられます。そうであっても、彼の研究は致命的な限界があると表され、それがブルーノの特定的な貢献への道を開きます。コペルニクスは専門的に数学者で - 彼の興味は自然哲学では無く、天文学に向けられ、そしてこの意味において彼の研究は、更に発達させられる必要がありました。確かに彼は、地球の運動と言う、正しく、そして物理的な前提から始めましたが、彼は天界の運動の数学的な描写のみを求めました。

対照的に、ブルーノは彼自身を自然哲学者として表し、コペルニクスの発見の正真正銘の解釈者に成る様に運命づけられた者とし、物理学的なものから始めて、それ(コペルニクスの発見)から結論を引き出すために呼ばれた者としました。これらの最初が、その他のものの正しい理解に決定的なもので、宇宙の無限性です。ブルーノが、1566年版の De revolutionibus の中で読む事の出来た、ヨーグ・ヨアキム・レティカス( Georg Joachim Rheticus )の Narratio の中で、レティカスは天文学者を、杖の必要な盲目の者に例え、そしてこの杖とは数学であるとしました。彼が彼自身に課せた論説的な研究を達成させるために、人間の能力の限界にある研究のためには、天文学者は彼を導く手と、上(神)からの鼓舞を必要とします。故に灰の水曜日の夕食の中でコペルニクスは、神々がメッセージを託した、鼓舞された者に成りますが、彼はその重要性と重大さに気づかず、ブルーノが正真正銘の解釈者として、仲介する盲目の占い師の様です。哲学者は、故に、伝統的でクリスタル的な球体は、唯の空虚な作り話であり、物理的な世界に上限など無い事を発見するために、天界を渡った比喩的な旅に呼び出され、そして故に彼の旅に終わりなど無い事を知り、そして彼の前に開くものは無限の空間/宇宙です。その哲学者が私達に見せるのは、神/神格は、私達と、私達の惑星の中に存在し、それはその他の天体以下のものではなく、それは閉ざされた有限の宇宙の想像的な限界を超えた向こうにあるものでは無く、人がアクセス可能な場所(内的な宇宙)にあるものです。

ブルーノの改正は、故に、哲学的に重要なだけでなく、宗教的な結果/影響もまた有します。それはレフォメーション(再編成)に挑戦し、キリスト教全体の真実-価値を問い/疑い、そしてキリストは人類に対して詐欺をはたらいたと主張します。以下に続くページの中で彼は、伝統的な哲学から結果した陰的な影響 - 誰の目にも明らかな陰的な影響と - 太古の人々が優れていた知識と生命の、これらの全ての分野を再活性化させた、新たな哲学が発生させている、市民的、そして宗教的の両方における陽的な果実を比較します。

この新たな哲学の結果が広い領域に及び、そして急進的だったのは、何故なら宇宙のこの新たなヴィジョンは、私達の神との関係を変えるからで、そしてこれは、ブルーノの眼にとって、人間の生命/人生/生活の正に意味を変格しました。彼はこの新たなヴィジョンが、自然を統治する神聖な法則と私達を和解させそして非情で掴み処のない想像的な神、天界の高みから見下ろし、月の下の世界(i.e.地上)を神秘/謎的な方法で操作する神への恐れから、私達を解放すると主張しました。人間は、繁殖と腐敗の対象となる下等な世界に閉ざされていると信じますが、これは単純な幻想です。この世界の中で、プラトンの洞窟の様に、私達はその壁に現れる現実の、影唯一を見る事ができ、その影は天界の上限で形を造り形成するアイデアの影です。ブルーノが提案したのは、対照的に、無限の宇宙の中で、全ての物事の永続的な becoming(~に成る)を操作する宇宙的な法則を私達が今、認識出来ると言う事です。この法則の知識が、現在と未来(それについて私達は、勿論、不完全な知識しか有せませんが)の目前で私達を安心させる/自信を持たせるのは、何故ならそれが、何事であれそれ自体の中の存在、それ自体の存在を否定せず、すべては止めどなく、何か他のものへと変格していると主張するからです。

以前の哲学者の誰よりも、すると、アリストテレス的な宇宙学の倒壊は、伝統的な形而上学(哲学)の終わりを示唆する事を、ブルーノは自覚しています。この出発点から、ソクラテス以前の哲学者達(パルメニデスの ens et unum、アナハゴラスの omnia in omnibus )に属されるとされる見解に頼る/利用し、その声が、彼等の意見の、アリストテレスによる否定の中に、唯一保存される事によって、歪められているにも拘わらず、彼は新しく独創的な哲学を磨き上げました。故に、原因、原理、そして統一性の中で彼は、自然の解釈のためと、市民的レベルと哲学者の思考的レベルの両方において、人と神の間の再新された関係の輪郭を確立する事が出来る、新たな倫理/道義の結果的紹介のための、より確かな土台を構成する事を意図する形而上学を表そうと試みました。直ぐに現れた問題は、しかしながら、この神の新たなアイデアがどう形成され、そしてどういう感覚でブルーノの宇宙が、神と世界の間、神と人間の間の関係を、急進的に変格させるのかを特定する事でした。

II

これらの問題/題材を鮮明にするために、私達は、ブルーノの最も初期の研究、特に De umbris idearum (アイデアの影)(1582年)まで戻らなければなりません。此処で彼は、マジック(化学)的な土台に基づいた記憶の芸術/技術を精巧に造り上げようと試みます。そしてこれをする事において、彼は天界的なモデルを特定し、それは人のマインドが知る事の出来る、全ての道理にかなった現実の典型で、伝統的にバビロニア人、テュサー( Teucer )に起因するとされる36の天界的なディーコンのイメージを持ち、そしてそれを彼は、ルネッサンス・マジックの古典テキストであるアグリッパ( Agrippa )の De occulta philosophia (秘儀的な哲学)から借りました。De umbris の中でブルーノは、明らかに独断的な方法で、クサ(の街)のニコラスの正反対の偶然を、マルシリオ・フィチーノ( Marsilio Ficino )が、彼の Theologia platonica (プラトニック/プラトン的な神学)の中で説明した、存在のヒエラルキーの概念に応用します。その研究の中心部であるこの教義は、 anima mundi (the world-soul/世界-魂)と人間の魂の両方の種を含む論理的な魂に、創造の枠組みの中で与えられた特別な特権を定義しようと試みます。フィチーノはこの特権を、宇宙学的な表現で定義します。実際に、彼の眼において、論理的な魂は、道理にかなった世界と理解出来る世界の実のリンクとして存在のヒエラルキーの中心にあり、前者から降臨し、それは後者に生命と形状を与えました。(i.e. ABから火-魂が、M-Nの水/物質に降臨し、再び天界へと回帰する。アルファベットの秘儀的構造参照: http://chilledvodka.blog.fc2.com/blog-entry-28.html )

存在のヒエラルキー( the hierarchy of being )は2極(プラス/マイナス、陰/陽)、純粋な行動/運動( pure act )と純粋な効能/能力( pure potency )、神と主要な物質( prime matter )の間に伸び、そのヒエラルキーの中間レベルのそれぞれが、行動/活動( act )と効能/能力( potency )の間の異なる関係を表します。神によって構成された純粋な活動/運動から始まり、そして最終的に主要な物質に届きます。下に向かったそれぞれの一歩一歩(降臨)は、効能/能力の増大を表します。この超えて届くヒエラルキーの中で、もし道理にかなったもの( sensible/火-魂)と理解出来るもの( intelligible/水-物質)が、2つの別々の分野として分析されたら、そしてもし、それらのそれぞれが、それ自体で完全な、統一的な全体として考えられたら、何か新たなものを発見するのは可能で、つまり、その中で道理にかなった世界と理解出来る世界が、その本質において、急進的に異なるにも拘らず、一緒にリンクされている事です。理解出来る領域において、それは徐々に最も低いレベル(i.e.現世)に降臨し、それは論理的な魂によって構成され、それは純粋にその上のレベルの受け皿的で、そして故にそれらとの関連において純粋な効能/能力として考えられます。道理にかなった領域においては、対照的に、それは存在のヒエラルキーの中で、主要な物質(水-物質)から、それが完全な限界(i.e.天界)に届くまで、物質/肉体的な組織の、より複雑な形状を通って昇ります。その限界とは天界的な物質/問題で、その純粋さとスピリット(霊)性のために、フィチーノによって corpus quasi non corpus (殆ど体ではない体)と定義されました。この種の物質は、ある時は「スピリット」と呼ばれ、またある時は「エーテル」と呼ばれ、主要な物質と比較されると純粋な活動/運動と考えられる事が出来ます。此処で、主要な物質(水-物質/磁気)を定義した純粋な効能/能力(火-魂/電気)はあたかもその正反対、純粋な実質性(水-物質)へと完全に変格された様に見えます。結論すると、理解出来る世界の、より高いレベルに関して、より多くの活動/運動がそれ自体を効能/能力へと変格させると、道理にかなった領域において、より多くの正反対の行程が起こる様で、そして効能/能力/可能性(スピリット/魂)は、益々実質性(肉体)へと変格される様です。

此処で重要なのは、下等世界の全体に生命と形状を与え、実質/肉体的なものとスピリット的なものをリンクする(繋げる)世界-魂(world-soul)のフィチーノの教義を、この分析がどう確証するかです。ブルーノはこれを、2つの領域(i.e.火-魂、水-物質)が、どうにかしてそれら自体をお互いへと変格させる事(i.e.天界から現世/に降臨して、天界に回帰する)によって徐々にそれらの本質的な特徴を失う事である、クサ(の街出身)のニコラスの正反対の偶然の一例として見ました。彼はまたこの種の教義の中に、記憶の芸術/技術のはっきりとした一種のための論説的な土台と、正真正銘の星的(星座的)な神学のための基礎を見出しました。これらを通して可能に見えるのは、魂と肉体の間を和解/仲介するための論理的な魂とスピリットを与えられ、人が、道理にかなったもの( sensible )と理解出来るもの( intelligible )の間の境界線上の優越された宇宙的な点に彼自身をリンク出来る事で、それは彼に、典型的( archetypal )な形状、全ての道理にかなった現実の実際の発生モデル、もしそれらの純粋性でないとしても、少なくともそれらの影、アイデアの影を掌握/理解する事を許します。

既に上記された様に、灰の水曜日の夕食の中において、固定された星々の球体(i.e.天動説における地球を中心とした球体)は、伝統的な宇宙学によって与えられた全ての機能を失い始めました。それに起因させられていた運動のそれぞれは、地球の運動によって発生させられた単なる現れ(現象)へと降格させられました(i.e.地動説)。ブルーノは故にその様な球体の正に存在を否定し、それを単なる目の錯覚へと降格しました。これ全ての最初の被害者は、フィチーノの教義、存在のヒエラルキーでしたが、ブルーノはそれを De umbris の中で使い、其処で彼はそれを正反対の偶然の方法で解釈しましたが、それでもこの研究において彼は、人間の役割、彼等の起源、そして運命を、伝統的で宇宙学的な枠組みの中で解釈しようとしました。確かに彼は、彼の新たな宇宙学においてさえ、プラトン的(プラトニック)な世界-魂( world-soul )に忠実で、それを全ての天体のための運動の本質的な原理と理解し、それらはもうそれ以外の運動の形状は必要とせず、そして私達が原因(原理、そして統一性)の中で見る様に、彼は全てに形と生命を効果的に与える宇宙的な魂( universal soul )を語ります。しかしながら、De immenso (莫大/無限)の中で彼は、人々が信じていたこれらの「アイデアの影」、天界的な世界と月の下(i.e.地上)の世界と言う、存在論的に分離された2つのスフィアー(球体/領域)への信仰から結果した、これら全ての mysteria platonica et peripatelica(プラトン的、そして逍遥学派/アリストテレス派的なミステリー/神秘/謎)を攻撃/非難する事を我慢する事が出来ませんでした。特に、その他の物事の中で、理解出来る( intelligible )世界(現世)から道理にかなった( sensible/センス/感覚/知覚出来る)世界(天界)へのアクセスのルート(道)とされた、固定された星々の球体に与えられた特徴の全てをまとめ、そして否定しました。

重要なのは、故に、それらを急進的な方法で否定出来るために、彼はフィチーノの存在のヒエラルキーの教義と、センシブル(天界)とインテリジブル(現世)の出会いを、とても詳細にまとめ上げた事です。最終的で決定的な詩の本の中で、彼は神学者の最高天的な天界と、プラトン的なインテリジブル世界(現世)の両方を強く非難し、そして転生の行程において、魂のエーテル的な乗り物として考えられた、魂の教義をくり抜きました。理想的な鋳型(いがた/モールド)、別々にされたアイデアの世界のアイデアは、もうそれ以上、彼にとって何の意味も成さず、そして純粋な本質(エッセンス)の別々の世界のこの否定は、実体的なもの、本当の存在が欠如したもの、抽象的な行程から結果した、正当化出来ない方法で推論化されたものと言う定義に彼を導きます。

ブルーノによる、フィチーノのセンシブルとインテリジブルの間の出会いの教義の反映的な変格は、原因における思考の発達の理解に欠かせないものです。もし人が、宇宙は無限であると言う推測/前提から始めると、活動/運動と効能/能力の間の偶然を、存在のヒエラルキーの中の固定された点の排他的/閉鎖的な性質、インテリジブル世界からはっきりと異なると考えられる、限度のある物理的な宇宙の優越された点、と考える事はもう意味を成しません。ブルーノは故に、その様な偶然を、空間/宇宙は無限で同質/均等的で、そして存在のヒエラルキー的な秩序に分離は無いと言う推論/前提を持って再思考する事を試み、そして彼はこれを、宇宙においてお互いに関わり合う、活動/運動的な効能( active potency )と受け身的な効能( passive potency )と言う2つの鍵的な概念の光の中で行います。この旅の上で、クサ(の街出身)のニコラスが彼を導きます。

III

Docta ignotantia(学ばれた無知)の中でクサのニコラスは、概念的な方法で、神の中の全てのcomplicatio(複雑性)から、物事のそのexplicatio(詳細な説明)への推移を説明するのは不可能とし、神と宇宙の間の関係を定義するための彼の「緊縮」の概念への頼りは、単なる象徴的な重要性でしかないと主張しました。それは本当の説明ではなく、単純に、説明出来ないものを言及する暗示的な方法です。宇宙は、maximum contractum(i.e.緊縮の限度/限界)において、その正しい形状(form)において神の統一性を再生産し、世界はその完全な効能/能力性(potentiality)を決して実現化出来ないという意味で、その現実性(actuality)には克服出来無い限界があるけれど、それは故に、現実性と効能性の間の偶然です。実際に、宇宙がその完全性(totality)を実現させる唯一の方法は、分離/分別化と空間的な分散を通してです。創造する力と創造される力は、統一性と神の絶対的な特質の中で完璧に偶発し、対照的に、宇宙の効能/能力性は、神の無限の受け身的(passive)効能/能力性の色白な(薄い)反映です。そして故に、宇宙の「緊縮された」存在と、そして神の中に偶発する統一性と特質の間には、常に無限の違いがあります。

クサ(ニコラス)にとって、故に、神と神唯一が絶対的な現実性(absolute actuality)と偶発する絶対的な可能性(absolute possibility)です。その限界にも拘らず、緊縮の概念は、神と世界の間の関係は、哲学者達の物質とプラトン派の世界-魂(world-soul)に頼る事によっては、決して説明出来ないと彼に結論する事を許しました。物質は可能性で、そしてもし、幾人かが主張した様に、それが神と共に共同/同時-永遠的(co-eternal)なら、するとそれは絶対的な可能性に成り、それはすると神によって創造された単なる何か以上のものに成り、それが実際にそうである様に、緊縮せず、はっきりとした/特質的な存在/実体の世界を生み出します。ブルーノはプラトン派の世界-魂に、それが伝統的な宇宙学で有していた、宇宙的な次元における仲介の役割を与えました。この仲介的な役割は、全ての物事の模範的モデルのはっきりとした所有とは理解される事が出来ないのは、何故なら理想的な典型(archetypes)が、絶対的な統一性と絶対的な特質性の両方の中で存在する唯一の場である、(神の)言葉にそれが入れ替わる事を暗示するからです。故に、世界-魂を構造する伝統的な方法と、物質と宇宙的/統一的なスピリットの活性運動の間の関係は働きません(失敗します)。

クサのニコラスは、宇宙において存在論的な各段階へと分別されない宇宙学を概要しました。クサ的な宇宙において、全てがその中心で、円周/周辺は何処にも存在せず - その分別をブルーノは単なる言葉遊びと考えました。この方法によって、地球はそれまで有していた、その他の星々よりも中央的ではないと言う、下位/従属的な地位を失い、それは(周りの星々からの)影響下にあるが、それ自体も影響の源泉であろうとされました。クサは、彼(神)自身からそれら(星々)を無限の距離に保つ神に関しての天界の伝統的で存在論的な下位性を保ち、そして明らかな矛盾の中で、これは地球の救いによって証明されます。この世界の全てが常に変化していると言う事実が暗示するのは、絶対的な正確性の関係は存在しないと言う事で、そして私達は、(天体)運動も含めて、どんな現象であれ、正確または本当の測量を有する事が出来ないと言う事です。

これが、クサのキリスト学のコンテキスト(文脈)です。もし神と宇宙の間の距離が無限ならば、もしその人が特出的な能力を持っていたとしても、これは単なる人によっては決して橋掛けられる事は出来ず、唯一完璧な人、キリストの実が言葉を通してその様な仲介を達成する事ができ、生き物をその源泉へと導きます。

原因(原理、そして統一性)の中でブルーノは、彼のクサ(ニコラス)の研究から、無限の活動/運動的な効能/能力(infinite active potency)と無限の受け身的な効能/能力(infinite passive potency)として、無限の宇宙に属する世界-魂(world-soul)と物質の間の偶然(coincidence)を、彼が探す事を邪魔するものはもう何もないと言う結論を導きました。フィチーノの存在のヒエラルキーの存在論的な概念とは対照的に、ブルーノはそれ(存在のヒエラルキー)が思想/理想的な価値しか有していないと考え、そして彼は、世界-魂と物質を、このヒエラルキーにおける絶対的な正反対と解釈しました。これらの推測/前提から始めて彼は、活動/運動と効能/能力、絶対的な可能性と無限の実質性がどう偶発するのかを表そうと試みました。故にその様な偶然から始める事によってのみ、彼は「緊縮」の概念を、宇宙の統一性とその中でこれが構造される多様性の間に形成される関係に応用する事が出来ます。

確かに、原因の始めに、彼は彼の論議は純粋な自然/本質的な理由/理性の限度/限界の中に留まる事を意図され、それは哲学的な論議に成る事のみを望み、主要な原動力(prime mover/i.e.神)を定義する崇高な仕事は神学者達に委ねると警告します。ですが彼が辿る道は、必然的に、その様な注意深い準備的な宣言に関連して、幾つかの驚きを有する事を運命づけられていました。クサのニコラスがDe possestの中で、神特有の独自性として記録した、無限運動の効能と無限な受け身的な効能の間の偶然は、原因の中で、宇宙における絶対的な反対/対極の関係に変格され、そしてこの偶然の知識は、私達に物質/実体の統一性の正しい理解を与えます。

IV

この見解から、原因(原則、そして統一性)の中でブルーノを導く論理は鮮明です。彼は知性を、形状(forms)を産出する世界-魂(world-soul)のより優れた能力(faculty)として捉えました。これが表わすのは、存在し得る能力の最も高度な種へですが、知性の地位(ステータス)の重要な下方修正です。その世界-魂は知性を有し、そして故に、形状を引き出すために、より優れた原理/原則を必要としません。加えられるべきは、既に形状された物質の表面で必然的に活動/運動する人間の芸術/技術とは対照的に、それが物質に本質的な(本来備わっている)芸術/技術として機能すると言う事です。その世界-魂は、故に、物質を内側から形作り、何故ならそれが正真正銘の効果的な原因として、また形式的な原因(formal cause)として、それを許す実際のモデルを有するからです。それが無限の宇宙をアニメート(運動)させるので、そしてアニメートされない宇宙の一部分は無い、またはそれによってある程度、常に実質化される事の出来るスピリット的な原則を少なくとも有さないので、それが与える形状の間の自然における違いは、必然的に見つけられます。

その世界-魂は故に形状(forms)の中の正真正銘の形状(form)です。それは物質の中にそれら全てを活動/運動(in act)として含み、そして故に、私達が形状(forms)をその所有(possesion/性質/本質)として考えるか、または物質がその性質に沿って時々装う表面的な輪郭として考えるかによって、原因または原則のどちらかとして考えられます。此処で問題なのは、アリストテレス派が厳格な感覚(意味)で、唯一独断的に形状(forms)と呼ぶ、物質の常に変化している形状です。これは原因の中の反アリストテレス派的な論争術の一貫した特徴で、何故ならそれが、絶滅される事の出来ない実質/実体、そしてつかの間の形状ではなく、活動的な原則と本物の産出者と比較されると、常に変化しているのは唯の現れ(姿かたち)でしかないと、ブルーノが主張するのに不可欠に成るからです。この伝統の仮定された実体的な形状に対する論争術は故に、既に無限の宇宙の正真正銘の活動/運動的な効能/能力(active potency)の証明で、そして効能/能力として考えられた物質の、ブルーノの特別な扱いへの道を切り開きます。すると、クサのニコラスの名前は、この特定的なコンテキストにおいて決して記述されませんが、彼(ニコラス)のテーゼとのぶつかり合いは直接的に成ります。

確かに、ブルーノにとって、クサ(ニコラス)にとってと同様に、無限の可能性の無限の実質化が達成出来るのは、唯一神の中においてのみです。宇宙の中では、反対に、物事は一貫的に変化しており、そして物質は逃れられる事無く、これらの変化している形状の対象です。これにも拘わらず、人がそれを、単一の瞬間(一瞬)または永遠の見解からよりもむしろ、全ての時を通して延長していると考えると、宇宙は完全に無限で、それが成る事の全てに成る事が出来ると言う事が出来ます。しかしながら、神と宇宙の間の違いは、ブルーノの論議の出発点を唯一表します。

IV

The power to be (~に成る力/存在する力/i.e.神)は、もし受け身的な効能/能力(passive potency)として考えられるなら、神の中においてのみ、その無限の実質化に向かって動き、(大文字、i.e.神)唯一の中で、活動/運動(act)と効能/能力(potency)、創造する力と創造される力は、時と場所に言及される事無く、推測的に重ねられます。もし、しかしながら、人が物質を完全に受け身的な効能として捉えるなら、もし人がそれを、それが異なった時間において、肉体/物質的(corporeal)と非肉体/物質/精神的(incorporeal)な物質(substance)の両方と共に有する関係から(抽象的に)取り出すなら、人は重要な要素に気付きます。肉体的な物質(corporeal matter)が次元、質、量、形、等々へと縮約される事実を除いて、これらの物質の受け身的な効能には違いが無く、(次元、形、等々の)これ等の偶然的な決定(accidental determination)は、逍遥学派(アリストテレス派)が、それらを理解する事に苦戦しながら、正真正銘の物質的な形状(genuine substantial forms)と混同したものです。次元、質、等々は、しかしながら、純粋な受け身的な効能自体を変格する事無く、そして結論する事が可能なのは、故に、これらの定義において考えられた物質は、スピリット的と肉体/物質的(corporeal)の両方において一般的と考えられる事が出来ると言う事です。

ブルーノは、明瞭な/理解出来る存在(entities)は、明瞭な物質のとても特定的な種によって構成されていると言う、新プラトン派の教義によって、彼の論議を確定させます。活動/運動の形状である、その様な明瞭な存在は、それらの間の違いを発生させる何かである事が出来ず、または効能から運動へ(from potency to act/魂から肉体へ)の通り道/移行を含む何かである事は出来ないけれど、共通的な何かを有さなければなりません。becoming(~に成る)がその様な通り道/移行を含む、感覚/知覚出来る世界(天界)において、その複雑性の中に全ての次元と質を含む物質は、効能として理解されるのが最良で、そしてこれは、この物質が、何らかの形状を有するよりもむしろ、現実においてそれら全てを有している事を意味しないでしょうか?違いを発生させ無い様に表れる物質が、故に無形状の様に見えるのは、何故ならそれが、より深く根付いているけれど、あまり明らかではない違いの起源で - その違いは、より高度な統一性の中においてのみ唯一有されていると見られる事が出来るのではないでしょうか?更に加えて、これはブルーノに、intelligible(明瞭な/理解出来る/現世)とsensible(感覚/知覚出来る/天界)と言った2つの物質は、効能の見解から見られると、前者は理性の区別/特質によって、活動/運動唯一から分別され、後者はその表面に現れて消えるつかの間で一時的な形状との比較における活動/運動として考えられる事が出来るので、単一の類に減少させる事が出来ると主張する事を許しました。効能として理解された物質を、世界-魂(world-soul)からはっきり分別する事は、すると、不可能に成ります。








前書き
xviiiページより:

IVの3

故にこの様にしてブルーノは、物質を基盤とし、要素の間で起こる変格の下で一貫的であるとする、アリストテレス派と新プラトン派の伝統へと、彼の物質の扱いを融合しました。彼の目にとって、物質の永久性は、それもまた、世界-魂(world-soul)として、通り過ぎもせず、一時的でもない原則で、消滅させられる事も出来ず、そして存在の物質/実体(substance of being)自体と一致される原則を意味する様に成りました。ブルーノは、アイデアを物質の分野の外に置いたプラトン派の解決策を受け入れる事が出来ない事に気付くと直ぐに、物質は形状(forms)を発生させる事が出来ると認めたアリストテレス派を私達に思い起こさせます。ブルーノはこれらのアイデアを「理想的な型板」と呼び、逍遥学派(アリストテレス派)よりも、よりそれらを受け入れる事が出来ました。加えられなければならないのは、これら同じアリストテレス派は、物質は効能/能力から活動/運動へ(from potency to act/魂から体へ)移行すると彼等が明言する時、何が本当に変わったのかを特定する時、唯一、合成(のもの)を語っていると言う事です。これら全ての要素の土台の上で、もしそれが一貫的で普遍的な原則として認識されるなら、実体的な形状を定義しようと試みた多くの哲学者達の見解に取り入れられた、不確定的現実のprope nihil(殆ど無)として、主要な物質は分類する事が出来ないと考えるのは正当なようです。これらの定義は、それ等の意図とは裏腹に、純粋な論理的抽象概念へと、全て省略可能と成りました。対照的に、この物質は形状を表さないと言う事実は、再びもう一度、既に上述された理由のために、それら全てを有するのと同義とされました。

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もし、しかしながら、スピリット(霊)的原則と物質的原則が、私達の世界の正に物質/実体として認識されるなら、その永久的物質/実体を構成するのはそれら(霊と物質)の偶然/偶発であるのは明らかなようです。類推的同認はすると、排他的にスピリット的な実体のより優れた世界(i.e.天界)にも応用する事が出来ますが、ブルーノは彼の取り扱いを純粋な自然的理性/理由/論理に限定したいので、それを彼は論議しないと明言します。これはその研究全体において最も曖昧な明言で、そしてこの曖昧な表現を正しく理解する事は、ブルーノの哲学を理解する鍵と成ります。ブルーノが此処で当たり前として取るのはその対話全体が問いへと呼び出す事を試みる分離/分別で、そしてその研究の最も決定的な点において、それを効能/能力(poyency/魂)の見解から見られた肉体的(corporeal)な実体として理解するために、彼はより優れた世界(天界)唯一の、明瞭な/理解出来る(intelligible)物質の観念を言及します。その様な明言の曖昧さは、彼が確立していた無限の活動/運動的効能/能力(infinite active potency)と無限の受け身的効能/能力(infinite passive potency)の間の関係は、神とこの世界の間の相互的必要性の関係を創造したと言う重要な事実を背後に残す事を許しました。故にクサのニコラスの分離の不可能性の証明は、De possestの中で、唯一神の中だけだとしても、その想像する事の無限の効能と想像される事の無限の効能はうるーのの位置(意見)を形成するのに決定的でした。ブルーノは、しかしながら、これらは無限の宇宙の中にあり分離不可能で、そしてこれはそれらの偶然/偶発のみを含むだけではなく、極めて重大な事に、それらが言及する統一性と宇宙の間の相互的必要性の関係を含むと言う結論に至りました。

前書き
xixページより:

IVの4

ゾディアック


クサのニコラスによって否定され、そしてブルーノによって採用された解決策は、故に、宇宙の中の全ての物事の間の関連を説明するために、プラトン派の世界-魂(world-soul)、そして物質は絶対的可能性(absolute possibility)であり、そして神と共に共同/同時-永遠(co-eternal)であると言う概念に戻る事でした。実際に、ブルーノは絶対的効能/能力(absolute potency)としての物質のこの概念と、その時点で形状の形状(form of forms)であった世界-魂から始め、その活動/運動(action)を持って鼓舞し、説明的モデルを用意するための、存在論的により優れた原則をもう必要としませんでした。彼は故にそれらの偶然/偶発の中に神聖な統一性(神)を発見し、その統一性は肉体/物質的なものとスピリット(霊)的なものの間の分別より以前のもの(それら以前に存在するもの)でした。これは彼に彼の宇宙学の基本的な原則を設定する事を可能にし、それはクサのニコラスのものとは異なっていましたが、自然と品位(dignity)に関しては、それでも神と宇宙の間の無限の距離に基づいていました。故に人間と、自然を通して運動する神との間の仲介を想像する事を可能にし、クサのニコラスによって採用された解決策を不必要にし、そして実際にキリスト学(Christology)の全ての形状を不必要にしました。

Vの1

ブルーノの独自性は、彼の、純粋で、理想的で、そして無体(bodiless)のエッセンス(本質)の否定にあります。De immensoの大いなる結論の中でプラトン派と論議し、ブルーノは、善であるものから分離した正義は存在せず、そして最も重要な事に、その現れ(manifestations)から分別される事の出来る神は存在しないと明言しました。これらの分離/分別を成そうという試みの何れも、私達の知性に起因する抽象的行程から派生する根拠の無い(不当な)ハイポスタタイゼーション(抽象的な何かを具体的なものと考えること)です。これらはその題材における彼の最終結論で、この世界への神のリンク(繋がり)の必然的な本質と融合された時、原因(原則、そして統一性)を理解するための重要な鍵を構成します。もし宇宙がその本質において不確定/偶発的でないなら、この世界自体と偶発する神を語るのは可能になり、この神は、時々それ自体を無限でそして異なった構成で現せさせる実体に成り、ブルーノが呼ぶ様に、その「モード」においてそれら自体が一時的なものです。確かに、その土台そして源泉として複数性(multiplicity)が指すその統一性は、ある意味絶対的でそして緊縮していないままですが、無限の各部分は限定されていると言う実の事実は、その存在の本当の実態である何かを指します。これが意味するのは、この統一性を、それの上またはそれを超えた何か(宇宙を超えた何か/i.e.天界)よりもむしろ、宇宙の内的な統一性として、人は考えなければならないと言う事です。宇宙の原則は、もしそれが特有なら、故にそれ自体の原因で、そしてこれが意味するのは私達は2つの別々の世界(天界と現世)を語る事が出来ないと言う事です。故に、ブルーノは、この世界が彼(神)を必要とする以上に神はこの世界を必要としないと明言でき、それはもし肉体/物質的なものの物質的無限性が欠如しているなら、神のスピリット的無限性もまた存在しないからです。この世界を必然的に神に繋げその反対(神をこの世界に繋げる事)もする事によって、その神は、全ての中の全て(all in all)でありそして全てのものの中に確立されます。それが「その他の何処か(elsewhere)」にある事が出来ないのは、その無限の物質と供のスピリット性の偶発が意味するのは、「その他の何処か」が存在しない事だからです。

前書き
xxページより:

Vの2

故に私達は、それらが自然の法則とする限りにおいての、その法則の理解としての、全ての統一性を理解する問題に辿り着きます。彼が発信する新たな出発が急進的であると言う主張は、此処において間違いではありません。対照的に、アリストテレス派とキリスト・カルト宗教の両方、そしてその後者の最も最近の改革における発達は、間違った宇宙学にリンクされていると彼は証明出来ると信じます。私達は唯一、同時代のキリストの栄光的な体の偏在(至る所にある事)と聖体(パン)の中の彼の存在に関する論証法の論議を考えるだけで十分で、その両方は、ブルーノによると、この古い間違った宇宙学の枠組みの中から起因しています。それは、故に、この新たな哲学が、最終的にその結果/成り行きの全容を明かし、そしてキリスト・カルトによって宣言された自然と神の間の分断を治癒する事を呼びかけ、Lo Spaccio de la bestia trionfonte(勝利的な獣の排除)の中で最も顕著ですが、人間が必要とするものと神の意志の間の、再発見された調和の中で、平和的な市民的共同-存在を保障出来る、新たな道徳/道義を構成する法則を求めるべきだと言うのは理解出来ます。この文明の同じ発達は故に、その絶対必要な再修正を構成するこれらの自然的な土台に沿って再思考される事が出来ます。しかしながら、人が(地上的楽園として神話の中で象徴された)動物(小脳)的状態から彼自身を、科学と芸術/技術を通して徐々に神(大脳)に近づける事が出来たのは、融合された知性的そして肉多的努力を通して、これらの土台から彼自身を分離させれた事によってのみです。再編成のずっと以前のキリスト・カルトの原理的間違いが、その絶対性において考えられた神と共に始める事を熱望した事で、そうすれば、介在する自然的そして認識的段階を尊重せずに、それ(神)と接触でき、そのひいきを楽しめると言う幻想から派生しているのに重要性が無いわけではありません。この全般的な枠組みが示唆するのは、彼が人々に、変格を通して彼等(人々)が神の息子達に成れると約束した時、キリストが偽りを実行した事で、その間、現実には、地上的食物の消費を聖体食べる儀式(サクラメント)の一部にする事によって、純粋な動物(小脳)的状態に落ちる危険を冒させた事です。

黄道


この見解から、Eroici Furori(英雄的熱狂/狂乱)は、原因(原則、そして統一性)の哲学的テーゼに関連した特有の、そして宗教(カルト)的な重要性を得ます。自然の媒体を通してこの研究の中で達成される神の熟考は、その最終目的である無限の実際の所有を、その定義上決して得られる事が出来ないのは、確かに運命づけられていました。しかしながら、それが正当化されるのは、その「熱心家」が彼の瞑想的上昇(アセント)の上限に出会わないからです。故に、英雄的熱狂は、一つの最終的な哲学-宗教的イルミネーション(点灯)で結論し、神の王国と楽園のヴィジョンにおいて、人は神(悟り)へと変格されますが、それは誰しもがアクセス出来る変容においてでは無いとされます。

その「英雄的熱狂」は、実体化の終わり無き様な行程において、彼が全てを彼の知性の種に翻訳出来る事を気がつくに至ります。これは、この行程において彼をより高く上昇させる愛の絆によるもので、最終的に彼が彼の知性の無限の(そして故に明らかに果てしない)可能性に気付く原因に成ります。その行程は故に、熱心家にとって苦悩的な経験と成り、何故なら彼が彼自身の内へと引きこもれば引きこもる程、彼自身から出て、彼自身を変格させ、そして他者の中に生きろと、決して終わる事の無い連続/継承において、愛のマジック的力によって彼はより束縛/強いられるからです。こうして、2つの正反対/2極、活動/運動と効能/能力(act と potency)は、それ等自身の偶発のみでなく、知性と愛の間の偶発も明かします。故に、知識と愛は、無限におけるそれらの目的と偶発し、その知性は明瞭/理解出来る(intellible)ものへと変格され、その愛は愛の対象へとされます。知識と愛は故に、自然において明らかに別々であるが、同じ効能/能力と源泉から派生する、2つの宇宙的力であると明かされます。

前書き
xxiiページより:

VIの1

ブルーノのマジックと占星学への早期の興味を与えられると、彼の新たな宇宙学の発達が、これらの題材の上の彼の確信に不確定要素を紹介したのは、驚きではありません。私達に残されたノートの中で(それにはDe magia mathematica/数学の賢者の題名が与えられています)、彼はアグリッパとの不同意を再確認し、世界-魂(world-soul)とそのアイデアに帰された伝統的な宇宙的役割を否定し、そして彼は星(惑星)的光線の物理的運動を否定します。ところがDe immensoにおいては、更に遠くの天体の象徴的価値を、彼は否定せず、De rerum principiis(物事の原則)の中で彼は、少なくとも特定の件に関しては、この価値さえ否定する様です。同じ研究の中で、彼は要素の占星学的論説と占星学的書物一般に批評的です。彼は天体と惑星の間違った同一視から派生した混乱を嘆きます。彼は時の経過と共に起こったマジック的芸術/技術の腐敗はエラー/間違いの広まりのせいであり、同時にまた無知な者(一般大衆)の手からその技術の秘密を守ろうと言う熱望からのものと主張しました。故に、彼は彼の新たな占星学を取り入れた惑星的占星学の再構築を好む様ですが、それは此処において大まかに表示されるだけの様です。彼の新たな宇宙学の幾つかの要素を含むこの試験的な枠組みにおいて、彼は伝統的な天体的イメージの占星学的価値を保つ事ができ、それら(天体)の観測は有益であり続けると明らかに感じ、そしてそれらは太古の言語の生き残りを表すと感じた様です。この全てはDe magia(賢者)の幾つかの段落に光を投げあてます。此処でブルーノは、一方で、サイン(象形)が物事(意味)を代理し、そして明らかに神とのコミュニケーション(意思疎通)を保障した非因習的なヒエログラフ(象形文字)的言語の消失(絶滅)を嘆き、もう一方で、これらの文字、印、そしてフィギュア(数字/形)の機能的価値をマジック的レベルで保存しましたが、それらは、伝統によると、デーモン的影響をなだめ - それらを使用するのは可能な様に現れるだけでなく、またある意味、より高度な理由/理性の指導の沿って再形成する事も可能な様に表れます。彼の研究の中でブルーノは、その他の場所で彼が取り返しがつかない程に失われたと主張したものを再現しようと一度以上(何度も)試みます。

ブルーノは、自然的、数学的、そして神聖(神的)な世界の間の分離をもう受け入れませんでしたから、故に、一つのスフィアー(球体/領域)からもう一つへの移行の可能性を否定する事無しで、もし彼が唯一それらのそれぞれに特有な/はっきりとした実体/物質の生き残りを仮定出来rなら、彼は自然的、数学的、そして神聖なマジック(または白魔術/新プラトン派)の間の違いを保つ/主張する事が出来ます。結果的に、星々自体が神々に成り、そしてデーモン達によって住まわれ、その間、神は世界(複数形)の間に延長する無限の空間(エーテル)に在するようでした。

これ全てが促進するのは、自然的、天体的マジックの間の相互作用の行程で、その最も目につく成り行き/結果は、世界-魂と宇宙的スピリット(霊)の存在の間の分別の不確かな本質の様です。その他に点に関しては、天体を通った神聖な世界へのアクセス(i.e.ヤコブの梯子の概念)は、ブルーノの自然哲学と、彼のデーモン学が経験した特定の発達に繋げられる様です。

前書き
xxiiiページより:

VIの2

自然全体がそれに沿って機能すべき図式/概要、そしてその土台の上でマジック的機能の全ての種がモデルされるべき図式/概要をブルーノに提案したのは宇宙的アニミズム(精霊信仰/有霊観/物活論)でした。その様な図式は効果的な宇宙的原則の運動のために常に供給され、受け身的(passive)原則においてその運動のモデルが用意/配備されています。これは、人が知覚出来る様にされ、そしてその結果として人が自然的マジックを正当的に語る事が出来る、要素的(elementary)質の運動と、オカルト(秘儀)的質の分野において本当です(「オカルト」が意味するのは、それらは直接の観測はできませんが、再発するさりげない/偶発的な繋がりの生産/発生と、要素的質の運動に帰する事が不可能の様な特殊効果によって証明/確認されると言う意味です)。この件において人は、伝統的なマジックの天界の中に必ずしも位置しない、宇宙的スピリット(霊)の運動に頼ります。それが極度に運動的である事を許し、そして全ての物事を産出するのはむしろその特定的有体性(corporeity)で、そしてブルーノは、ルクレティウスのDe rerum naturaの中にあるcorpora caeca(盲目の体)に言及する事によって、その運動の本質を明白に説明します。

それぞれの段階における魔法(magus)の運動は、故に、それが望まれた影響に敏感/多感である様に、物質の準備と変化の中に構成されます。世界-魂(world-soul)は故に、特定の効果を産出するために、適切に準備された物質の一部に引き入れられます。正にこの理由のために、全ての中にその全体性の全てが存在する世界-魂は、方法の無限の種類の中で物質が連続的に形成される原因と成り、そしてそれは宇宙的運動の特定的原則に沿ってそうします。全ての中に完全に存在/内在するこの性質は、声や音の様な、物質の幾つかの偶発にもまた属し、そのマジック的効果は確かな様に現れ、その運動は究極的に魂の運動に帰されます。これは、磁石による鉄の吸引等々の様な、オカルト(秘儀)的質の証明であると、伝統的に考えられた幾つもの現象を、人が説明する事を許します。これらの現象を考え、ブルーノは、彼が「スフィアー(球体/領域)的」と定義した、物質特有の運動を言及し、そしてそれは体における物質の小さな粒子の会得または消失(influxus/流入とeffluzus/流出)に構成されます。

前書き
xxivページより:

VIの3

ブルーノは、記録された現象の全てを説明するだけでなく、彼のデーモン学の特定的特徴を描写するためにまた、宇宙的スピリット(霊)の論説を使用します。彼にとって、このスピリットは、私達の知覚能力が理解出来ない方法を通して、私達に運動/影響する生きているもの達の何処にでもある存在の理由/原因です。これらは、地球上に生きる種より、多かれ少なかれ同等の数へと準分別される事ができ、そしてそれらのより優れて能力、またはより劣る能力によって人から分別され、と同時に、それらの私達に対する好意的、または非好意的な変化的性質によって分別されます。

それらが、私達の五感で知覚出来ない方法で運動するので、それらの影響を避ける事が出来るため、または拒絶出来るために、それらが私達の能力/五感の支配を得る点を特定する事は必須に成ります。ブルーノは、とても評判の善かったレヴィヌス・レムニスのDe occultis naturae miraculis(自然の隠された奇跡)に尊敬無く挑戦し、伝統的にデーモン的起源であると考えられた現象の、純粋な医療的説明を否定しました。その様な現象への彼自身の説明は、スピリットが欠如しているために、デーモン的憑依に特に弱い、人のより下等なメランコリー的ユーモア(憂鬱的情緒)と、実際のデーモンによる邪魔の両方に言及しました。これらは、体を憑依し(乗っ取り)、人以下の何者でもない愛情と情熱を乗っ取り、栄養と快楽の源泉を構成するものを何でも求め、そして故に、それらの運動を吸引出来る物質を何でも求めます。これらの全てを可能にするものは何かと言うと、一方では、純粋さに異なった段階のある、私達の中のスピリットの存在で、もう一方では、(私達の想像力がその繋がりを当たり前と取る)このスピリットは、私達の意識の受け身的要素から分別出来ないと言う事実です。デーモン的vinculum(ひも?繋がり?)の確立を許すのは、この能力である、またはないかも知れず、認識的能力がどれだけ抵抗を出せるかによります。物理/肉体的構成の無限の多様性と、私達が人工的に(そして時には間違って)変化させるスピリットの質、例えば特定の食物または特別なオイントメント(塗り薬)を通した質(の変化)によって、丁度、世界-魂(world-soul)が特定の影響を受ける傾向を示す物質によって吸引される事が出来る様に、私達自身の憂鬱的情緒によって吸引されたスピリットが、私達の操作を乗っ取る事が可能です。そのデーモンは故に私達の偽りの原因と成り、私達の想像の単なるゴーストであるものを、本物であるかのように現し、そして更に、またそれも想像でしかない、神々との契約に入る幻想を私達に与えます。この土台の上で、マジックについてマジックについての論説の中で、ブルーノは人類一般レベルより、より優れた者そしてより劣る者と言う2種類の人類を仮定し、それらは私達の意識、特にその必然的に受け身的な要素を監視し、その行程を方向付ける能力(の有無)によって分別されます。これは、勿論、彼の哲学の一貫的なテーマの一つで、そして特に宗教改革に対する彼の論証法です。加えて、それが描写するのは、本当の行程と認識的行程は、マジック的要素を有する共通の土台があると言う彼の信念です。Sigillus sigillorum(The figure of figures/形/容姿/数字の形)の出版以来、彼が明白な宗教的用語で宣言し続けたのは、regulata fides(規制/操作された信仰)の本質的価値で、つまり、私達の感受的能力の上の意識的操作を行う重要性です。この様にして、彼はこれらの「qui aguntur potius quam agant」(行動するよりも行動させられる者)に対して論議しました(思考するより洗脳された者)。

前書き
xxvページより:

VIの4

ブルーノは、人によって達成される緊縮(contraction)の2種類をはっきりと分別します。緊縮とは、魂がそれ(現象)を通って、それ自体に集中する事によって、特定の力を現実化出来る現象ですが、これはもしそれがより高い瞑想的段階に向かって方向づけられると、またはもし私達が私達の想像の主人ではなく従者に成る様に行われ、そして故にデーモン的影響に影響されると、正反対の効果をもたらします。此処でブルーノは、緊縮の様々な種類の彼の例証において、フィチーノをエコーしますが、それらをフィチーノがした様に「vacatios animi」と呼ぶ代わりに、彼は、この現象が、私達の意識を統治する形而上学(哲学)的構造に取り入れられる事を許す名前を与えます。緊縮の2つの形状の間の分別の点はゆえに、繊細な感受性のデータを私達の想像の欠片へと変える、仲介的認識能力によって表されます。この分別と、そして人類の2つのはっきり異なった段階への分離(思考出来る者と、洗脳された者)は、Cabala del cavallo pegaseo(ペガサスのカバラ)とHeroic Frenzies(英雄的熱狂)の中にそれらの説明的表現を見つけます。そのCabalaは、神のための探求の難しさと向き合った時、私達を真の人間にするこれらのより優れた能力を自ら放棄し、彼の認識能力を、受け身的受信のみである、聴覚唯一へと緊縮させる人の特徴を概要します。故に判断力の全てを剥ぎ取られ、そしてロバ同様の動物(小脳)的状態へと減少させられ - 私達の自由の正にその可能性を否定する事が目的とされたルーターのDe servo arbitrioの有名な一行へのほのめかし/暗示です。これは何故、Heroic Frenziesの中で、彼が「善き緊縮」の「神聖な印」を讃えるかの理由です。この研究において、原因(原理、そして統一性)の形而上学は、人が有する事の出来る最も高度な経験、神を十分に想像する事いよる神聖な熟考の表現によって翻訳されるのを私達は見ました。ブルーノは、しかしながら、これが達成させられる事が出来るのは、そのマインドが2つの絆/繋がり(vincula)、愛と、そして神が彼の眼に現させる事の出来る最高の明瞭な/理解出来る(intelligible)種(i.e.自然の美と善)によって強制された者のみであると主張します。これらの2つのvinculaの運動に関連して、「善き緊縮」の「神聖な印」は本質的な重要性を得て、神は、実際に、神への私達の感受性に比例したレベルのみにおいて、それ自体を現せさせ対話/伝達します。故に私達の意識の受け身的な瞬間において介在するのは常に私達の責任で、そうする事によってその瞬間の上に私達自身を高揚させ、私達に内在する無限の能力/可能性を実現化します。

前書き
xxviページより:

VIの5

これはブルーノを、2種類の人類の間の分別(思考する者と洗脳される者)、デーモン的偽り(洗脳/憑依)の被害者へと落ちる者達と、一般大衆のレベルの上に高揚し、人類(一般大衆)が信じる価値のスケール(質量/規模)を一転させ、英雄的人間性のレベルを会得/達成する者達(との分別)へと導き戻します。これは全ての出来事の上での学んだ人(知識ある人)の優位性を強調する複雑な/教養のある快楽主義(Epicureanism)ですが、マジックの研究であるThe Heroic Frenzies(英雄的熱狂)の中に既に存在する快楽主義的道徳/道義が此処に現れます。この、人、は異なった種のマインドを会得し - 実際には、異なった種のスピリット(霊)で - そして異なった運命に出会うために進み(アセンション)、その間その他の者達、人類の集合体(一般大衆)以下のレベルに下降(ディセンション)した者達の、彼等自身の想像力による奴隷化は、輪廻転生を通して無限的に延長された地上の本当の地獄に成ります。De vinculis in genere(絆/繋がりの一般的説明)と共に、しかしながら、此処までに論議された原理的問題とは異なった絵に、私達は遭遇する様です。その魔法使い(magus/賢者)は、マジックの流動性のみではなく、デーモン的運動にもまた精通し、そして防衛されていない部分を通してデーモンが私達をどう憑依するのかを知っていて、そしてこれは彼(賢者)に運動の新たな分野を開き、彼自身に他者達を繋げる(リンクする)事を彼に許し、彼自身と他者達の間に、マジック的な繋がり/絆の連続/継続全般を確立する事を許します。マジック一般によって上げられたモラル(道徳/道義)的問題は、此処において新たな要素を取り入れる様です。マジックについての始めに、マイック一般に対して、そして特に「数学的」マジックに対して上げられた(提出された/進められた)典型的なモラル的異議を、ブルーノは検証します。彼の返答は同等に伝統的で、純粋な知識、科学として理解されたマジックは、常にポジティヴ(陽的/プラス的)ですが、誰がそれを働かせるかによって、良くも悪くも、善にも悪にも使われる事が出来ると言う事です。この全てが同様に絆/繋がりにも応用される事が出来ますが、しかしながら、もしブルーノの哲学の本質についてでは無いにしても、確かにその特徴的部分の幾つかについて、一つの問いを上げる新たな要素が此処にあるようです。これは人を、死と神々の恐怖から解放し、私達を捕えるためにデーモンが使う罠から逃れる道を示す事を目的とした哲学です。そしてしかし私達は此処で、一人の人をもう一人の人に対する権威とする事をデザインし、その後者を(前者の間違い?)他者のスピリットを憑依する力を持つ一種のデーモンと化す、オカルト(秘儀)的罠の確立の語りを見つけます。加えられるべきは、人によって会得可能な効果のどれも運動のスコープからは除外される様で、それはそれ自体を単なるレトリック(修辞法/美辞麗句)に限定するよりも遥かに、市民的生活お全ての領域に浸透する事を意味されたと言う事です。確かに、ブルーノの用語/定義は伝統的にマジック的のままである続け、カンパネラでさえ後に、De sensu rerum(物事における感情/感覚)の中で、彼自身の絆/繋がりを書きました。加えられるべきは、ブルーノが、彼独特の方法ではあるけれど、1500年代におけるイタリアの思考の最も重要な(そして最も実りある)要素の後継者であると言う事で、つまり、マキアヴェリからカラカルダーノまでの記述に見つけられる、非偏見的で頻繁に冷酷/残酷な現実の観測です。此処にはまだ、ブルーノの急進的な貴族的見解と、彼の研究が原則において宇宙的上昇(アセント)に隔たりを供給しないもの、彼が自然の法則と信じるものを扱うと言う事実の間には、緊張があります。

前書き
xxviiページより:

VIの6

ブルーノは、そのvinculum(絆/繋がり)自体は善でも悪でも無いと主張しますが、それが媒体(エージェント/人)の部分の運動/活動する意思を前提とし、そしてオカルト(秘儀)的で知覚できない方法で、他の人の意識における運動/活動させられやすさ(操られやすさ)への体質/性質を前提とするのには変わりはありません。全ての絆/繋がりは、愛の繋がりまで縮小出来ると彼は私達に伝え、そしてこれは主にプラトン派によって考えられた美のアイデアを影響する、極度に鋭い観測の連続を派生させます。これらは、自然を様々な分野に分離する哲学的伝統、特に人間の本質を知性と意志に分離する伝統に向かって、ある種の不寛容性を明らかにする様に表れる観測です。そのvinculumは、目に見える種の中に見つけられるのではなく、それは私達の中で知覚力があり活動/運動的であるけれども、それを活動/運動的にし、そして頻繁に私達にとって有害である様にするのは、私達が気付いていない何かだと彼は言います。他者の魂と私達が繋がる(vincere)出来る多くの異なった方法があると示唆するのは、正に、愛と、美と、そして快楽の、単一の本質を定義する難しさです。この絆/繋がり的行程を運動/活動させるためには、それに関連して、効果的になるには、vinculumが事前に準備されなければならない、(物質/物理的構成の多様性から始まる)主観的そして客観的要素の無限の種の知識を、私達は必要とします。これらの要素が、しかしながら、無限に異なる個々の構成を持って存在する事を加味されると、与えられた一つの件において確実に特定される事は出来ません。これにおいて、それらは、ブルーノ派哲学の中心的テーゼの幾つかを呼び起こします。

De immensoの中でブルーノが、完璧な人間に相応しい思考を概要する時、彼は彼が神に対して持つイメージからインスピレーションを得ます。神は全てを創造し、そして全てに成る物質/もの(matter)で、故に、完璧な人間は、神の熟考において彼自身を無限へと高揚させ、無限において彼の認識能力を実質化し、彼は彼自身をそれへと変格する仕方を知るので、全てを融合出来る者です。人であるこのmagnum miraculum(大奇跡)の素晴らしさは、最初から当たり前とされるのではなく、むしろ到達の地点そして最終的な達成を構成します。それは人の神格化の行程と偶発/一致し、ある意味、神の様に、omniformis(全ての形状または形を有する事)に成る人の能力によって可能にされます。bonding(繋がり/絆)の中で原因(原理、そして統一性)の結論 - facerefieri、創造する事と創造される事の効能/能力(potency)の正体を取り上げたのは、故に、重要です。

前書き
xxviiiページより:

VIの7

この形而上学(哲学)的見解が示唆するのは、その肉体/実質的補佐(i.e.現世)から分離されたスピリット(霊)的世界は存在しないと言う事だけでなく、現実はユニークで、そしてこれはマジック的運動/活動の心理的な可能性のために重要な成り行き/結果を有する事もまた暗示します。この全般的構成は2つの組成的運動/推進力を供給し、一つは活動的/活発で、もう一つは受け身的(passive)で、前者を機能的にするためには、後者が変化しなければなりません。なお、これらの2つの運動の間の中間地点が、実質的に、vinculum(絆/繋がり)で、そのオペレーター(機能させる/運転するもの/vinciens)の変化し続ける度合をvinciendumにリンクするものです。その全て(神/創造/宇宙)の元々の統一性は、故に、マジック的運動の成功のための状態を確立し、何故ならそれが、賢者(magus)がどう存在している明らかな多様性を、その根底にある統一性へと再構築出来るのかを理解する事を私達に許すからです。人間もまた、無限の形状がその表面の上を通る物質として表され、そして明らかにそれらの一つ一つはvinculumで、私達全てが、実際に、出会う多くの内の一つです。もし私達が私達が出会う物事に、正しい形状を与える事が出来るなら、自然のその他全てのレベル/段階の上で機能していると私達が見つけた同じマジック的構成に沿って、それらを機能させ始める事が出来ます。この行程は人工的に導く事は出来ますが、自然の枠組み向こう/外までは行かず、何故ならそれが、自然自体の導く法則であるもののユニークな形状を包み込む以上の事をしないからです。再び、これが(超自然力/魔力/マジックによる)変質/変態の神話で、全ての物事とそれらの発達の根底にある統一性の認識を、機能的な段階において可能にしたすべての物事の変質です。人/もの(one)が人/もの自体に実行するその運動(故に人/もの自体をどうにか人/もの自体の物体/対象にします)は、人/もの自体を益々より高い/高度な形状の対象へと変格する事を目的とします。マジック的運動/活動は、運動(act)と効能(potency)の間の偶発のもう一つの例で、それを最高位の熟考者(神)はomniformis(全ての形状または形を有する事)に成る能力へと翻訳し、そしてそれは此処で、vinculaの効能のために、そして特に、それら全ての中で最も強力なもの(愛)のために、(マジック的運動は)彼(神)に内在する効能を実現化する事によってその他のものを変格する能力です。人/もの(one)の運動は故に、それによって人/ものがvinculumにリンクされる効能に形状を与える人/ものの能力に沿って、様々なレベル/段階を有します。最終的に、最も高度な段階で、そのvinculumはその最も深い本質を明かし、効能/能力/可能性を運動へと変格し、運動を効能へとし、其処から続くのは、そのオペレーター(機能する/させるもの)は彼の順番において物体/対象(object)へと、そしてvinciendumからvinciensへと変格されると言う事です。

5ページより:

最初の対話(意見交換)への論議

最初の対話において、貴方は貴方が謝罪と呼ぶかも知れないものを有する、または、貴方がそう意志するなら、灰の水曜日の夕食等々を構成する5つの対話を有します。

第二の対話への論議

第二の対話において貴方が有するのは、最初に、知る事の出来る物体/対象が、認識力からどれだけ離されているかを知るための、その様な知識の難しさの原因です。第二に、どの様にして、そして何処まで、原因と原則は、原因された、または原則されたものによって説明されるかです。第三に、宇宙の実体/実質の知識の何が、その実体/実質の上に頼るものの概念に貢献するのかです。第四に、何の特定的な方法によって、私達は第一原則を知ろうとするのかです。第五に、「原因」と「原則」と言う用語の意味の間に存在する、違いと一致、正体と多様性です。第六に、私達が効果的、形式的、そして最終的へと分類するその原因の本質で、効果的な原因を定義する事なった方法で、そしてどれだけ多くの観点からそれが考えられるかです。この効果的原因はどう、ある意味、それが自然自体なので、自然の物事に固有/本質的(intrinsic)で、そしてどう、ある意味、それがそれらにとって外部/非本質的(extrinsic)で、形式的原因がどう効果的原因に繋がるのか、そしてそれを通して効果的原因がどう機能するのか、そして形式的原因、自体が、効果的原因によって物質の子宮からもたらされるのか、どう効果的と形式的原因が要素的/初歩的準階層において偶発するのか、そして一つの原因はその他からどう違うか/特徴的かです。第七に、一方で(それが無限である限りにおいて)それを通して無限の宇宙が、陽的では無く陰的にアニメ―ト(動か)される魂である宇宙的な形式的原因と、もう一方で、無限へと増幅可能でそして増幅された、より一般的でより優れた準階層に見つけられる限りより完璧な、特定的な形式的原因の間の違いで、ですから星々の様な大いなる動物(動くもの)はより神聖/神々しいと十分に考えられなければならず、絶対に誤りの無い知性と欠陥の無い運動を授けられていると考えなければなりません。第八に、第一のそして原則的な自然的形状、形式的原則と効果的本質は、宇宙の魂であり、生きて、発育して、そして感じる全ての物事における、生命的、発育的、そして感受的原則です。そして結論をする上で、更に加えて、宇宙とその主要な天体が動かないもので、これらの天体の分娩と排出から派生するのが私達が最も完璧と呼ぶ動物と見る/考えると信じるのは論理的題材には相応しくありません。第九に、それ程欠陥的で、未完成で、中絶的で、そして非完璧なものは無く、それが形式的原則を有するので、それは同様に魂を持たず、もし私達が動物として表現する実体/実質の運動を有さなくともです。そしてピタゴラスとその他の無駄に目を開かなかった者達と共に、膨大なスピリット(霊)がどう、異なった関係の下、そして異なった度合/段階に沿って、全体を満たしそして保つ/治めるかを私達は証明します。第十に、(バビロニア人とペルシャ人によって「影」と呼ばれた)このスピリットは物質と共に一所に不変的に存在するので、そして両者とも溶解不能なので、特定の偶然に関しては、全ては要素を変え、今、一つの構成から、今、もう一つへ見離し、そしてそれから再び今、この存在に成り、今、あの存在に変わるけれど、実体/実質に関して何かが腐敗を知る、または死によって終わるのは不可能だと証明されます。第十一に、アリストテレス派、プラトン派、そしてその他の哲学者達は、物事の実体/実質を認識せず、そして明らかに証明されるのは、自然的物事において、彼等が実体/実質と呼ぶ全ては、物質を除いて、純粋主義者の偶然でしかありません。そして真の形状(ふぉrm)の知識から派生するのは、生命とは何か、そして死とは何かの真の理解で、そして無駄で幼稚な死への恐怖が鎮められれば、私達の熟考が許す至福の一部を私達は知る事が出来るかも知れず、私達の人生/生活について最も素晴らしい/素敵な全てを毒し損ねる信念である、オルカスの中、そしてチャロンの掌握への狂気の信念の陰気な覆いを解きほどく、私達の哲学の土台を踏まえています。第十二に、形状(form)が分類されますが、その統一性を形成するその実体/実質性からの観点からでなく、その能力の運動と機能からと、それが産出する存在の特定の度合の観点からです。第十三に、私達は形式的原則の正真正銘の確定的本質を派生させ、活動的質そして受け身的質の様々な度合と様々な性質にこれが構成される限り、物質的形状に頼る偶発的性質によって物質において分別化される形状がどう完璧な種なのかを派生させます。私達は形状がどう変化可能(変数)なのか、そしてどうそれが不変なのか、どうそれが物質を定義し限定するのか、そしてどうそれが物質によって定義され限定されるのかを検証します。最後に、低級な理解のために応用された特定の比較を通してどうこの形状、この魂が、全体においてその全体的に存在し、そして全体のどの部分にも存在出来るのかを証明します。

7ページより:

第三の対話への論議

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第三の対話において、(第二の中で、原則よりも原因の本質を有する形状/formを語った後で)私達は、原因よりも原則または要素と考えられる物質の検証に進みます。最初に、(対話の始めの前書きは数えずに)私達はディナント(の街)のデーヴィッドは、物質が完全に素晴らしく神聖/神々しいものと取る事によって迷わされなかった事を証明します。第二に、異なった哲学的方法によって、現実には唯一、一つの主要で完全な物質しかないけれど、私達がどう物質に異なった定義を与えられるかです。それが異なった度合/段階において現れるので、そしてそれが様々な種(species)の下に異なって隠されるので、異なった哲学者達は、それらに相応しい定義に沿って異なって理解する事が出来ます。数字においてもそれは全く異ならず、それは算数家によって純粋にそして単純に理解され、音楽家によって調和的に、カバラ主義者によって象徴的に理解され、そして様々な賢者達と愚か者達によって更にその他の方法で理解されます。第三に、「物質(matter)」と言う言葉の意味は、自然的準階層と人工的準階層の間に存在する違いと類似性を通して説明されます。第四に、私達は、どう頑固者があしらわれ、そしてどれだけ私達が彼等の問いに答える事ができ、論議出来るかを指摘します。第五に、物質の真の定義から、実体/実質的(substantial)形状はその存在を失わないと示唆され、もし彼等が実質的形状を語るとしても、逍遥学派(アリストテレス派)とその他の下品な哲学者達は、物質以外の実体/実質を知らなかったと強引に証明します。第六に、一貫的な物質的原則が認識されるので、私達は一貫的な形式的原則を証明し、そして私達は、物質の中にある性質の多様性の事実から、異なった種と異なった個々の多様形状構成に進む形式的原則を聡明し、そして何故、逍遥学派に育てられた者達が物質以外の実体/実質を認識する事を欲しなかったのかを証明します。第七に、何故、理性は物質を形状から、そして効能/能力(potency)を運動/活動(act)から分類しなければならないのか、そして私達は、私自身を批評の対象にさせる事無く、私達がどう、異なった哲学的システムに沿って、もっと便利な様に、しかしながら、自然的とマジック的方法に沿って、そしてより効果的に理論的そして数学的方法に沿って、特にもしそれらが、それ無しでは全ての熟考は無駄と考えられ、結果的に何も価値のあるものは産み出さず、実質的実りは何もないと言う基準と理性の働きにとても緊密に当てはまるなら、様々な方法で自然の物事の準階層と原則を掌握出来るのかを繰り返します。

第八に、一般的に物質が考えられるものから、効能/能力または準階層のどちらかとしての、2つの観点を表します。そして前者の観点から始め、私達は物質を運動/活動的効能(active potency)と受け身的効能(passive potency)に分類し、そして特定の方法において私達はそれを統一性へと導きます。第九に、第八の提案から、どう最高位で神聖な者(i.e.神)がそれが成る事の出来る全てなのか、どう宇宙はそれが成る事の出来る全て七日、そしてどうその他の物事がそれらが成る事の出来る全てではないのかを推論します。第十に、第九の部分で云われた事の結果として、私達は評価出来る、鮮明で簡潔な方法で、自然において何故、悪習、怪物、腐敗/汚職、そして死があるのかを証明します。

第十一に、何の意味において宇宙は無の中(in none/何の中にも無い)でそしてその部分の全て(の中にあり) - それは時に神の素晴らしい熟考です。

第十二に、その点から起こるのは、知性はこの絶対的運動と絶対的効能を掌握(理解)出来ないと言う事です。第十三に、効能は運動と偶発する様に、形状と偶発する物質の素晴らしさと共に私達は結論します。最後に、効能は運動と偶発し、宇宙はそれが成る事の出来る全てであると言う事実と、同時にその他の理由から、私達は全ては一つであると結論します。(i.e.全てはエネルギー、つまり、波である。)

第四の対話への論議

第四の対話において(第三の中で物質は効能/能力/potencyであると言う処まで考えた後)、物質は準階層(substratum)であると言う処まで考えられます。私達は特定のプラトン派と逍遥学派(アリストテレス派)の全ての下品/下等な原則による物質の定義を表すために、poliinnian(?)動揺(distraction)と共に始めます。第二に、私達自身の原則に沿ってiuxta(?)を理由づけ、私達は肉体/実質的物質と非肉体/実質(無形/霊的)な物事は一つ/同一で、幾つかの理由のために、その最初は、一つそして同じ種の効能から引き出される事を証明します。二つ目は肉体的と霊的の間の、絶対(absolute)と緊縮(contracted)の間の、特定の比率的類推です。三つめは自然のヒエラルキーまたは梯子から引き出され、それは原則の最初の抱擁または理解に登りつめます。四つ目は、物質が実体的と霊的に分類される前に何か特徴的な物が無ければ成らないと言う事実から取られ、そのカテゴリーの最高位の種(genus)によって表される特徴はそれです。五つ目は、理解出来るもの(intelligible/現世的)と知覚出来るもの(sensible/天界的)によって分かち合われた共通の本質があると言う事実から取られ、それは感受性の準階層のためにも同じでなければなりません。六つ目は、物質の存在は実体的存在とは別々/独立的と言う事実から引き出され、ですからそれは実体的物事と同等に霊的にも相応しいです。七つ目は、物質/実質に間に確立された、高等と下等のヒエラルキーから派生し、このヒエラルキーが存在する処に、物質に関しての特定の共通性を私達が前提し理解するためで、それは形状(form)が特定の違いによって象徴される様に、常に種によって象徴されます。八つ目は、私達の哲学とは異質の原則から派生しますが、多くによって保たれ、九つ目は、私達が理解出来る世界(現世)に帰する種の多様性から派生します。十番目は、形而上(metaphysical)的、物理(physical)的、そして論理(logical)的三つの世界の類似性と模倣の関係から来ます。十一番目は、全ての数字、多様性、秩序、美、そして装飾は物質に関連している事実から引き出されます。

第三に、私達は端的に4つの対峙する論議を表し、そしてそれらに返答します。第四に、私達は、この物質があの物質とどう違うのか、どう異なって私達はあれやこれを伝えるのか、そして霊的/無形的物事の中で物質がどう運土と偶発するのか、そしてどう次元の全ての種は物質の中で、全ての質は形状の中に構成されるのかを証明します。第五に、形状は物質によって外部から受け取られると言った賢者は一人もいませんが、物質は、内部、言うなれば子宮からそれら(形状)を産出し、それらを発生させます。それは故にprope nihili、(一つの)殆ど無では無く、純粋でそして裸の効能(potecy)で、全ての形状がその中に含まれ、それによって産出されていて、そして(存在の観点からだと物質から分類する事の出来ない)効果的原因の徳によってもたらされ、もし物質は常に分離不能で常に分離されていない物質と共に偶発するとして、仮に次元に基づいた偶然を通して現れるものと現させられるもの全てが純粋な偶然だとしても、偶発的存在を通して以外にそれらは、知覚出来る(天界的)そして理解出来る(現世的)存在における実際の存在のモードを有しません。故に、私達が鮮明に見るのは、詳細な説明から私達は偶然以外の何ものも得られず、そしてだから、アリストテレスが、真実によってチェックされ、言った様に、実体的違いは隠されています。ですから、題材をよく考えて、統一的実体は一つで、そして真実と存在は一つで、それは無数の特徴と個々を通してそれ自体を現せさせ、無数で、確か/固形(コンクリート)で、個々の実体の中にそれ自体を現します。

第六に、アリストテレスや彼の様な人達が、物質は効能の中に存在すると考える時、その様な存在は確実に無である事を与えられ、彼等によると、物質はとても絶対永遠的で、それがその存在を変化または変格させる事は決して無く、それに関連した全ての変形と変格は、更に彼等によると、存在する事が出来た後、常に合成であると彼等が意味する時、どれだけ全ての理性からかけ離れているかです。第七に、私達が証明するのは、物質を欲求として特徴化させるのにどれだけ意味が無いかで、物質は不足の愛娘で、その欲求は発情した女性の抑える事の出来ない切望に似ていると強く宣言する人達のものである原則と仮説から派生した正に同じ論理を使用します。

第五の対話への論議

主に統一性を扱う第五の対話において、全ての自然的で神聖な認知の体系の基礎が並べられます。此処で、第一に、私達は、物理的に分離されておらず、不明瞭で(特徴的では無く)そして単一/同一であり、そして同時に無限で、動かす事が出来ず、分類する事が出来ないもの、一部と全体、または原則と原則させられたものの間に違いが無いものが何であるか、そして何に成る事が出来るか論理的に分類出来る様に、物質(matter)と形状(form)、効能(potency)と運動(act)の偶発のテーマを表します。第二に、これの中において、一世紀と一年の間、一年と一瞬の間、手のひらとスタジアムの間、スタジアムとファルサフ(膨大な単位)の間には違いが無く、そしてその本質において、その他の特定的存在のあれやこれはお互いそれぞれから分類されておらず、何故なら宇宙において数字は無く、そして故に宇宙は一つだからです。第三に、無限において、点は体から異ならず、何故なら効能と運動の間に違いが無いからで、故に、もし点が長さにおいて、線が幅において、そして表面が深さにおいて延長する事が出来るなら、その点は長く、その線は広く、そしてその表面は深く、そして全ての物事は長く、広く、そして深く、そして故に単一で同じで、そして宇宙は全ての中心であり全ての円周です。第四に、(彼がそう呼ばれる様に)ジョヴ(木星神)が、全てのものの中により更に親密に見つけられ、全てのものの形状が想像されたままになれるなら(何故なら彼は、存在する全て/all that existsがそれを通して存在/ありかたを有する/possesses being 本質/essence だからで、そして彼は全てのものの中にあるのだから、それぞれのものはそれがそれ自体の形状を有するより更により親密にその全体を有します)、私達は全ての物事はそれぞれのものの中にあり、そして成り行き/結果的に全ては単一/同一であると推論するでしょう。第五に、何故、全ての特定的物事は変わり、そして何故、これやあれの存在/あり方を受け取るために、特定の物質はかれやあれの形状に向かって励む/努力するのかを知る事を望む懐疑論者に私達は返答します。私達は、多様性の中にどう統一性があるのか、そして統一性の中にどう多様性があるのか、そして存在/あり方がどう多様的モードであり多様的統一性なのか、そしてどう、最終的に、それが実体と真実において単一/同一なのかを証明します。第六に、数と違いは何処から前進/出てきたのかと同時に、それらは存在では無く(not being)、存在のもの(of being)で、そして存在の相対である事実を推論します。第七に、このもの(one)を発見した者が誰であれ - 私が意味するのはこの統一性の本質(エッセンス)ですが - それなしでは人が自然の真の理解をする事の出来ない鍵を発見した者である事を私達は証明します。第八に、新たな分析の方法によって、そのもの(one)は、その無限は - 全てのものの中にありその存在は、 - そこら中にあり、またはもっと言えば、それ自体がubiue(everywhere)で、そしてそれは故に無限の次元で、それは大きさでは無く無限の多様性として分離されていない個々と偶発し、それは数ではないので統一性と偶発する事を私達は再確認します。

第九に、宇宙の物事がどれだけ特定化されていようとも、どう無限において(別個の)部分は無く、其処で、結果的に、私達が見る多様性と違いは、単一で同じ実体(substance)の多様な要素でしかないと言う事です。第十に、自然の梯子の極限に与えられた2つの対極(陰陽)において、私達は2つの原則では無く1つのみを見るべきで、2つの存在/あり方では無く1つを見るべきで、2つの対象と反対では無く、単一で同じ一致/調和を見るべきと言う事です。其処において高さは深さで、底無しの穴はアクセス出来ない光で、薄暗さは鮮明さで、大は小で、混乱されたものははっきりしたもので、不和は親善で、分類出来るものは分類出来ないもので、原子は膨大さデ-そして全てが裏返しです。第十一に、どの様にして、点や統一性の様な幾何学的定義が、それら(点や統一性)はそれら(存在と統一性)を表現するのには不十分ですが、存在と統一性の熟考に向けて私達を導くかも知れないと言う事です。ですからピタゴラス、パルメニデス(Parmenides)そしてプラトンは、アリストテレスの学者ぶった批評に沿って解釈されるべきではありません。第十二に、実体または存在は、量、寸法、そして数字/数値からはっきりと異なると言う事実から、私達はそれが全ての中で、そして何であれどんなものの中においても、単一/唯一で分類/分離されていないと仮定します。

第十三に、対象/対極は実に偶発し、現実において、同じ原則と形状から派生し、単一の実体であると言う印と証拠を私達は紹介し、これはまず、数学的に、そしてそれから物理的に検証されます。

此処で、そうすると、最も著名な貴方は、物事のより特定的で公正な認知に向かって探求するために、私達は何処から始めなければならないのかを理解いただけるでしょう。(その排他的種の中と同様に)その結論が含まれるのは自然科学の母体の中です。其処から推論的科学の構造、性質、そして秩序が派生します。この紹介なしでは、全ての試み、全ての探求、そして全てのイニシアティヴは無駄です。博愛のスピリット(霊)と共に、この原則を、この単一を、この泉を、この源泉を受け入れ、その子孫/後継者が、その子供達が、発生する様にスパークされ、そしてその川と濁流がより豊かに流れ出て、そしてその数が継続的に倍増しそしてメンバー/仲間が繁栄する様にし、夜の眠たい覆いと薄暗い中核に終わりをもたらし、神聖な女神達の親である素晴らしい巨人(タイタン)が、彼の家族に装飾され、彼の永遠に続く宮廷に囲まれる事を許し、夜の松明を消滅させ、新たな日と共に世界を明るくし、この気品あるオーロラの朱色の胸中から、彼の勝利的二輪馬車と共に再び前に進ませ給え。

[ノーランのジョルダーノから宇宙の原則へ

その始まりから、水の波打つ広がりに切り開かれた暗い地球が、その座を離れ天界的球体(複数形)に向かって飛びます様に、私は貴方に乞います、大太陽よ。そして貴方、放浪する星々よ、この道を私に開いたのは貴方達なので、二重の天界に向かって進む私を見て下さい。私が空間/宇宙を通って急ぐ時、貴方達の運動が、僅かな時が長く隠した、眠りの扉を開きます様に、それが私に、濃い暗闇から光へと引き出す事を許します様に。おお苦しむスピリットよ、貴方はそれを相応しくない時代に譲るのに、貴方の真実を産み与えるのを急がせる事から何が貴方を妨げているのですか?影の流れを通って地球は沈み、貴方、我がオリンポス(山)よ、鮮明な天界の中で貴方の頂を輝かせ給え。]

[彼自身のスピリット(霊)へ

おお、山よ、地球を通して貴方を縛り/結び、貴方がその上で休息/睡眠する深い根によって貴方を保持/拘束し、その頂において貴方は天界まで伸びる事が出来ます。おお、マインドよ、世界の高い頂上からの不吉/邪悪なマインドが貴方を呼び、天界と地獄の間の境界線と成ります。此処、下界において貴方の権利を失わず、そしてアーチェロン(Acheron)の黒い水に触れず、底辺まで落ちそれに捕われないでください。むしろ、もし神が貴方を動かすなら、貴方は熱烈な炎に成るので、自然の崇高な休息/奥底を調査して下さい。]

[時へ

おお、老人よ、ゆっくりとそして素早く、開きそして閉じる者、私達は貴方を良くまたは悪く言うべきでしょうか?貴方は太っ腹でみみっちく、貴方が差し出す贈り物を、貴方は取り返し、貴方は貴方が産む原因に成るものを殺し、そして貴方の内臓から派生するものを、貴方の内臓で貴方は食い尽くし、貴方は貴方の胸に実った果実を貴方の顎で食う事を許されたものです。貴方は全てを創造しそして全てを破壊し、ならば私は貴方を善と呼びましょうか、悪と呼びましょうか?ですが貴方の素早い命取りの一撃で、貴方の脅威の大鎌で、貴方が私を驚かせる時、黒い混沌の面影が無い処に私に私の両手を前に伸ばさせ給えば、故に貴方は善とも悪とも現れないでしょう。]

[愛について

愛は私に真実のとても崇高なヴィジョンを授け、彼はダイアモンドの黒い扉を開き、その両目を通って神は入り、そしてそれは、彼が生まれ、生き、食べさせられ、そして永遠に統治するのを見る(理解する)事です。彼は、天界、地獄、そして地上の全てを明かし、無いもの(absent)の真のイメージを現せさせ、直接の一撃を持って打つために強さを収集し、常に心(心臓)を傷つけ、隠された全てを明かします。故に、基本的集団(一般大衆)は真実に従事し、私の言葉に聞き受けない貴方の耳を貸します。開け、貴方の狂った細くした目を、もし貴方が出来るなら、開き給え。貴方は彼を子供と呼び、何故なら貴方が何も理解しないからで、何故なら貴方がとても非一貫的だからで、彼は貴方から見て気まぐれな様なのは、貴方自身の節穴が貴方に彼を盲目と呼ばせるからです。]

[統一された/されて

おお、汝、永遠の原因、原則そして単一/同一よ、存在、生命そして運動が帰属する処よ、そして長さ、幅、そして深さにおいて天界、地上、そして地獄における全てを延長する処よ、感覚、理性、そしてスピリットと共に私はその運動をはっきり認め(理解し)、測量と認識はその力を、最低、中間、または最高である全てを超越する質量と数字理解します。盲目な過ち、欲張りな時間、有害な幸運、つんぼなねたみ、下劣な激怒、敵対的熱狂、残酷な心、ひねくれたスピリット、奇怪な情熱は、私の前の空気を不明瞭にするのに十分でなく、私の眼の前を覆いを置くでもなく、私の美しい太陽を見る事から私を妨げる事も決して出来ません。]

ノーラン(地方/の街)のジョルダーノ・ブルーノ
原因、原理、そして統一性

最初の対話

発言者:エリトロピオ(Elitropio)、フィロテオ(Filoteo)、アルメッソ(Armesso)

E. 暗闇に馴れた悪人の如く、ある薄暗さの深みから解放され光へと来た者の如く、一般的な哲学を修業した多くとその他の者達は、恐れによって鷲づかみにされ、驚きに襲われ(貴方の輝く概念の新たな太陽に耐え切れず)完全に動揺させられるでしょう。

F. それは光の過ちではなく、彼等の視覚の過ちで、太陽がより素晴らしく美しくあればある程、夜の魔女達の眼にとって、より憎しみ深く手荒で歓迎されないでしょう。

E. 盲目の底なし沼から私達を、天界の空色の中核に対してとても美しい様式で輝く、開けて(自由/開放的で)、平和的で、そして平穏な星々の光景へと、救おうとする貴方の希望において、フィロテオよ、貴方は一般的ではなく、通常ではなく、そして難しい冒険を選びました。そして貴方の憐れみの手助けの手は私達、人々へと伸ばされましたが、恩知らずは今でも、優しい地球の大きな母親的胸の中で発生させられ育成された多くの動物達程の様々な方法で貴方を攻撃し、鮮明なのは、人間種は、その個々の特徴において、その他の種を全て一緒にした多様性を表す事です。私達、個々のそれぞれの中に、その他の種の個々の中以上に、よりはっきりと全体性が存在します。故に、ある者達は、彼等が新鮮な空気を感じるや否や、まるでぼやけた眼をしたモグラの如く、彼等の自然体なインクの様な深さ(暗さ)を求め、土の中へとすぐさま堀り戻ります。その他の者達は、夜鳥の如く、東から太陽の朱色の大使夫人が昇るのを見ると、彼等の眼の弱さいよって、彼等のすすけた住処に戻る事を強いられます。全ての生き物は天体的光の現れ/存在から追放され、そしてプルート(冥王星)の永遠の割れ目、檻、そして洞窟へと運命づけられ - 全ての動物達は、恐ろしいエリニス(Erynnis)、アレクト(Alecto)の角笛によって呼ばれ、彼等の翼を広げ、頭から彼等の巣へと逃げるでしょう。ですが太陽を見るために産まれた動物達は、憎まれた夜(が過ぎるの)を待ったものは、慈悲深い天界に感謝を与え、彼等の眼の球形のクリスタルの中で、東を崇敬し、彼等の心の稀な崇拝だけでなく、声と手と共に、彼等が長きに待ち焦がれた光線を得る準備をするでしょう。東の金ぴかのバルコニー(i.e.地平線)から、ハンサムなタイタン(巨人)が湿った夜の眠たい沈黙を切り裂く激しい馬群を放った時、人々は話し始めるでしょう。おとなしく、無防備で、そして単純な羊の群れはメ~と鳴き、角の生えた牡牛は、彼等の素朴な牛飼いに注意を払われモ~と鳴き、そしてサイレナス(Silenus)の四足獣達はヒヒ~ンと鳴き出し、神々の利のために愚かな巨人達(ジャイアンツ)を怖がらせるでしょう。彼等の泥の寝床で寝返りし、豚/猪達は彼等の強情なブ~ブ~鳴きで私達をつんぼにするでしょう。虎、熊、ライオン、狼達と、ずる賢い狐は洞窟から彼の頭を突き出し彼等の高い砂漠から彼等の狩りの場を見て、そして彼等の獰猛な胸から彼等の吠え叫び、唸り、唸り鳴き、遠吠え、そして叫びを発するでしょう。空と木々の枝葉の中で、雄鶏、鷲、孔雀、鶴、白鳩、黒鳥、カラス、燕、ナイチンゲール、マグパイ、渡りカラス、カッコウ、そしてセミ達は反応するのに時間を無駄にせず、彼等の耳を裂く様なけたたましい鳴き声を再エコーさせます。まだ更に、彼等の流動的な液体の住処から、白鳥、色とりどりの水鳥、素早いウミスズメ、湿地のアヒル、ガ~ガ~鳴くガチョウ、そしてゲロゲロ鳴くカエル達が、彼等の騒音で私達の耳を妨害し、私達の優遇された半球の空気/空に放散した暖かい日の光は、彼等それぞれの胸のくぼみからはせいされる息程無数で多様な泣き叫びによって、それ(火の光)自体が伴われ、挨拶され、そして恐らく異常発生する程でしょう。

ノーラン(地方/の街)のジョルダーノ・ブルーノ
原因、原理、そして統一性
最初の対話 2


発言者:エリトロピオ(Elitropio)、フィロテオ(Filoteo)、アルメッソ(Armesso)

F. 全ての動物が、それ自身の鳴き声を上げるのは一般的であるだけでなく、必然的で自然です。獣達は、それらの物理的/肉体的構造、栄養と味の好みが(人とは)似ていないので、統制されたアクセントと明瞭な音を、人間の様に形状する事は出来ません。

A. どうか私にも発言の機会を与えて下さい:光についてではなく、何らかの状況についてで、感覚(五感)を癒す/なだめる事から遥かに遠く、観測しそして反映/思考するのが誰であれ感情を害する事です。(私が同胞的愛情をもって、貴方のために臨む)貴方の平穏と静寂のために、私は貴方のこれらのスピーチが、少々前に公に流通されたものの様に、喜劇、悲劇、嘆き、対話、またはその他にされ、そして貴方に貴方の家に閉じこもる事を強要する事を欲しません。

F. 正直に話して下さい。

A. 私は、曖昧な神託として、黙示録的先見者または天使を見たバラアムの雌ロバの如く、神聖な預言者の様に語るつもりはありません。私はあたかもバッカス(ワインの神)に陽気にされた、または娼婦的なパルナシアンの女神達の風によって膨らまされた、もしくはフォエブスによって受胎させられたシビル、または予知的カサンドラの様に論説しませんし、あたかもつま先の爪から私の頭の髪の毛までアポロ(太陽神)的歓喜に捕われた、または神託やデルフィの三脚にイルミネート(聡明に)された預言者、もしくはスフィンクスの謎かけに探られたイーディプス、またはシーヴァの女王の前のソロモン、オリンピア(万神)委員会の解釈者、カルチャスの様に、もしくは憑依されたマーリンや、トロフォニウスの洞窟から出でた者の様に論説しません。代わりに、私は一般的で低級な言語で話し、彼の脳と小脳の液を、彼のpia materdura materが風化する点まで濾過よりも、その他の事が頭にある人の様に語ります。私が意味するのは、私は私自身の知力以外持たない者として語る事で、そしてその者にとって、神々は彼等の馬に出さえ彼等のひいきを無限に山積みしますが、庭や台所(i.e.そこらへん)の種の天界的宮廷の神々は藁を投げるためさえへりくだりませんが - これらの神々は、私は言いましょう、彼等自身を私達と共により親密で、より親しみがあり、そして気が合うようにします。私が意味するのは、バッカス、またはロバに乗った酔っ払い、またはパン、またはヴァ―チュムナス、またはファニュアス、またはプリアプスは、アンブロシアを飲んだり、ネクターを味わったりしないものは(ニンフと純粋な水を評価しないものは)、樽の底の酸っぱいワインで彼等の渇きを癒します。

E. 前書きが長すぎます。

ノーラン(地方/の街)のジョルダーノ・ブルーノ
原因、原理、そして統一性
最初の対話 3

発言者:エリトロピオ(Elitropio)、フィロテオ(Filoteo)、アルメッソ(Armesso)

17ページより:

A. 我慢です。結論は素早いですから。これに終止符を打つために、私はあたかも濾過された様な、蒸留器を通された様な、二重沸騰で濃縮され、精髄の処方と共に昇華された様な、暗号解読を必要としない言葉を指し出しますが、その様な言葉は、私の乳母が私の頭蓋にたたき込みましたが - その女性の皮膚は厚く、胸は大きく、腰は広く、腹は太く、そして尻は私がウエストミンスターで見たロンドン者程でかく、その者は彼女の腹のための熱い水筒の様な大きな乳を有し、それらは巨大な聖者パラゴリオのハーフブーツの様に見え、そしてそれは、もし日焼けさせられたら、一対のフェラリースのバグパイプに匹敵するほどです。

E. 前書きとしてはとても十分です。

A. まあ、それでは、残りを言いましょう - 光と貴方の哲学の効能的素晴らしさに関する観測と意見を少々横に置いといて - 私が貴方から聞きたいのは、貴方はどの方法で私達が出迎える、特に灰の水曜日の夕食から輝き出る素晴らしい教義を出迎えるのを望むのかと言う事です。灰の水曜日の夕食の中でパフォーム(演技/活躍)するのは何の動物ですか?それらは水中的、空中的、地上的、それともルーナティック(月的/気違い的)ですか?そしてスミソ、プルーデンゾ、そしてフルーラの観測は置いといて、私が知りたいのは、貴方は、時々猿芝居をし、時々狼の如く振る舞い、時々マグパイの様で、時々オウムの様で、今はこの動物で、今度はあの動物で、重大で真剣な言葉、道徳と自然、下劣と崇高、哲学と喜劇を混同し、狂犬の様に吠えると言う彼等の主張は正しいか、過ちかと言う事です。

F. 驚かさせられないでください、兄弟よ、その場面は実に、食べ物と飲み物の味と香りによって高揚させられた情熱によって頭脳が導かれる夕食です。その夕食は、その物質的そして肉体/有形的外観の理論的成り行き/結果として、言葉的でスピリット(霊)的です。その対話は故に、その他の夕食を一般的に構成する様な異なったそして様々な部分を有します。前者は、後者のそれと同様に、それ特有の状態、状況、そしてそれ自体の方法/意味を有します。

A. 貴方が意味する処を理解する手助けを下さい、お願いです。

F. 一つのケースにおいて(相応しく正しい様に)、サラダとメインディッシュがあり、果物と一般的食物があり、前菜と香辛料があり、温かいものと冷たいものがあり、生のものと調理されたものがあり、海の幸と山の幸があり、栽培されたものと野生のものがあり、熟したものと緑のものがあり、健康食と病人のためのものがあり、グルメのための皿と飢えた者のための皿があり、軽いものと重いものがあり、さっぱりしたものと塩されたものがあり、酸い甘いがあり、苦いとマイルドがあります。同様に、その他のケースに関してそしてある特定の類推によって、私達の象徴的宴会に参加したい者達の様々な胃と(味の)好みに相応しく、対象と違いは現れ、ですから誰も無駄に出席したと文句は言えず、一つのものを気に入らない者はもう一つを取ればいいのです。

A. そうですね。ですがもし、加えて、貴方の宴会において、貴方の夕食において、サラダのためにもメインディッシュのためにも、果物やフィレットのためにも、冷たいものや温かいもののためにも、生や調理された者のためにも、健康食や病人食のためにも、良く無い様に物事が現れ、調理人または菓子職人の手を決して離れるべきではなかったものが、食欲をわかせず飢えを癒さないものが現れたら、貴方の答えは何ですか?


ノーラン(地方/の街)のジョルダーノ・ブルーノ
原因、原理、そして統一性
最初の対話 4

発言者:エリトロピオ(Elitropio)、フィロテオ(Filoteo)、アルメッソ(Armesso)

19ページより:

F. これにおいて、私達の夕食は、与えられるその他のもの(夕食)と何ら変わりない事を、貴方は見る(理解する)でしょう。そのその他と共に、貴方が貴方の食事を楽しんでいる際に、貴方は熱すぎる一口で、貴方の口を火傷し、それを吐き出すか、もしくは飲み込むのを早めるために、呪われた一押しが出来るまで涙を流し鳴きながら口の中でそれを転がさなければならず、または歯ぎしりするか、パンと同時に舌を噛むか、もしくは壊れて歯の間にくっつく砂利の欠片があり、その一口全体を貴方が吐き出す事を強います。料理人の髪か髭が貴方の口の中にくっつき、貴方を嘔吐しそうにする、または魚の小骨が貴方の喉に詰まりゼーゼー言わせる、もしくはもう一つの骨が貴方の喉で横向きに引っ掛かり貴方を窒息させかねません。私達とそして皆の不快のために、類似し同等の物事は私達の夕食に見つけられました。その全ては、最初の人、アダムの罪のせいです。私達の先祖の御蔭で、邪悪な人間の本質は、嫌悪と喜びが繋がっていると見つける様に(悪く)運命づけられているのです。

A. 尊厳と敬神を持って語られました。ですが貴方を熱狂的批評者と呼ぶ者達への貴方の返答は何ですか?

F. 私はその点を用意周到に飲み込みます、少なくとも部分的には。

A. ですが人にとって虐待するよりされる方がまだましだと、貴方も知っているでしょう?

F. しかし、私の行動が復讐とレッテルを張られ、その他は虐待とされるのは十分です。

A. 神々でさえ誹謗中傷を受けたり、とがめられたり、非難されたりしますが、誹謗中傷する事、とがめる事、そして非難する事は、低俗で、意地悪く、臆病で、そして価値の無い人達がする事です。

F. そうですね。それは何故、私達が傷つけないかの理由で、むしろつけられた傷を反証し、私達に対してと言うよりは非難された哲学に対してで、その他の誹謗中傷が既に受け取られた分に加えられない方法で進みます。

A. ですから貴方は、誰も貴方を虐待出来ない様に、噛みつき犬を演じたいのですか?

F. 正にその通りで、何故なら私は平穏を熱望するからで、不快は私を立腹させるからです。

A. そうですか、でも彼等は貴方が厳しすぎると思いますよね。

F. それは彼等が言い返すのを妨げるためで、私、またはその他の者に対して反論する事からひるませるためで、私達の証明を素早く(否定して)扱わさせないためです。

A. 攻撃はプライベートだったのに、反撃は公でした。

F. それでもなお、そのためだけに。多くの過ちはプライベートで犯され、それらはその後、公において公正に非難されました。

A. ですがその様にして貴方は結果的に貴方の評判を台無しにし、貴方自身を誰よりもとがめられるべきとし、世間は貴方を気が短く、狂信的で、精神異常で、そして奇怪とします。

F. それは、彼等が今後、私を困らせる事を止めれば問題ではなく、そしてもし私が皮肉屋の棒を振るうなら、それは彼等に私を平穏の中でそっとさせるためです。彼等が私に新設をしたくないのは明らかですが、彼等は彼等の下品さを私に実行するべきではありません。

A. ですが貴方は、哲学者が彼自身を復讐するために、計画するのは相応しいと思いますか?

F. もし私を苦しめた者達がザンセィペス(Xanthippes)なら、私はソクラテスでしょう。

ノーラン(地方/の街)のジョルダーノ・ブルーノ
原因、原理、そして統一性
最初の対話 5

発言者:エリトロピオ(Elitropio)、フィロテオ(Filoteo)、アルメッソ(Armesso)

20ページより:

A. 我慢と長い苦しみが誰にとっても良薬で、ある者達によると、彼等の復讐を延期し、またある者達によると復讐もせず、怒りに捕われない事によって、それらを通して私達は英雄や尊敬される神々に成る事を貴方は知らないのですか?

F. 私が復讐に関心があると考えるのなら、貴方は間違っています。

A. じゃあ、何なのですか?

F. 私は正す事に関心があり - それはまた、私達を神々に類似させる活動です。貴方はジョヴ(木星/ジュピター/ピーター)が、可哀想なヴァルカンに、祝日にでさえ働く事を命じ、呪われた鉄床(anvil)が永遠に強力な打撃を受け続ける様にした事を知っているでしょう。人が立ち上がると直ぐにもう一つ(の打撃)が叩き下ろされ(出る杭は打たれ)、罪人と無法者を厳しく罰する公正な(木星の)雷は決して供給不足ではありません。

A. 貴方と、キプロスの女神の夫であるジョヴの鍛冶屋の間では違いがあります。

F. 何にせよ、私が我慢と長い苦しみにおいて、神々とさほど変わらないのは十分です。そして、これ等の質は、私が私の軽蔑に決して完全に手綱を渡さなかった事と私の怒りに決して刺激されなかった事において、この状況で試されます。

A. 罰する者に成る事は - 特に複数/無数に対してそうする事は - 一般の唯の人の仕事ではありません。

F. それに加え、特に彼には複数/無数と関わる事が何もない時にです。

A. 貴方自身の国(祖国)でない処で、アジテーター(扇動者)に成ってはならないと人々は言います。

F. そして私は2つの事を言います:まず、土着の医者によって処方されない治療を試みるからといって、外人の医者を殺すべきでは無い事;第二に、真の哲学者の祖国は世界全てである事を私は言いたいのです。

A. ですがもし人々が、貴方を哲学者とも、医者とも、同郷の者とも考えなければ?

F. それは私をそれ以下の何ものにもしません。

A. 誰が貴方のために保障しますか?

F. 私を此処においた神々と、私自身を此処で見つけた私と、そして私を此処に見る眼を持つ者達です。

A. 貴方の目撃者/生き証人は極少数であまり知られていません。

F. これらの人々の全てが本当に病気でいる間、真の医者は実に極少数であまり知られていません。そして繰り返しますが、外人であろうとなかろうと、正直な商品/サービスを提供するこれらの者達に、その様な扱いを加える、または他者にそうする事を許す権利を彼等は有しません。

A. この商品を知る者は殆どいません。

F. その理由を持って真珠が貴重で無くなる事はなく、故に私達が、私達の力の全てを持って、それらを豚の踏みつけから守り、救い、そして弁明する努力に献身する事を怠る事はありません。私が愛する母である哲学の汚された崇高さへの献身以外から、私はあさましい自己愛または低俗な自己関心から復讐の活動を行った事は決して無いので、アルメッソよ、神々が私を御ひいきしますように。偽りの友達そして偽りの子供達(本を担いで、髭を伸ばし、またはその他の方法によって擬人的に彼女/i.e.哲学の家族の一員に成ろうと熱望する事を望まない価値の無い空論家、何もしないフレーズ/レトリック作者、愚かなファウヌス/半人半羊、または無知な下働きはいないので)が、彼女(哲学)を無駄遣いしたので、一般の人々の間で哲学は偽もの、藪医者、詐欺師、役立たずのペテン師、そして遠吠えする空論家と同一視され、ホーム・エンターテーメントか田舎のかかし位しか役に立たないと思われます。

ノーラン(地方/の街)のジョルダーノ・ブルーノ
原因、原理、そして統一性
最初の対話 6

発言者:エリトロピオ(Elitropio)、フィロテオ(Filoteo)、アルメッソ(Armesso)

21ページより:

E. 実に、哲学者達は一つの民族/人種として、殆どの人々によって人類のかすから派生した住宅牧師よりも卑劣と評価され、その者達(住宅牧師)は、しかしながら、あらゆる種の獣の中から選ばれ、哲学者達が哲学を辱めたより、神官階級を恥辱させていません。

F. ですから私達は太古の民族を讃えましょう。当時の哲学者達はとても多くの価値/高い地位を有し、彼等の中から立法者、助言者、そして王達を排出した程でした。そして助言者達と王達は、その様だった(優れていた)ので、これ等の機能から神官階級へと昇進させられました。私達のじだいにおいて、殆どの神官階級(官僚)はその様な(劣っている)ので、彼等自身が疑われ/信用されなく成り、そして神聖な法も疑わせさせ、私達が目にする殆ど全ての哲学者達は価値が殆ど無いので、彼等は彼等の科学と共に軽蔑されています。より悪質なのは、無数の悪党達が、イラクサ(有毒)の塊の如く、極少数にだけ明かされる真実と徳を、有害な蜃気楼で覆い尽くす事になれてしまった事です。

A. 否定された哲学を好んで興奮する哲学者を、私は一人も知らないし、エリトロピオよ、私はテオフィロ程、彼の科学によって情熱づけられる者を認知しません。もしその他全ての哲学者達が同様の特徴/人格を持っていたら、私が意味するに忍耐/我慢を有していなかったら、何が起こるでしょう?

E. これらのその他の者達はとても多くの発見をしなかったでしょうし、保存するまたは守るものも大して無かったでしょう。彼等は価値の無い、または殆ど価値の無い、もしくは彼等が知らない哲学の価値を簡単に下げる事が出来ますが、隠された宝物である真実を見つけた者は、その神聖な顔の美に鼓舞され、略奪、怠慢、そして汚染に対して彼女(真実)を守るために必死に成ります。丁度その様に、守銭奴は黄金、ダイアモンド、そしてザクロ石への情熱を思い付き、または男は卑猥な女の美への情熱を思いつくのかも知れません。

A. ですが私達は、私達の題材に戻りquia(何故)に辿り着きましょう。人々は貴方、テオフィロが、貴方の(灰の水曜日の)夕食の中で、貴方は街全体、地方全体、王国全体を批評し侮辱したと言います。

F. (フィロテオ/テオフィロ)それは、私は決して(そう)考えず、決して意図せず、けっして(そう)しませんでした。もし私が、その他の、その野蛮と言う評判がどれだけ大きくとも、この様な高貴で古代の領域(ローマ)を侮辱しただけでなく、もし私がそう考えた、望んだ、またはそうしたとしたら、私は最大限の厳しさで私自身を非難し、千の否認、撤回、そして放棄声明をするために後ろ向きに腰を曲げるでしょう。そしてもし私が意味するのはその野蛮さの評判がどれ程広く広がっている街だけでなく、もし私がどんな階級を侮辱したとしても、どれだけそれが野蛮だと思われていても、またはある一族についてであったとしても、それがどれだけ不親切と考えられたとしてもです。対照的で正反対のマナーが存在しない民族、王国、街、または家などあり得る事が出来ず、それに対して人は全てに同じ気質を割り当てる事ができ、そうであるから、ある人を不快にするものの中に、またある人が快楽を見つけるのは不可能です。

A. 私が考える限り、私は貴方が言ったことについて読み、再読しそして瞑想し(幾つかの点については、何故だか私は知りませんが、私は貴方が少々言い過ぎと思いましたが)、その大部分において、貴方は私から見ると節度、理性、そして眼識/洞察力をもって進めている様ですが、私が述べた様にその騒音は広まりました。

E. この騒音とその他の物事は、彼等自身が触れられた/動揺させられたと感じた者達の意地悪さを通して議論されています。復讐する事にやっきですが、彼等自身の論説、彼等の教義、彼等の知性と彼等の強みの弱さを意識していて、彼等は彼等の出来る処で、彼等の様な者達以外は誰も信用しない、多くの嘘を捏造するだけでなく、幾らかの個人への貴方の非難を下劣な誹謗中傷/侮辱とする事によって、パルチザン(一方に偏った者)を集めようと試みます。

A. 私が考えるに、対照的に、英知と(良い)判断を持っていないわけでは無い人々がいて、その侮辱を統一/一般的と判断するのは、何故なら貴方が特定のマナー(方法)はこの国またはあの国の人々に起因すると示唆するからです。

F. ですがそれらの主張されたマナーとは何ですか?世界の最も素晴らしい部分の中で見つけられる種、類、そして数/数字に更により特徴的なマナーを言うまでも無く、それらは類似する、またはより粗悪ではありませんか?もし私がイタリアで、ナポリで、またはノーラで、同様、またはより犯罪的なマナーが見つけられる事が出来ると言ったら、貴方は私が私自身の国に向かって虐待的で恩知らずだと主張しますか?その祝福された領域(ローマ)を、よく同時に私達の地球の頭と右手に置かれるもの(ローマ)を、その他の国々の知事(支配者)と調教師(ローマ)を(そして私達とその他の者達によって、女主人であり、乳母/看護婦であり、そして全ての徳、鍛錬/自制心、人間性、そして謙遜と礼儀の質の母であると考えられるものを)、尊敬される詩人達、彼等自身が、その称えを公正に謡った時に、もし状況が必要とするなら、彼女を悪習、失敗、強欲、そして非情の女主人と呼ぶ事から縮み上がらない時に、貴方は私が虐待していると言いますか?

E. これは確かに、その徳によって対象/矛盾は原則と現実の両方において偶発すると言う貴方の主張である貴方の哲学の前提に沿っています。故に、崇高で、価値があり、そして気前のよい実業に最も相応しいマインドは、もしそれらが卑猥/下劣化されると、極限の悪習へと落ちます。加えて、私達は一般的に最も珍しく最上級の理知/知恵を、最も愚かで無知な人々の中で見つけ、そして人々が一般的に最も不作法で礼儀に欠ける処で、私達は、ある個人的な件において、極限の礼儀正しさとマナーの良さを見つけ - ですから、一つの方法またはもう一つの方法で、多くの国々は同量の完璧さと不完全さを受け取った様です。

F. 貴方の言う事は本当です。

そしてですが、テオフィロ(フィロテオ)よ、多くの者達同様に私が悩まされるのは、私達の友好的な国において、貴方をとてもうんざりさせたので、貴方がすすけた夕食(i.e.灰の水曜日の夕食)の方法で貴方が貴方の不平をぶちまけた人々に対して貴方が衝突した事で、私達の国(もしそれ/その国が貴方の同郷の者達によってpenitus toto divisus ab orbe[世界全体から全く切り離されている]と表現したとしても)がどれだけ全ての文学、武器、騎士道、人間性、そして礼儀作法を有するかを貴方に見せたであろうもっと多くの人々に出会わなかった事です。私達はこれらの領域において、私達の先祖達に劣らない様に私達の強さの全てを持って試み - 特に彼等自身が自然的/当然崇高な作法、科学、武器、そして礼儀正しさに恵まれたと信じる者達のその他の国々に劣らない事を心がけます。

F. 私の信念をもって、アルメッソよ、私は貴方が言う事、言葉、理由づけ、道義心に反対する事も出来ませんし、しません。貴方は何らかの野蛮な誇りから私を攻撃するのではなく、むしろ貴方の目的を極度な謙虚さと鋭い論点で防衛します。故に私は、私達が語ってきた個人達が、私に貴方やその他の高潔で人間味のある気質の人達を傷つける機会を私に与えた事実をより更に遺憾に思います。私はこれらの対話が全く出版されなかった事を申しわけなく思い始め、そして、もしそれが貴方を喜ばせるなら、私はそれらが出来る限り流通されないように努力しようと試みましょう。

A. 私の痛みは、その他のとても崇高な魂の者達同様に、これ等の対話の出版に起因するものでは殆ど無いので、私は、私達の中の極少数の教養と作法に欠ける者達へのレッスンとしての役割を果たすように、それらをよろこんで私達の言語に翻訳するでしょう。恐らく、どの様な神経において彼等の生意気な攻撃が受け取られたのか、そしてどれだけそれらが相応しくないのか、そしてどんな特色においてそれらが描写されたのかを理解すれば、もし彼等が方針を変え、最良で最も聡明な人達の例に続く事を選択したとして、彼等は少なくとも彼等の道/方法を改め、その数/集団の一部として同一視される事の恥ずかしさから(その例を)真似るかも知れません。彼等は誇りと勇気は、虐待する能力と芸術/技術によって造られるのではなく、その真逆の振舞いからだと学ぶかも知れません。

E.貴方は貴方の祖国の防衛/擁護において多大な能力と鋭さを見せ、そして論議と英知に乏しい者達の集まりとは対照的に、貴方は他者達のメリット(徳)を認識し評価する仕方を知っています。ですが私から見るとフィロテオは、彼自身を擁護し、彼の評判を守る事において上手ではない様です。高貴さと素朴さが異なる様に、丁度、彼等/それらから、対照的/対峙する効果は予測され恐れられます。一方で、スキタイ族(国外の野蛮人)の馬鹿が、もしドナウ川の土手を離れ、(ローマに)出て来て、大胆な非難と正当な不平をもって、ローマ元老院の権威と崇高さを試し、それがもし、彼の非難とののしりの機会において、高い賢明さと寛大さの行動を達成し、その厳しい批評の膨大な規模の敬意を得れば、(野蛮人の馬鹿でも)賢明に見え、彼の成功のために称えられるでしょう。もう一方で、ローマの議員で紳士である者が、(ローマの)テベル川の穏やかな土手を見放し、とても希少な英知を証明すると、正当な不平と完全に正当化された非難で武装されていたとしても、出て行ってスキタイの馬鹿に挑戦すると、人間(スキタイ)と単に彼等のイメージと容姿に似せて造られた者(非人)との間の違いを他の国々に証明するために、その機会を掌握し、最も低俗で、傲慢で、そして破廉恥な論議のバビルの塔を彼の費用で築き、人気のある激怒を解放し、彼(ローマの議員)を投石の刑に処すでしょう。

A. 私、または私自身よりも優れた判断を持つ者が、テオフィロよ、彼等が私達の祖国の者達であると言う前提から、何らかの自然的な法則が私達に擁護させ、貴方の風刺の対象である者達の目的を私達が取り上げると言う事は、決して実現させないでおきましょう。これらの人々が同国の者達とは、私は決して認めませんし、私はそう主張する者達の敵以外の何者にも成る事が出来ません。私達の祖国は、その他のどんな場所の者達同様に、高貴で、礼儀正しく、謙虚で、教養があり、自己管理でき、人間味があり、そして理性的な人々によって構成されています。例えもし、その様な人々(野蛮人)が私達の国境内にいたとしても、彼等は確実に汚れ、悪党、泥、そして豚以上のものではなく、船底が船の一部であるという感覚においてのみ、その王国、または街の一部です。私達は故に、その様な個人達とはあまり関わるべきでなく、何故ならそうする事によって、私達は彼等同様に有害に成るかも知れないからです。彼等の階級の中に私は、多くの神官達と、彼等の博士号の御蔭で確かに紳士の仲間入りをした、医者/博士達の幾らかを含みます。ですが彼等の殆どは、元々は彼等の下品な権威を見せようとはしませんでしたが、後に文学的な人達(学識者)と神官の称号まで上り詰めると、公に大胆で傲慢に成り、より厚かましく無遠慮に成りました。ですから、彼等の神官階級(官僚)と彼等の博士号(御用学者)にも拘らず、実際の農夫達、山羊の群れ、そして羊毛刈りよりも、より多くの(シープルの)群れ(herd)、(洗脳された愚民の)群れ(flock)、そして(ゴイムの)家畜小屋を保つ者達の大群を、貴方が見るのは驚きではありません。故に、私は貴方が私達の大学を、それが元々何であったか、そしてそれが未来において何に成れるか、そしてそれが今日部分的に何であるかに言及せず、その全体として、とても厳しく攻撃しなかった方が善かったと思います。

F. 心配しないでください。今回は、主に貴方の大学を私達は見ました/思考しましたが、そのメンバー/仲間内が、彼等の学術はより優れていると考えるが、大部分において、王冠を被ったロバ達(王族)と、博士の称号の下で指輪に飾られたヘボ(御用学者)を産出するだけの、その他のものより悪い過ちは犯しません。しかしながら、私は貴方の大学の元々の形/あり方は反論しませんし、その教育/研究のプログラム/方針の美しさも、その祝い/祝賀行事の雄大さも、その働きの詳細な組織化も、その伝統の厳粛さも反論しませんし、その他の大学を崇敬し装飾する役割を果たすその他の質を言うまでも無く、そのためにそれは疑う余地無くヨーロッパ随一であり、故に世界で随一です。そして私が否定する事が出来ないのは、スピリット(霊)の素晴らしさ/繊細さと知力の鋭さ、があちらこちらで自然と産出する両方に関しては、貴方の大学はその他の場の学校と本当に類似する、そして匹敵するでしょう。推理/仮定的学術が、ヨーロッパのその他の場所に広まる以前に、此処(ローマ/ルネッサンス)で繁栄した事も、形而上学の王子達(代表的識者達)が(言葉/言語は野蛮で職業によって頭巾を被らされていますが/i.e.神官)、私達の日々/時代において殆ど絶滅してしまいそうな、哲学の最も希少で崇高な部分の素晴らしさを、非野蛮な国々の全ての大学に浸透させた事も、私達は忘れてはいません。ですがある一つの、同時に苛立たしく可笑しい事が私を心配させます。私は医者/博士達が此処の者達より、よりローマ的でよりアテネ(ギリシャ)的だと見つけません/思いませんが、彼等は彼等が彼等の先輩達の正反対であり、全てにおいて全く似ていないと大声で言い - 雄弁さや文法的正確さはあまり気にせず、推理/仮定的研究に彼等自身を没頭させた諸先輩方を、現在の博士達は「こじ付け家」と呼びます。私自身に関しては、私はこれらの後者の形而上学(哲学)をより讃え - それ(前者)が哲学的でも神学的でも無い特定の空論と論説で不純にされ汚されたもので、堕落した、または粗悪に使われた知性の産物である事は言うまでも無く - 彼等(前者)の雄弁さとチチェロ的演説的技術の全てを持って、その他の者達が今日、私達にもたらせられるものより、それにおいて彼等(後者)は、彼等の師匠、アリストテレスを超えました。

A. これらの技術/芸術は過小評価されるべきではありません。

F. そうですが、もし私達がその2つの間のどちらかを選択しなければならないなら、(前者の)雄弁な言葉とフレーズ(御用学者/東大話法)よりも、それがどれだけ乱暴であろうとも、(後者の)マインドの文化(ギリシャ哲学)を私は選択します。

E. 貴方のコメントは、ヴェンチュラ師を頭に思い浮かばせます。福音書の一文、「reddite quae sunt Caearis Caesari」[シーザー/カエザルのもの/年貢はシーザーへ]にコメントする際に、私達に彼の研究の広さと彼の記憶力を見せるために、その際に彼は当時のローマ人達の間で流通していた全てのコインの名を、刻印と重さも含めて挙げましたが - それらの名前は120以上の文献から彼が見つけたものですが、どんな史料や古い記録なのかを知りません。彼の説教の終わりに、ある善良な男性が彼に近寄ってこう言いました、「神父様、私に1カーリン貸して下さい。」それに彼は、彼がメンディカンツ(托鉢修道士/物乞い修道士)のオーダー(秩序/組織)に属すると答えました。

A. この話の要点は何ですか?

E. 私が意味するのは、名前とフレーズの科学に詳しい者達は、ロバ達(愚民)の神父様と同じロバに乗る物事を気には懸けないと言う事です。

A. 私が思うに、彼等が彼等の諸先輩方より優れ、彼等の同年代の者達によって追い越されない、雄弁さ(東大話法)の研究とは別に、彼等は哲学においても、その他の推論的科目においても、貧窮者ではありません。これらの能力無しで、彼等が何らかの位/階級に昇進させられる事は出来ず、何故なら彼等が誓いによって縛られた大学の校則は、「Nullus ad philosophiae et Theologiae magisterium et doctoratum promoveatur, nisi epotaverit e fonte Aristotelis」[アリストテレスの泉から飲んでいない者は、哲学と神学の修士号と博士号の称号へと昇進されない]とするからです。

E. あ~、ですが私は、彼等が彼等自身に擬誓(ぎせい)させる事を避けるためにした事を貴方に伝えましょう。その大学にある3つの泉の1つに彼等はFons Aristotelis[アリストテレスの泉]の名前を与え、彼等はもう一つをFons Pythagorae[ピタゴラスの泉]と呼び、そして3つ目をFons Platonis[プラトンの泉]と名付けました。ビールや酒を造る水も、馬や牛に与える水も、これらの3つの泉から引かれるので、当然、これらの研究室やカレッジで3、4日過ごした者が、アリストテレスの泉はもとより、ピタゴラスとプラトンの泉からも飲まないはずはありません。

A. 不幸にも実に本当です。そうであるから、テオフィロ(フィロテオ)よ、彼等は造られ(称号を与えられ)、トラブルにも成らず問題にもされないので、博士達はイワシ同様に安価で現れます。今日の博士達の群れがその様であるから(彼等の雄弁さ、彼等の教義、そして彼等の高い礼儀作法のために、同様に尊敬されるトバイアス・マヒュー、カルペッパー、そして私が名前を忘れてしまったその他の者達の様な、彼等の中の幾らかの評判は別として)、その結果、博士の称号は、人に高貴さの補助的学位を与えるどころか、(もし人が個人的に知られていないなら)人を、全く真逆の本質と特徴を持つと言う疑いの下にさらします。故に、生まれまたは偶然によって高貴な人達でさえ、そして学習である高貴さの主要な部分によって豊にされた者でさえ、博士の称号へ昇進させられる事を恥じて、単に識者に成る事で彼等自身を満足させます。貴方はこれらを、大学で学者ぶる者達の中よりもむしろ、宮廷/法廷においてこれらのより多くを見つけるでしょう。

F. 貴方はその両方の種(賢者と学者ぶる御用学者)を、博士達と神官(官僚)達のいるあちらこちらで見つけるので、アルメッソよ、文句は言いなさらないでください。真の博士や、真の神官は、もしその生まれが貧しい者であったとしても、礼儀作法と高貴さにおいてのみ昇進/進歩出来るのは、何故なら、知識が人間の魂を英雄的にさせる最も功利的な方法だからです。巨人、サルモネウスの如く、これらのその他の者達が高い処からdivum pater[神聖な父]の雷を落とせば落とす程、彼等はより鮮明に彼等の品の無さを明かし、彼等の行政権威的座の高みから、物凄く恐ろしい帝国的な壮大さをもって、どの語尾変化にhic[”これ”の男性形]、haec[”これ”の女性系]、はたまたhoc nihil[”これ”の無形]が属するかを決定した後、紫の衣裳(ヴァチカン)を着たサテュロスかファウヌス(邪神/低級霊)の如く気取って徘徊します。

A. 題材を変えましょう。貴方の手にあるその本は何ですか?

F. ある対話です。

A. あの夕食ですか?(i.e.ブルーノ著の灰の水曜日の夕食

F. いいえ。

A. では何ですか?

F. 原因、原理、そして統一性のテーマが、私達のシステムに沿って扱われるその他のもの/本です。

A. 誰が(対話の)発言者達ですか?もしかして、私達を再びトラブルへとおとしめる、フルーラやプルデンジオの様な小悪魔はいませんか?

F. それらの中の一つを除いては、全てはとても和平的で、正直な題材なので、安心して下さい。

A. では、貴方の言う事から察すると、それでも私達はこれらの対話から幾らかのとげを引き抜かなければならないのですか?

F. 疑う余地無く。ですが貴方は痛い処に針を刺す代わりに、かゆい処を引っ掻くでしょう。

A. その他には?

黄道


F. 此処で貴方は、博学で、正直で、親しみが持て、礼儀正しく、忠実な友、アレクサンダー・ディクソノに、第一の発言者として出会い、その者は討論の題材を提案し、そしてその者をノーランは彼自身の眼の如く愛します。彼は彼の題材をテオフィロ(フィロテオ)に供給する者として紹介されます。それから(私自身である)テオフィロが二番目に登場し、提案されたテーマに関して、分別し、定義を与え、そしてデモンストレーションをもうける事によって利益します。3番目に貴方が持つ/出会うのはゲルヴァシオで、本職は哲学者では無いですが、私達の論議に立会い時を過ごすのが好きな者で、ポリイニッニョがする全てを面白可笑しいと見つける/感じる無邪気な人で、時々、彼の馬鹿さ加減を表現するために、彼に手綱の全てを渡します。後の神聖冒涜的な似非学者は第4の発言者で、哲学者達の厳しい検閲官の一種の内の一人で、モムスである事を主張し、彼の生徒達の群れに情熱的に愛情を抱き、ソクラテス的愛に続く者で、女性の永遠の敵と評判される者です。彼は彼自身を、故に、物理学に関わっていない様に見せるため、ムサエウス、タイティロス、アンフィオンと考えます。彼は、彼等が美しいうぬぼれを一つにまとめた時、チチェロ的(弁護士話法)台所から優雅な使徒書または良いフレーズを作文した時、瞬く間に甦ったデモスセネスで、若返ったトゥリウスで、再び生きるサルスト、または全ての文字、音節、そして単語を造るアルガスであると考える者達の内の一人です。彼はumbras vocat ille silentum[沈黙の影を呼ぶ]ラーダマンサス、またはurnam movet[骨壺を揺さぶる]クレタ(島/文明)の王ミノスです。彼は全ての言葉/単語を試す者達の内の一人で、全てのフレーズの周りに論議をかもしだし、これらは詩的で、これらはコミック的音で、これらは口語的で、これは素敵/甘く、あれは崇高で、このもう一つのものはhumile dicendi genus[控えめな演説的ジャンル]で、この説教は厳しく、もしこのように作文されればもっと軽く、あれやこれの著者は雄弁では無く、彼は古典をあまり読んでは無く、non redolet Arpinatum, desipit Latium[彼はアルピナムの香りがせず、ラテン語の知識に欠ける]と言う者です。この言葉はタスカン(地方)のものでは無く、バッカチオも、ペトラークも、その他の評価された著者達の誰も使いません(と言う者です)。人は「homo」では無く「omo」と書き、「Polihimnio」の代わりに「Poliinnio」と書くべきです(と言います)。この種の物事は、彼を勝利感、自己満足で満たし、彼がするのが何であれ、最も高い快楽で満たします。彼は彼自身がジョヴ(木星/神)であると感じ、彼の高座から見下ろし、とても多くの失敗、不幸、苦渋、そして無駄な努力の対象となるその他の者達の生活/人生を考えます。彼が彼の神格性を、Spicilegium, Dictionarium, Calepino, lexicon,Cornucopiae, Nizzolioの鏡の中で考える時、彼唯一人が幸せで、彼唯一が天界的人生を送ります。その様な自己充足性を授けられ、彼唯一が全てで、その間、私たちそれぞれは孤独/一人です。もし彼が笑ったとしたら、彼は彼自身をデモクリタスと呼び、もし彼が泣いたとしたら、彼は彼自身をヘラクリタスと呼び、もし彼が理論的なら、彼の名はアリストテレスで、もし彼がキメラを造るなら、彼はプラトンに成り、もし彼が何らかのつまらない演説をすれば、彼はデモスセネスで、もし彼がヴァ―ジルを解説すれば、彼はマロです。ですから彼はアキレスを訂正し、アエネアスを賞賛し、ヘクターを非難し、ピルラスに対して驚愕し、プリアムをしのび、トゥルヌスをとがめ、ディドを許し、アチャテスを絶賛し、そして最後に、verbum verbo reddit[彼は一語一語翻訳する]間、彼の野蛮な類義語を繋げ、nihil divinum a se alienum putat[彼に異質な神聖なものは何もないと主張]します。彼はすると、あたかも彼が天界に秩序をもたらしたかのように、世界を再編成したかのように、元老院を組織し軍を平定したかのように、えらそうに彼の椅子から降ります。もし時代の不公平ささえなければ、彼は思考において達成したものを、彼は実現へと変えれただろうと、彼は確かに思います。O tempora, o mores![おお、時代よ、おお、マナーよ!]分詞、副詞、そして接続詞の本質を理解する者はどれだけ希少なのだろう!副詞を名詞に同意させ、比較が形容詞と一緒に繋がり、そしてそれを一行の始めまたは終わりに置く文法と、そして人がこれらの感嘆詞、dolentisgaudentis[痛みと喜び]を入れなければならない頻度と順番と、それ無しでは文章全体が全く味気なくなる、「heu」、「oh」、「ahi」、「hem」、「ohe」、そしてその他の調味料の、理由と本当の原因を発見する事無しで、どれだけの時間が流れたのでしょう!

E. 貴方は好きな事を何でも言い、望む事を考える事が出来ますが、この人生において幸せに成るには、人は自分がコロエセウスであり貧乏であると想像するよりむしろ、自分が貧乏でありコロエセウスであると想像した方がいいと思います。貴方が美しいと思い貴方を満足させる娼婦を持つ方が、貴方を退屈させ結果的に貴方が見捨てるレダやヘレンを持つより、より至福が伝播的ではないでしょうか?彼等が無知で、そして下劣な態度に占領されている(洗脳されている)かどうか、彼等の幸せが、彼等自身の自尊心に直結/直接比例している時に、これ等の人々にとって、何の問題があるでしょうか?丁度、貴方が白いパンとウズラ肉が好きな様に、ロバは新鮮な青草が好きで馬は大麦が好きで、ジュピター(木星神/ピーター)が蜜とアンブロシアがあれば幸せな様に、豚はどんぐりと残飯があれば幸せです。貴方は、もしかして、治癒(改革/覚醒)のお返しに、彼等が来て貴方の頭をかち割ると言うのに、彼等の性に合う愚行の迷いを解きたいのですか?私は何が愚行で、幻想で、または何がその治癒なのかは横に置いときましょう。あるピロニー派の人が昔、「私達の状態が死ではないかどうか、そして主張された死は生ではないか、誰が知るでしょう?」と言いました。もし真の幸せと真の至福が、フレーズの一部を繋げる事と切り離す事によって構成されていないと誰が知るでしょう?

A. この世界はそういうものですから、私達は似非学者と文法家を犠牲にしてデモクリタスを演じ、そして勤勉な廷臣(ていしん/宮廷につかえる人=識者)は私達を犠牲にしてデモクリタスを演じ、その間に無思考の僧侶と神官達(i.e.官僚達)が全ての者達を犠牲にして民主化(官僚支配)を進めます。似非学者は、多かれ少なかれ、私達を馬鹿にし、私達は廷臣に冷笑し、そして全ての者達が僧侶/修道僧を嘲笑います。その結果は、人はもう一人の者の眼にとって馬鹿なので、私達全員が馬鹿で、種によって異なりますが、in genere et numero et casu[彼等/それらの種、数、そして個別ケースにおいては]調和しています。

丁度その様に、非難は、方法、種類、そして度合において異なります。ですが私達は、私達の敵似非学者の最も粗雑で、厳しく、物凄く、そして恐ろしい非難に、私達のひざを折り、私達の頭を垂れなければなりません。私達が私達の眼差しを向け、溜息をつきながら、呼び求め、泣きながら慈悲を乞い、私達の手を上げなければならないのは、彼等に向けてです。故に、私が身を向けるのは貴方で、物議を解決するために、マーキュリー(水星神/ヘルメス)の杖をその手に持つ貴方で、人々と神々の間に昇る違いを解決する貴方です。貴方、メニッポスは、月の球体の貴方の座の上から、高い処から細めた眼で私達を見下ろし、反感と軽蔑を共に私達の行動を記録します。貴方、パラスの盾を持つ者に、ミネルヴァの軍旗を持つ者に、マーキュリーの執事に、貴方、ジュピターの守衛に、アポロ(太陽神)の義兄弟に、エピメテウスの共盗賊(co-thieves)に、バッカスの瓶を詰める者に、ユーハンの叫ぶ者の馬飼いに、貴方、エドニデスを鞭打つ者に、タイアデスを鞭打つ者に、マエナデスを興奮させる者に、バッサリデスを魅了する者に、ミマロニデスの馬乗りに、イガーリアンのニンフと交尾する者に、熱狂心を節度する者に、放浪する人々のデマゴーグ(扇動者)に、デモゴーゴンの解読者に、変動する教義のディオスキュレスに、パンタモーフェスの出納官と高神官アーロンの宦官に、貴方に私達の散文を推薦し、私達の女神達を提出し、私達の前提、包摂(ほうせつ)、脱線、挿入語句、応用、節、句読点、構成、副詞、そして形容詞を提出します。おお貴方は、貴方の甘く小さな気品で私達のスピリット(霊)をうっとりさせる砂糖水売りで、私達の心強く結び、私達のマインドを魅惑し、私達の売女された魂を雌狼に届け、貴方は、私達の野蛮さを貴方の賢明な判断に提出し、私達の文法違反/不作法を貴方の矢で貫き、私達の悪臭ある隔たりに筋金を入れ、私達のSilenesを去勢し、私達のノアを砲尾へと打ち付け、私達のマクロ的論説を骨抜きにし、私達の点々を線で繫ぎ、私達の類義語重複を制御し、私達の間違った言葉遣いを宥め、私達のescrologiesを許し、長い駄文を許し、私達の不調和音を許します。私は、再び、貴方の全てを呼び起こし、一般的な貴方と特定的な貴方の全てを呼び起こし、ポリイーニョよ、最も高貴な女性の性別に対して貴方が感じる、その雷の如き激怒と犯罪的な憎しみを抑え、この世が有する美の全てを、無数の眼で天界が熟考する全てを破壊しないように。引いて、貴方自身を一緒/一つに引き、そして貴方の知力を回復し、それによって貴方は、貴方の敵意が、公言された狂気と逆上的情熱以外のなにものでも無い事に気付くでしょう。光を見ない人よりも良識が無く愚かな者はいるでしょうか?性別に関して、貴方の種(女性)から学び(以下の様に)宣言した、野蛮な王、サルザの様に、自然彼女自体の敵に成るよりも、より悲惨な狂気はあり得るでしょうか:

自然が何も完璧に造る事が出来ないのは、彼女自体が女性だからです。


F. 何とか真実を考え、善悪の知識の樹に貴方の眼差しを上げ、一つのものとその他のものの間に存在する矛盾と対立に気付き、男性達が何であるか、女性達が何であるかを見定めて下さい。貴方は、一方で、体を、男性性を貴方の友とし、そして魂を、女性性を、貴方の敵とします。一方で、貴方は男性性である混沌を持ち、そしてもう一方で、女性性である組織性を持ちます。こちらにおいて、眠りは、男性性で、あちらにおいて、目覚めは女性性です。一方では、忘れであり、そしてもう一方では、記憶です。こちらでは、憎しみですが、あちらでは、友情で、こちら側では、恐れで、あちら側では、沈着で、一方では、厳格さですが、もう一方では、親切さで、こっちでは、怒りで、あっちでは、平静です。一方で、過ちで、もう一方で、真実で、ここでは、非完璧性で、あそこでは、完璧性で、此処が、地獄なら、あそこは幸せでこちら側で似非学者、ポリイーニョ(男性形)なら、あちら側では女神、ポリイーニャ(女性形)です。簡単に言うと、悪習、非完璧性、そして犯罪の全ては男性性で、徳、メリット、そして善の全ては女性性です。故に、賢明さ、正義、強さ、気質、美、崇高さと気品は、文法的な性別と私達の想像力の両方、と同時に私達の描写と絵において、全ては女性性です。ですが貴方の論議にとても適切な、文法と専門語の理論的な理由づけは横に置いといて、そして何が本質/自然的で、本物で、そして実用的かを言うには、たった一つの例だけで貴方の舌を縛り、貴方の口を黙らせ、貴方の口と貴方の多くの群れ/手下の口を黙らせるでしょう。何処で貴方は、イングランドの統治者である、この天体的エリザベス(一世)を超える、または匹敵する男を見つけられるのですかと誰かが尋ねた事を想像してみて下さい。彼女は天界によってとても高く授けられ、昇進させられ、ひいきされ、守護され、そして支持されているので、彼女を貶めようとする物理的、または話術的努力の両方は無駄です。その王国の中の貴族の中に(彼女ほど)相応しく英雄的なものは無く、ガウンを着る者の中に(彼女ほど)才能に恵まれたものは無く、または(宮廷の)助言者達の中にあれほど賢明な者はありません。肉体的美、日常語と学ばれた言語(外国語)の知識、芸術と科学の理解、統治における先見性、とても偉大で長期に渡る権威の素晴らしさと、その他の自然的、公民的徳において、彼女と比べられると、ソフォニスバスも、ファウスティナも、セミラミスも、ディドスも、クレオパトラも、イタリア、ギリシャ、エジプト、そしてヨーロッパとアジアの他の場所の存在した全ての女王達は、ささいなものです。現在の時代が正直な驚きで大事にする、彼女の結果と彼女の成功は、これを証言しています。ヨーロッパの背中を渡って、怒気を含んだテベル川、脅かすポー川、乱暴なライン川、血塗られたセーヌ川、混乱して濁ったガローン川、荒れたエブロ川、激怒したタグス川、騒々しいミューズ川、そして沈黙しないドナウ川が流れる間、彼女は、彼女の素晴らしい先見性と共に、5つのラストレス(50年?)以上も、大いなる大海をなだめる事ができ(i.e.英国海洋帝国)、それは、その一貫した満ち引きにおいて、その緑に覆われた土手の間を、抑制されず、恐れを知らず、陽気に、そして自信に溢れ、曲がりくねって流れる愛されしテムズ川を、落ち着いてそして喜んでその胸に抱きます。ですからまた、始めから繰り返すと・・・

A. 其処で止めて下さい、フィロテオよ、お静かに。私達の海に水を加え、私達の太陽に光を加える様な無茶を貴方自身でしないでください。これらの(此処に)いないポリイーニョ達(似非学者)に対する貴方の論証において(より悪いものを言うまでも無く)貴方自身をそんなに抽象的に見せるのは止めて下さい。代わりに、私達が今日、私達の時間を無駄にしない様に、貴方が此処に持つ対話から私達に幾つかの例を与えて下さい。

F. これらを(手に)取って読んで下さい。

最初の対話の終了


第二の対話

発言者:D=ディクソノ・アレリオ、T=テオフィロ、G=ゲルヴァシオ、P=ポリイーニョ

33ページより:

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D. どうか、ポリイーニョ先生、そして貴方、ゲルヴァシオよ、私達の論議を中断させ続けないで下さい。

P. フィアット[同意]。

G. 確かに、もしマギステル[マスター/先生](magi-ster/賢者+星)が語るなら、私は沈黙のままではいられません。

D. 貴方は、テオフィロよ、最初の原則でも最初の原因でも無い全ては、一つの原則と原因を持つと言いますか?

T. 疑い、または反論の余地無く。

D. では、貴方は、原因されそして原則された物事を知る人は、原因と原則を知っていると信じますか?

T. 原因と原則に関して近似する/近づくのは簡単ではなく、足跡/手掛かりを辿る方法でさえ、最初の原因と最初の原則を扱う際は、極度に困難です。

D. じゃあ、もし、効果的な原因に関してのみ考えると(それは物事の正真正銘の知識に貢献する原因の一つですが)、それらが隠されたままならば、本当に知る事の出来る最初の、そして近似した原因と原則である物事を、貴方はどうやって考えられるのですか?

T. 証明的教義を仮定するのは簡単な事ですが、証明自体は難しいと、私は告白します。教義の原因、モード、そして方法を組織化するのはとても簡単ですが、私達の方法-造りの人達(method-makers)と分析者達が、彼等の道具を応用すると、彼等の方法と技術の芸術(art of arts)は不十分/乏しいです。

G. 良い剣の作り方を知るが、それの使い方を知らない人の様に。

P. ファーム[確かに]。

G. その者は貴方の眼をしっかりと閉じさせ、そして二度と再び貴方がそれを開く事が無い様に保てますか!

T. それは何故、私が、自然哲学者は全ての原因と全ての原則を生産/証明する必要はなく、単に物理/実質的なもの、そしてそれらの中の、原則的で適切/関連したものだけを証明/産出すればよいと言う理由です。故に、最初の原因と最初の原則への彼等の頼りは、彼等をその原因と原則に起因させますが、一つの知識から、私達がその他の知識を推測出来ると言うような必然的関係は無く、そしてそれは何故、単一のシステムの中で、それらが論議される必要性が私達に無いかの理由です。

D. それはどうしてですか?

T. 何故なら、全ての従属的/関連的物事の知識から、全ての物事はその意志または善から派生し、それはその機能の原則で、故に宇宙的/統一的効果は進むと見える/理解すると、あまり効果的では無い痕跡以外、私達は最初の原則、または最初の原因の認識を何も推測出来ないからです。同じ事が芸術的産物にも言え、誰かが像を見る限り作者は見ず、ヘレンの肖像を見る者はアぺレスを見ず、アペレスの才能の素晴らしさから派生する機能の結果だけを見ます。その表し/代理(作品)は、その人の実体の偶然と状況の全くの効果で、彼の完全なる本質については、全然知られていません。

D. じゃあ、宇宙を知ると言う事は、存在/あり方、または最初の原則の実質を何も知らないと言う事で、何故ならそれは偶然の偶然を知っている様な事だからですね。

T. 正解です。ですが私は、神の中に偶然がある、または彼の偶然を通して彼は知られる事が出来ると、私が意味していると、貴方に考えて欲しくはありません。

D. 私は貴方にその様な鈍い知力を帰させませんし、そして神に起因しない全ての物事は偶然であると言うのは一つの事で、そしてそれらは彼の偶然だと言う事は別の事で、そして更にそれはは彼の偶然の様なものと言う事はまた別の事です。この最後のものが、神の機能の効果のためと、貴方が主張しているものだと私は信じ、それらは物事の実質、またはむしろ自然的実質自体ですが、それらはそれにも拘らず、超自然的本質である神の、認知的理解を達成する事を私達に許すには遠すぎる偶然の様なものです。

T. 上手く説明されました。

第二の対話

発言者:D=ディクソノ・アレリオ、T=テオフィロ、G=ゲルヴァシオ、P=ポリイーニョ

35ページより:

D. 神聖な物質/実態について、故に、それが無限であり、私達の推論的知覚能力の限界を構成するこれらの効果から極度に遠いので、プラトン派が言う様に痕跡/面影以外、または逍遥(しょうよう)学派(アリストテレス派)が言う様に遠い効果以外、またはカバラ主義派(ユダヤ派)が言う様に布の方法によって以外、またはタルムード派(ユダヤ。タルムード派)が言う様に背びれ(脊椎)と背中の部分以外、もしくは黙示派が主張する様に鏡、影、そして謎以外、私達は何も知る事が出来ないのかも知れません。

T. ですが更にあります。実質と原則を理解するためにとても難しい宇宙を、私達は完璧に見ない/把握しないので、私達が(芸術家)アペレスが創造する像を通して彼を知るより、その効果を通して最初の原因と原則を知るための土台を持たないのは、私達は(アペレスの)像の全体とその部分部分を検証出来ますが、神聖な力のとても大きすぎ無限の成り行き/結果を検証出来ないからです。その類似性は、すると、比率性を含んでいないと理解されなければなりません。

D. それはそうで、そして私はそう理解します。

T. 故に、私達は、その様な崇高な題材を論議する事を慎んだ方が得策でしょう。

D. 私がそれに同意するのは、何故なら道徳的にも神学的にも、天界的神々が明かし、預言者達がそれを目撃した限りにおいて、それが十分だからです。全ての法と全ての神学のみならず、全ての改善された哲学者達が、私達の知性の領域の上の物事に理性/理由を要求し定義を与える事を急ぐのは激怒の印であり神聖冒涜的スピリット(霊)であると結論します。

T. いいでしょう。ですがこれらの人々は、とても多くの大いなる生き物と超自然的な神々に住まわれた世界であるこれ等の素晴らしい星々と光を放つ天体、私達が私達自身を見つける(地球と)あまり変わらない無数の世界の様な星々を、整頓された熟考の眼で調べる事で、出来る限りその壮大さを理解するために、この原則とこの原因の知識に向かって努力する最も高い評価に値する者達程、責められるべきではありません。彼等にとって、合成的であり融解性である事そして彼等自身がそうである事(ティマエウスの中で表現された様に、彼等が融解に値すると言うわけではありませんが)、彼等が原則と原因を持つのは必須で、そして彼等の存在/あり方、生き方そして行動の仕方の偉大さの成り行き/結果として、彼等の最初の原因と最初の原則の素晴らしさと無限の雄大さを、無限の空間と無数の声で現せさせそして宣言します。貴方が言う様に、その推論を一旦置いとくと、それは全ての感覚と知性を超越するので、自然自体か、または自然の要素と胸の中で輝くもののどちらかの痕跡/面影としてに限って、その原則または原因を私達は見てみましょう。もし貴方が私に整然と答えて欲しいなら、では、同様に私に尋ねて下さい。

T. もし貴方が私に整然と答えて欲しいなら、では、同様に私に尋ねて下さい。

D. そうさせてもらいます。ですがまず最初に、貴方が「原因」と「原則」と言う用語を頻繁に使うので、私は貴方がそれらを同義語と考えれるのかを知りたいです。

T. いいえ。

D. ですが、それでは、それら2つの間には何の違いがあるのですか?

T. 私達が、神は最初の原則であり最初の原因であると言う時、異なった観念を使いながら私達が意味するのは一つで同じものですが、私達が自然における原則と原因を語る時、私達は異なった観念を使って異なったものを語っています。全ての物事は、それらの本質、期間、そしてメリットにおいて、時間的な先立ちと後立ちの揺るぎない秩序に沿って、彼(神)の後に来ると言う点で、私達は神が最初の原則であると言います。効果的な原因からその効果が、そして生産者から生産物が異なる様に、全ての物事は彼から異なると言う点で、私達は神が最初の原因であると語ります。そしてこれらの2つの定義が異なるのは、何故なら、事前でより高い価値の全てが、その後に来るものとそのより低い価値の原因ではないからで、そして何故なら、全ての原因が、それが原因した全てのものより事前でより高い価値では無いからで、その題材を慎重に熟考した者が誰であれ鮮明です。

D. であるなら、教えて下さい、自然の物事の関して言う限り、原因と原則の間には何の違いがあるのですか?

T. それらの用語は時々交換して使われますが、そうであっても、正しく語ると、原則である全てが必ずしも原因では無いと言う事です。点は線の原則または起源ですが、その原因では無く、瞬間は運動の原則または起源デ[ですが運動の原因ではありません]、出発点は運動の原則ですが、運動の原因では無く、前提は論議の原則ですが、その原因ではありません。「原則」は、故に、「原因」よりももっと一般的/広義な用語です。

D. すると、特定的な正しい意味合いの中にこれらの2つの定義/用語を狭めて、彼等自身を最も正しく表現する者達の手順を観測すると、私が思うに貴方は「原則」を、物事の構成に本質的に貢献するもので、彼等が言う様に、物質(matter)と形状(form)の効果に残る/のままであるものとして、それは合成の中に残り、またはそうでないなら、一つのものが構成されそして一つのものが溶解される要素とします。貴方が「原因」と呼ぶものは、外側から物事の産出に貢献するもので、そして効果的な原因同様に、その合成の外側に存在するもので、そして最終的に産出されたものが方向づけられるものです。

T. ベリーグッドです。

D. 私達がこれらの物事の間の違いについての問いに答えた処で、私は貴方に、まず最初に原因、そしてそれから原則へと、貴方の注意を向けて頂きたいです。原因に関して、私はまず最初の効果的な原因について知りたく、次に貴方が効果に連係されていると言う形式/形状的(原因)を知りたく、そして最後に、効果的な原因の推進力として理解される最終的原因を知りたいです。

T. 貴方の提案の順番/秩序は私をとても嬉しくさせます。効果的な原因について、宇宙的で物理的な効果的原因は宇宙的知性で、それは宇宙-魂(world-soul)の最初で原則的な能力で、それは、順を追って、それの宇宙的形状であると私は言いましょう。

D. 貴方は、私から見ると、エンペドクルスの意見に同意しているだけでなく、もっとより確かで、正確で、はっきりしていて、そして更に、私が貴方の明言から見る限りより深遠なようです。故に、もし貴方が、この宇宙的知性が何であるかを、より細かく詳細に私に説明してくれれば、私は有難く思います。

T. 宇宙的知性とは、世界-魂(world-soul)の、最も内側で、最も本物で、そして最も正しい能力、または効能の部分です。それは全てを満たすものと同一で同じで、宇宙を照らし、そして自然が彼女の様々な(生き物の)種を適合的に産出する様に方向づけるものです(i.e.宇宙の法則)。私達の知性が、物事の表しの産出である様に、それは自然の物事の産出です。ピタゴラス派はそれを「動かすもの/推進力」と「宇宙のアジテーター(扇動者)」と呼びます。ある詩人が表現した様に:

totamque infusa artus,
mens agitat molem, et toto se corpore miscet.

[その器官に浸透し、マインドは質量全体をかき回し、そして
その体全体と同調します]

プラトン派はそれを「世界の考案/製作者」と呼びます。彼等が信じるのは、それがより高度な世界(天界)から続行し、それは実にこの知覚出来る世界(現世)と同一で、それは数多くに分離され、そしてその各部分の分離のために、調和と不調和の両方が統治すると言う事です。この知性は、それ自身の何かを物質の中へ吹き込み染み込ませる間、それ自体は不動で、そして平静で、全ての物事を産出します。ヘルメス派は、それが「種の中で最も創造力豊か」もしくは更に「種をまくもの」と言い、何故ならそれは物質を全ての形状をもってはらませるからで、それは、それらの本質と存在のあり方/方法に沿って、とても注目すべきで無数な方法で物質を形作り、形状させそして編み込む事に成功するので、それらは偶然に起因させる事も出来ず、分別と配列(アレンジ)が出来ないその他の原則にも起因させる事が出来ません。オルフェウスはそれを「世界の眼」と呼びますが、何故ならそれが、内因的と同時に外因的に、それらの正しい比率において、それらがそれら自体を産出し保つために、全ての自然の物事の内側と外側の両方を見るからです。エンペドクルスはそれを「分別するもの」と呼び、自然の胸の中で混乱させられた形状を分別する事、そして一つの世代/派生からもう一つの腐敗をまとめる/召集する事から決して疲れないからです。プロティヌスがそれを「(聖)父であり先祖/元祖」と言うのは、何故ならそれが自然の畑において種をまき、それが形状の最も近い分配者/調剤者だからです。私達にとって、私達がそれを「内的な考案/製作者」と呼ぶのは、何故ならそれが物質を形作るからで、芽吹き幹を伸ばす種や根の様に内側からそれを形状し、その幹の中から大枝を伸ばし、大枝の中から小枝を派生させ、そしてこれらの中から蕾をつけさせるからです。其処から、神経細胞同様に、葉、花、そして実を形状させ、形作り、そして編み込み、そして特定の時に、葉と実から小枝に、小枝から大枝に、大枝から幹に、幹から根にその樹液を呼び戻すのも内側からです。動物においても同様で、種と心臓の中心から、外側の部分に向かって、その働きを展開する事によって始まり、そしてこれらから逸れは最終的にそれが延長させた能力を、あたかもそれが始めにほどいた糸を巻き戻すかのように、心臓に向かって集め戻します。さて、もし私達が、これ等の働きを産出するためには、知性と理性が必要とするなら - 言うなれば、死んだ働き(dead works)ですが - 一本の木を剥き削った時、私達が馬の形を現させる原因と成る様に、物質の表面を真似る事によって、私達は特定の秩序に沿ってどう形作るかを知っていますが、精液的物質の中から骨を一つに形成し、筋を伸ばし、血管を空洞にし、毛穴に空気を通し、繊維を編みまとめ、神経を枝葉させ、そしてその全体をその様な称えに相応しい神秘にアレンジするのを、どれだけ私達はその芸術的知性が優れているとしなければならないのでしょう?物質の一部にとどまらず、全体において継続的に存在する考案/製作者はどれだけ偉大なのでしょうと私は言いましょう!知性には3種類あり、神聖なもの/神は全てで、現世的なものは、私達がたった今話した事で、そしてもう一つは、特定的なもので、それは全てに成るもので、何故なら、対極の間には中間が必要だからで、そしてこれは真の効果的原因で、全ての自然の物事の、外因的のみならず、また内因的なものです。

D. 私は貴方が、貴方の外因的原因としての効果的原因の観念と、それを内因的原因とする貴方の思想の間(の違い)を分別するのを聞きたいです。

T. 私が原因を外因的と呼ぶのは、効果/効率として、それが構成された物事と産出された物事の一部で無い時で、私達がたった今説明した様に、それが物質の上またはその外側で機能しない限りそれは内因的です。故に、それはその存在/あり方によって外因的で、それはその効果の実体と本質から異なっていて、そしてその存在/あり方は派生と腐敗に左右される物事に似てもいないので、それはこれらの物事の中で機能するけれども、その機能の運動に関して、原因は外因的です。

D. 効果的原因について、貴方は十分に語ったと私は思います。次に、私が理解したいのは、貴方が効果的原因に繋がっていると主張する形状的原因で、それは、恐らく、理想的理由/思想的理性ですか?知性を統制する方法によって機能する全ての媒体は、何らかの意図の方法によってのみ、その効果を産出し、そしてこれは、さんしゅつされたものの形状以外の何ものでもない何かの理解無しでは不可能であるためです。成り行き/結果的に、その知性は、全ての種を産出する能力を有し、そして物質の運動/活動する能力からその様な繊細な(生体の)建築構造を送り出す能力を持ちますが、形状の方法に沿って全てを事前に保有していなければなりませんが、丁度、彫刻家がそれらの異なった形状の事前認識無しで異なった彫刻を造れない様に、それ無しではその媒体は産出を進める事は出来ません。

T. 貴方はそれ全てを素晴らしく理解しています。私が欲するものは、実に、2種類の形状が考慮される事で、一つは、もし効率的でないにしても、効率にその効果を産出する事を許す原因で、もう一つは原則で、効果的原因によって物質から呼び出されます。

D. その目的は、その効率によって求められる最終原因は、宇宙の完璧性で、それは実際の物質的存在を持つ全ての形状で構成され、その知性はこの目的を追い求める事に喜びと楽しみを味わい、エンペドクルス自身が主張する様に、それが物質から全ての種の形状を呼び出す事に決して疲れる事はありません。

T. とても正しいと思うし、そして私が加えたいのは、丁度、この効率が宇宙において統一的である様に、宇宙の一部と箇所において特定的で独特で、その形状とその目的もまたそうですと言う事です。

D. ですが原因に関しては十分です。私達は原則へと進みましょう。

T. 物事の構成的原則に行きつくために、私はまず形状を論議し、何故なら、ある意味それは私達がたった今定義した効果的原因と同一だからで、実際に私達は、世界-魂(world-soul)の効能である知性が、自然の物事の全ての直接の効果的原因と言いました。

D. ですが、同じ題材/対象がどうやって自然の物事の原則と原因に成れるのですか?それはどうして外因的部分では無く、内因的部分を持つ事が出来るのですか?

T. それは矛盾では無く、もし私達が操縦士が船の中にいる様に、魂が体の中にあると考えるなら、操縦士は船の一部なので、彼はそれと共に動きますが、彼がそれを統治し動かすと考えるなら、彼はその一部に含まれるべきでは無く、別個の効果的原因とされるべきです。同様に、宇宙の魂は、それがそれを動かしそれが活気を与える/知らせる事に限って、それは宇宙の内因的で形状的な部分として見られますが、それが宇宙を方向付け統治する事に限って、それは一部では無く、原則の特徴では無く原因の特徴を持ちます。アリストテレスは操縦士と船と同様の関係を魂と体が持つ事を否定しますが、その知る力と理解する力を考える時、彼はそれ程遠くへは行きませんが、それを体の運動と形状と呼び、それをその存在において物質から別個の効果的原因として見る時、彼自身がこれを私達に認めます。

D. 私が貴方の言う事を認めるのは、何故なら、もし私達の魂の知性的能力が体から分離されて効果的原因の特徴を持っているなら、それは世界-魂においてもっと更に本当であろうからです。プロティヌスがグノーシス派に反対して記述する様に、「世界-魂は、魂が私達の体を統治するより、もっと簡単に宇宙を統治する」のは、それらの統治の仕方に大いに違いがあるからです。前者は世界を足かせをはめられる事無く統治するので、それが操作するものはそれを縛りつけず、それはその他のものを通して、またはその他のものと共に苦しみません。それはそれ自体を障害を持たずより高い物事へと上昇させ、体に生と完璧さを与え、それはそれ自体が非完璧性に汚染される事も無く、そしてそれは何故それが同じ対象と共に永遠に統一されているかの理由です。後者においては、その状態が全く異なっているのは明らかです。さて、もし、貴方の原則によると、より低級な本質に見つけられた完璧さが、より高い度合のより優れた本質に帰属され認識されなければならないなら、疑う余地無く私達が同意しなければならないのは、貴方が確立した分別です。この主張は世界-魂のみだけではなく全ての星にもまた妥当で、(前述の哲学者が主張する様に)それら全ては、神、全ての物事の原則、そして宇宙における秩序の分散を考える力があるからです。彼がこれが記憶、理由付け、または思考の方法によって起こるものでは無いと主張するのは、それら全ての機能は永続的な機能だからで、それらにとって新しい運動は無いまらで、そして、その結果、完璧でないもの、または確実で、前もって決められた秩序に続かないものは無いからで、そしてこの全ては完全に意図された運動が何も無いものです。これがアリストテレス自身が、完璧な著者、または完璧な笛吹きの例で証明するもので、自然は理由づけたり思考したりしないと言う前提で彼が否定する時、人はそれが知性、または最終的な意図無しで機能すると結論出来るのは、偉大な音楽家や著者達は、より才能の無い彼等の同僚達程、彼等のしている事に注意を払わないと言う事で、彼等(より才能の無い者達)はもっと思考するためにより不完璧な働き(記述/演奏)を産出し、そして更に悪い事に、間違い無しでもありません。


T. 貴方は理解しました。ですが今、物事をもう少し詳細に見てみましょう。世界とその各部分が動かされていると理解しない者、または認めない者は、神聖な善と最初の原則のこの偉大な生きている存在と面影から逸らされている様に私には見え、あたかも神が彼のイメージに嫉妬していて、あたかもその建築士/創造主が彼自身の働きを愛せないとする様で - プラトンは彼について、彼は彼自身へのその類似性のために、彼の創造を高く評価し、彼はその中に彼自身の反映を見るとします。そして、実に、神の眼に現される事の出来るもので、この宇宙以上に美しいものがあるでしょうか?そしてその宇宙はその各部分から構成されているので、これらの各部分のどちらが、形状的/正式な原則よりも重要であると私達は考えるべきでしょう?この題材または理論的ものに加える事の出来る千の自然的理由/本質的理性(natural reason)の検証に、私はより良質でより詳細な分析を任せます。

D. 世界とその球体/領域が何らかの方法で動かされていると考えずに、幾らかの(良い)評判を楽しんでいる哲学者は、逍遥学派(アリストテレス派)の中にさえいないので、この点について貴方が貴方自身を努力させる事には私は関心がありません。今の処、私が理解したいのは、貴方の意見において、この形状がどうやって宇宙の物質の中へと、それ自体を紹介した/入れたのかです。

T. それがそれ自体をそれに融合させるのは、何らかの種または形状に構成されない美は無く、そして魂に産出されない形状は無いために、それ自体は美しくない体の本質が、それが出来る限り美の中に参加する様に来るためです。

D. 私は何かとても崇高な事を聞いている様です。貴方は、もしかして、宇宙の形状のみでなく、自然の物事の全てもまた魂であると主張しているのですか?

T. そうです。

D. ですが其処で誰が貴方に同意しますか?

T. では誰がそれを理性的に否定出来ますか?

D. 常識は私達に全ての物事が生きているわけでは無いと伝えます。

T. 殆どの常識(common sense/一般的感覚)は最も本当の感覚(truest sense)ではありません。

D. 最後の点は防衛可能と私は直ぐに信じられます。ですがある事を防衛出来ると言うだけではそれを本当にするには不十分で、私達は証拠を供給しなければなりません。

T. それは難しくはありません。世界は動かされていると言う哲学者達はいませか?

D. 代表的な者達の多くはそう言います。

T. であるなら、それらの同じ哲学者達は何故、世界の各部分が動かされていると宣言しないのでしょう?

D. 彼等は、実に、それを言いますが、世界の真の各部分のものの、原則的各部分にのみで、彼等が魂が世界全体に全体的であり、そしてその各部分のどれのも全体的であると強調する時、彼等が私達が知覚出来る生き物の魂は、それらの体を通して全体的に存在すると考える時と同様に理性的です。

T. そうであるなら、貴方はどれが世界のどの部分が本当ではないと考えるのですか?


T. そうであるなら、貴方はどれが世界のどの部分が本当ではないと考えるのですか?

D. 逍遥学派(アリストテレス派)がそれらを呼ぶ様に、主要的に体では無いものです:貴方が言う様に、生き物全体を構成する水とその他の部分で、月、太陽、そしてその他の(天)体と同様にです。これらの主要な生命体の他に、主に宇宙の一部/部分では無いものがあり、幾らかは植物的魂を持ち、その他は敏感/感情的魂を持ち、更にその他は知性的魂を持つと言われます。

T. ですがもし魂が、全体の中に存在し、またその部分/一部にもあるなら、何故貴方はそれが部分の一部の中にあると認めないのですか?

D. 貴方はそれらの2、3が、正に私達の目の前にあると思わないのですか?全ての命の無い物事がです。

T. そしてどちらの物事が生命を有せず、または少なくとも欠かせない原則を持たないのですか?

D. ですから、手短に言うと、貴方は魂を有せず、欠かせない原則を持たないものは無いと考えるのですか?

T. 正に、その通りです。

P. すると死体は魂を有するのですか?では、私の木靴、私のスリッパ、私のブーツ、私の拍車、同時に私のリング(指輪?馬具?)や長手袋はアニメ―ト(ani-mated)されたもの(動くもの)だとするのですか?私のローブや私のマントはアニメ―トされているのですか?

G. おお、はい、正にそうです、ポリイーニョ様、何故そうでないでしょう?貴方のローブやマントは、それらが貴方の様な動物(ani-mal)を囲んだ時、完全にアニメ―トされたと私は信じます:ブーツと拍車は足を覆う時、アニメ―トされ、帽子は頭を覆う時にそうで、それは魂を奪われたものではなく;馬小屋もまた馬、ロバ、または貴方様を屋根する時にそうです。これは貴方が意味する事では無いですか、テオフィロよ?貴方は私がdominus magister[主要主人]よりも良く理解していると思いませんか?

P. Cuium pecus?[誰の牛だ?]私達はロバがetiam atque etiam[数倍]巧妙/敏感だと思いませんか?このアピーロ人(アピーロ地区)、この初心者め、貴方自身を私の様な大教師、メネルヴァ的学校の学長と比較するとは何と図太い神経をしているのでしょう?

G. Pax vobis, domine magister, servus servorum et scabellum pedum tuorum.[平和が貴方と共に、ご主人様、私は貴方の従者の従者で、貴方の足の足置き台です。]

P. Maledicat deus in secula seculorum.[神が、終わりなき世界の如く、貴方を呪います様に。]

D. 喧嘩せずに:これらの問いを私達に解かせて下さい。

P. Prosequator ergo sua dogmata Theophilus.[ならばテオフィロに彼の理論を説明させ続けなさい。]

T. では、そうしましょう。私が言いたいのは、それでは、テーブルはテーブルとしてアニメ―トされておらず、服は服としてではなく、革は革としてではなく、草は草としてではなく、自然の物事と合成物として、それらはそれらの中に物質と形状(matter and form)を持つと言う事です。全ての物事は、どれだけ小さかろうと微量であろうと、それらの中にそのスピリット(霊)的実体の一部を持ち、それはもしそれが相応しい題材/対象を見つけたなら、それ自体を植物、または動物にさせ、そしてその様な部分または体を受取り、一般的にアニメ―トされたと分類され、全ての物事の中にはスピリットがあるためで、それ自体の中にそれをアニメ―トさせるであろう何らかの部分を含まない小体は全く無いからです。

P. Ergo, quidquid est, animal est.[故に、何であれ、動物です。]

T. 魂を持つものの全てが、アニメ-ト(動くもの)と呼ばれるわけではありません。

D. では、少なくとも、全ての物事は生命を持っていますか?

T. 魂を持つ全ての物事は、実質/実体に関して言えば、アニメ―トされていますが、それらの生命は、実質/実体では無く、外因的で知覚出来る運動と機能を使い、生命をとても厳しく/狭くそして醜く定義する、逍遥学派(アリストテレス派)に認識出来るものではありません。

D. 貴方は、スピリット(霊)または魂、もしくは統一/宇宙的形状は全ての物事の中にあり、全ては全てから産出される事が出来るので、全ての物事は全ての物事の中にあると言う、アナハゴラスの意見を補佐する事が可能な一つの方法を明かします。

T. それは可能なだけでなく、真実で、スピリットは全ての物事の中に見つけられるからで、それは、もしそれらが生きている生き物でなくてもアニメ―トです。もし生命とアニメーション(動)の知覚可能な存在に沿ってで無いなら、原則と、そして生命とアニメーションの特定の主要な運動に沿ってです。私がこれより先には行きませんのは、私はこれより後に多くの石や宝石の性質を吟味したいからで、それらは壊されたり/割られたり、再カット/細工されたり、不均一な粒にされた時に、体においてだけで無く、スピリットを変化させる、または魂の中の愛情と情熱を発生させる徳(性質)を持ちます。そしてこれらの効果は、純粋な物質的特質から来るものでも来る事が出来るものでもありませんが、生命とアニメーションの象徴的原則に帰属させられなければならない事を私達は知っています。その他にも、私達はその同じ現象が枯れた植物と根にも感覚的に働いているのを見て、ユーモア(気性/液)を清め凝縮させ、そしてそれらのスピリッツを変化させる事で、見間違える事の出来ない生命のサインを明かします。死体の骨が、もし生命の実の活動で無いとしても、少なくとも何らかの活性力を保ち、それは並外れた効果を達成するために使われる事が出来ると信じ、理由無しではなく、それら(骨)を使って多くの物事を達成しようと望む、ネクロマンサー(死体交霊者)達は言うまでも無くです。その他の機会は、私に、思考、スピリット、魂、全てに浸透し、全ての中にある生命、そして全ての物質を動かし、その胸を満たし、そしてスピリット的実質は物質的実質によって超えられる事が出来ず、むしろ、それを含むと与えられると、それに支配されるよりむしろ、それを支配する思考、スピリット、魂、そして生命をより詳細に論議する機会を与えるでしょう。


D. これは私には、ピタゴラスの思考に当てはまるだけでなく、そのテーゼを、その詩人がこう明言し彼がこういう時、当てはまる様に観えます:

Principio caelim ac camposque liquentis.
lucentemque globum lunae Titaniaque astra
spiritus intus alit, totamque infusa per artus
mens agitat molem, totoque se corpore miscet;

[最初に、天と地、そして水成の平野/領域(海)、
月とタイタン(巨人)の星(太陽?)の輝く球体、
その中のスピリット(霊)は保たれ、そしてマインドはその各部分に浸透し、
質量全体を振り動かし、そしてその巨大/強力な枠組みと馴染む/溶け込む。]

ですがまた、「スピリットは地球と全ての物事を含むものに浸透し満たす」と言う神学家の思考にも当てはまります。また、もう一人は、恐らく形状と、物質と効能の関係を述べていて、運動(act)と形状(form)が圧倒/支配すると言います。

T. もし、すると、スピリット、魂、生命が全ての物事の中に見つけられ、そして変化する度合で物質を満たすなら、それは全ての物事の真の運動で、真の形状であると確かに推論する事が出来ます。世界-魂(world-soul)は、故に、宇宙とそれが含む全ての形状的/正式な構成的原則です。もし生命が全ての物事の中に見つけられるなら、その魂は必然的に全ての物事の形状で、形状は物質の上の何処にでも宿り、その構成を支配/統治し、その各部分の構成と結合力を決定すると私は言いましょう。それは何故、その様な形状が、物質と同等に永続的に見えるかの理由です。私はこの形状を、全ての物事のためにたった一つである様に考えます。ですが物質の性質と物質的原則の効能/能力によると、運動的と受け身的の両方で、物質の無能力のため、またはその他の特徴のために、それは異なった輪郭/形状を造り出し、異なった能力を持ち、時には非知覚的生命を造り出し、時には知覚的ではあるが知性的では無い生命を造り出し、時には生命の全ての外的なサインを隠蔽する、または抑制するものを造り出します。故に、場所と状態を変えても、この形状が無効にされないのは、何故ならスピリット的実体が、物質に劣り本物では無いものでは無いからです。ですから、それらは物事ではなく、物事のものなので、そしてそれらは実質/実態では無く、実質/実態の偶発で特質なので、外的な形状のみが変化させられ、そして無効化さえもさせられます。

P. Non entia sed entium.[実体/存在では無く、実体/存在のもの。]

D. 確かに、もし実体の何かが無効化されれば、この世界は空っぽに成ってしまいます。

T. 故に、私達は内因的な形状的原則を有し、永遠的で、内在的で、物事の実質/実体を無視し、偶発だけのものを扱い、彼等が本質的、基本的、そして原則的実質/実体と呼ぶものは、合成から結果するもので、それ自体の中に安定性も真実も含まず、そして無へと減少される偶然でしかないと言う事実から、腐敗出来る実質/実体へと辿り着く、詭弁家(ソフィスト)達によって想像されたものより、比べものにならない程優れています。真の人とは、合成の結果で、そして真の魂は、完璧性と生きている体の運動以上のものでは無く、その構成と部分における特定の釣り合いの結果でさえも無いと彼等は言います。故に、彼等は存在/あり方の消失が差し迫ったものであると信じるので、死と溶解について多くを語りとても恐れているのは、驚きではありません。自然はその様な狂気に対して叫び上げ、体も魂も死を恐れる必要は無いと私達に自信を与えてくれますが、何故なら物質(matter)と形状(form)の両方は、絶対に変えられる事の出来ない原則だからです:

O genus attonitum gelidae formidine mortis,
quid Styga, quid tenebras et nomina timetis,
materiam vatum falsique pericula mundi?
Corpora sive rogus flamma seu tabe vetustas
abstulerit, mala posse pati non ulla putetis:
morte carent animae domibus habitantque receptae.
Omnia mutabtur, nihil interit.

[貴方方人々は、氷の様な死への恐れによって困惑させられますが、何故貴方は三途の川によって、
詩人達の話しのものである、影と空っぽの名前によって、存在しない世界の危険によって、怖がらされるのですか?
私達の体は、火葬の炎によってであれ、またはゆっくりとした腐敗によって破壊されるにしても、苦しみを感じません。
私達の魂は不死であり常に新たな家に迎え入れられ、それらが以前の住処から離れた時、それらは其処に宿り生きます。
全ての物事は変化しますが、死ぬものはありません。]

D. 私が信じるに、ヘブライの中で最も賢明と慕われるソロモンが、何か類似した事を言います:「Quod est quod est? Ipsum quod fuit. Quid est quod fuit? Ipsum quod est. Nihil sub sole novum」[それは何か?それだったものは。それだったものは何か?それであるものは。太陽の下で新しいものは何もない。]そして、故に、貴方が仮定するこの形状(form)は、物質(matter)の中だけに存在する何かでは無く、その存在/あり方に沿って固定されているのでは無く、その存在/あり方のために体または物質に帰属しないのですか?

T. その通り。それに加えて、自然/本質において、そして真実において、分別出来ないものを、理性によって分別する事に決して疲れないアリストテレスによってそうされた様に、私は形状無しで存在する物質は無いとは切り主張しますけれど、私は形状が物質無しで存在している可能性は断言しないでおきます。

D. 貴方はこの物質の永遠的関連以外のその他の形状を認めないのですか?

T. そうです、そして物質的形状よりも、より自然的な形状については、私達は後に扱いましょう。今は、形状のこの分別をはっきりさせましょう:最初に、(情報を)知らせ、延長され、そして帰属する種の形状があります。それは全てを知らせるので、それは全ての中にあり;それは延長させられているので、それはその全体の完璧さをその各部分に伝達し;それは帰属しそれ自体を通した機能は有さないので、それはその全体の機能を各部分に伝達し、同様にそれは名前と存在/あり方をそれらに伝達します。物質的形状とはその様なもので、火の様なもので;何故なら火の全ての部分は暖かく、火と呼ばれ、そして火であるからです。第二に、もう一つの形状の種があり、それは知らせますが独立的で、延長されていません。それは全体を完璧にし運動させるので、それは全体のなかにあり、そしてその各部分にあります。それは延長されていないので、その結果それはその全体の運動を各部分に帰する事が出来ません。それは帰属的なので、それは全体の運動を各部分に伝達します。その様なものが植物的で敏感な魂で、動物のどの部分も動物では無いので、各部分はそうであれ、生きそして感じます。第三に、もう一つの形状の種があり、それは全体を実質化し完璧にしますが、その機能において、延長されてもおらず帰属されてもいません。それは完璧化し実質化するので、それは全体の中にあり、その完全性の中にあり、そしてその各部分のそれぞれにあります。それは延長されていないので、その全体の完璧さを各部分に帰させません。それは帰属していないので、その運動をそれらに伝達しません。魂とはそういうもので、知性的な力を実行できる限り、そしてそれは知性性と呼ばれますが、それは人のどの部分も人と呼ばれる原因にはならず、または人にも成らず、知性的と表現もされません。これらの3種の中で、第一が物質的で、それが物質無しでは考えられず、存在さえも出来ないからです。その他の2種は(それらは、実際に、それらの実質と存在/あり方に沿って、一つとして現れ、私達が上述した方法で分別されます)、形状的原則を、物質的原則からはっきり異なったものとして表現します。

D. 私は理解します。

T. 更に加えて、私が指摘したいのは、もし、一般的な用語を使い、私達が形状(form)には5段階あると言い、つまり、要素的/初段階的なもの、合成的なもの、植物的なもの、敏感/感情的なもの、そして知性的なものがあると言うと、しかしながら、私達が形状を一般大衆的感覚で理解しないのは、その分別が、題材/対象の中に現れ、そしてそれらから派生する観点からは正当/有効ですが、全ての物事を満たす形状とスピリット(霊)的生命の原始的で根本的本質の観点からでは無いからで、それは異なった方法でそれを行います。

D. 私は理解します。貴方が原則と仮定する実質的な形状であるこの形状に限って言うと、それは完璧な種を造り、それ自体がそれ自体の(種)属で、そして逍遥学派(アリストテレス派)の(言う)形状の様に、種の一部では無いと言う事です。

T. 正しくその通りです。

D. 物質(matter)における形状の分別は、物質的形状に帰属する、偶発的性質の機能では無いと言う事です。

T. 正解です。

D. それから続くのは、全ての数字的掛け算/倍増は物質によるので、この分離された形状は数字的感覚では倍増/掛け算される事が出来ません。

T. そうです。

D. 更に、それはそれ自体においては変かしませんが、題材/対象と物質の多様性の御蔭で変化します。そしてその様な形状は、それは題材/対象において一部を全体から分別させるけれど、しかしながら、もし私達がそれのために使う定義が、それがそれ自体で実質的と考えられるか、または何らかの物体/対象の運動と完璧化に限って考えられるかに沿って異なり一部においてそれ自体は全体から異なっておらず - そしてそうであるなら、それはそれが取ったこの、またはあの題材/対象の特質と固体化の沿って考えられます。

T. 正しく。

D. 貴方はこの形状(form)が偶発的であるとは考えず、偶発的な形状では無く、物質と混ぜ合わされたものでも、またはその中に潜在的なものでも無いが、その中に存在していて、それ自体を関連させ、それを補助するものと考えます。

T. それは正に私が言う事です。

D. 加えて、この形状が物質(matter)によって定義され決定されるのは、一方で、それ自体の中に無数の種の特徴を構成する能力を有するからで、それは固体を構成するためにそれ自体を制限し、そしてもう一方で、物質の決定されていない効能で、それはどんな形状でも受け入れられ、単一の種に限定的と見つけられます。故に、一つ/1はその他/もう一つの定義と決定の原因です。

T.とてもよろしいです。

D. ですから、ある意味、貴方は自然の特定的形状を「潜伏的」と言う言葉で修飾するアナハゴラスの意見を許し、そして部分的に、それらをアイデアから派生させるプラトンを認め、そして部分的に、知性からそれらを派生させるエンペドクレスを認め、そして特定の意味で、言うなれば物質の効能からそれらが派生するとするアリストテレスを認めるのですか?

T. はい、私達が言った様に、形状がある処に、ある意味、全てがあります。魂、スピリット(霊)、生命がある処に、全てがあります。形状させるものが知性で、それは理想/思考的種を通して運動し、もしそれが物質から形状をもたらさなかったとしても、それはすると物質の外側にそれらを見つけようとしないのは、スピリットが全てを満たしているからです。

P. Velim scire quomodo forma est anima mundi ubique tota[私がとても知りたいのは、どう世界-魂(anima mundi)が、その全体性において全ての場所に存在する形状なのかで]、もしそれが分割できないものならです。それは、すると、とても大きなもので、貴方はこの世界が無限であると言うので、無限の次元でさえあるかも知れません。

G. それが大きいと言うための善い理由が正にあります。それはシシリア島のグランダッゾである宣教師が私達の主について言った様な事で:彼が何処にでも存在する事を象徴するために、彼は教会と同じくらい大きい十字架を注文し、天界を天蓋とし、星溢れる空をその座とする、聖父である神にイメージとし、そしてその足はとても長いので、それらは地上まで届き、それらを彼は足置き台として使います。この宣教師に、ある農夫が来て言いました、「尊敬される神父様、彼の馬を造る?(make)ために、どれだけのエル(長さの単位)の布が必要ですか?またある者は、彼の腹を膨らませるためには、メラッゾとニコシアのヒヨコ豆も、ハリコッツもソラマメも、十分では無いと言いました。では、注意して下さい、この世界-魂は、同じように切り取られて/造られていません。

T. 私は貴方の困惑をどう満足させられるかは知りませんが、ゲルヴァシオよ、私はポリイーニョ様の困惑は満足させられるでしょう。ですが貴方方両方のために、私は貴方方が私達の理由づけと論議から、何らかの果実を得て欲しいので、私は比較を使いましょう。簡単に言うと、貴方は知っているはずですが、すると、何らかの体またはスピリット(霊)が、ある物質的ものが何処にでもあるのと同様に、世界-魂と神が全ての部分を通して存在するには不可能ですが - 以下の方法以外で簡単に説明するには難しい方法で存在します。もし私達が世界-魂、または宇宙的/統一的形状(form)が何処にでもあると言う時、それらはその様な本質では無く、その様にどの部分でも見つけられるものではないので、私達は肉体的または次元的な感覚を意味しない事に注意して下さい。それらはスピリット的方法で、それらの全体として何処にでも存在しています。(乱暴ですが)一つの例を取ると、貴方は部屋全体の全く中だけのある声を想像するかも知れず、そしてその全ての部分において、効果/結果的に、其処全体において、人はそれを何処でも聞きます。同様に、私が言っている言葉は貴方方全員に完全に聞かれ、何千人の人々がいようと変わりありません。そしてもし私の声が世界全てに届くなら、それは全体的に何処にでもあります。貴方に、すると、私は言いましょう、ポリイーニョ様、要点の方法で魂は分離する事は出来ませんが、ある意味、声の様には(分離)出来ます。そして貴方には、ゲルヴァシオよ、神(divinity)は、グランダッゾの神(God)が彼のチャペル全体にいる様に何処にでもあるわけではないと私が言うのは、何故なら、神は教会全体にいますが、彼は全く何処にでも存在しているのではなく、彼の頭は一つの場所にあり、彼の足はその他にあり、彼の腕と胸はまたその他にあります。対照的に、丁度、私の声がこの部屋の全ての側から完全に聞こえる様に、神は何処の部分であれ全体/完全です。

P. Percepi optime.[私は完璧に理解しました。]

G. 私もまた貴方の声を理解しました。

D. 私は声については信じますが、論議については、私が思うに、片方の耳から入り、もう片方から出て行ったようです。

G. 私はそれが(耳に)は言ったとさえ思えないのは、時間が遅いからで、私の腹が時を告げたからです。

P. Hoc est, idest[それは]彼が彼の頭をin patinis.[蒸し焼き鍋に持つ/蒸し焼き料理を考えているからです。]

第二対話終了

発言者:D=ディクソノ・アレリオ、T=テオフィロ、G=ゲルヴァシオ、P=ポリイーニョ

50ページより:

第三の対話

G. もう既に時間ですが、まだ人々は来ていません。私には考えずにいられない事は無いので、私は彼等の会話を聞く事で私自身を楽しませれば、彼等は哲学と言うゲームにおけるチェスの善い一手を教えてくれるかも知れません。それはまた、心地よいスポーツで、あの空論家、ポリイーニョの奇妙な脳を気まぐれに素早く回転させるものです。彼は上手く弁論し、より上手く論議する判事の様に振舞い、哲学的矛盾と過ちを提出しますが、彼の番が来ると、彼自身何を言えばいいか解らず、彼の空っぽの空論の袖からつまらないラテン語とギリシャ語のことわざとフレーズのサラダを編み出し始め、それらは他の者達が言っている事とは全く関わりが無く、故にどんな盲目の人でも努力せずに彼がどれだけ、彼のラテン語と共に、狂っていて、その他の者達が、彼等の下品な言語と共に賢明なのかが解ります。ですが、私の信仰によって、彼が此処に現れました。彼が動く仕草によって、彼の足の動きでさえも、彼はラテンの歩幅を応用する事を知っている様です。いらっしゃいませ、dominus magister[より優れたご主人様/マギ・スター/賢者・星]。

P. そのmagisterについて、私は関心がありません。私達の惑わされた無法的な時代において、それ(マジスターの称号)は、私の同僚達に与えられるのと同等の頻度で、床屋にも、布取りにも、肉屋にも与えられます。それは何故、私達がnolite vocari Rabi[貴方はラビと呼ばれないようにしなさい]と言う助言を有する理由です。

G. では貴方は私にどう呼ばれたいのですか?貴方は「最も尊敬された」の方を好みますか?

P. Illud est presbiterale et clericum[それは聖教者と神父達のためのものです]。

G. 「最も著名な」は、貴方はどうお感じですか?

P. Cedant arma togae[腕/武器はトーガ(ローマ人の白布の衣服)に道を譲る]。その称号は騎士達と同時に、紫を着た者達(i.e.ヴァチカン)に相応しい。

G. そして「皇帝的壮大さ」は、んん?

P. Quae Caesaris Caesari[皇帝のものは皇帝に]。

G. では、domine[主]を!、「雷を鳴らす者(ゼウス/トール)」を!、「divum Pater」[神々の父]を取って下さい!私達に戻ると、貴方は何故こんなに遅いのですか?

P. その他の者達は、何らかのビジネスで遅れさせられているようです。私自身については、線を辿る事無しで、この日を無駄にしないために、一般的に世界地図と呼ばれる地球の象徴を考える事に私は私自身を献身させました。

G. 世界地図と共に、貴方は一体何をしたのですか?

P. 私は私がスピリット(霊)的に横断し、またこの足でじかに行ったこの地球の全ての部分、気候、地域、そして地方を考えていました。

G. 私は貴方に、貴方自身に少々戻って来て欲しく、私にはそれが貴方に最も必要な事で、最も心配しなくていい事の様に見えるからです。

P. Absit verbo invidia[自慢せずにそれを言いなさい]:この様にして、私はもっと効果的に私自身を知ります。

G. そして、どうか教えて下さい、それはどうしてですか?

P. マクロコズム(大宇宙)の精密な調査から、人は簡単に(Necessaria deduction facta a simili[類似性から必然的推理をする事で])マイクロコズム(小宇宙/人体)の知識に辿り着き、その最も詳細な部分は、前者(大宇宙)の部分と一致します。

G. そうであるなら、貴方の中に、私達は月、水星とその他の惑星を、それと同時にフランス、スペイン、イタリア、イングランド、カルカッタ、そしてその他の国々を見つけられるのですか?

P. Quidni? per quandam analogiam[勿論ではないですか?特定の類推によれば]。

G. Per quandam analogiam、私は貴方が偉大な王族だと信じますが、もし貴方が女性であるなら、貴方は赤ん坊を宿す処、またはディオジェネスが言うこれらの植物を入れる場所を有しますか?

P. ははは!Quodammodo facete[とても上手く言われました]。ですがその様な問いは賢者と学者には相応しくありません。

G. もし私が学者なら、そしてもし私が私自身を賢明と考えるなら、私は此処に来て、貴方と共に学ぼうとはしないでしょう。

P. 貴方は、そうですが、私は学ぶために来るのではなく、nunc meum est docere; mea quoque interest eos docere volunt iudicare[私のオフィス/職業は今、教える事で;私の関心はまた、教える事を望む者に判断を下す事でもあります]。故に、私はその役割が生徒であり、初心者であり、弟子である貴方が来るのとは、異なった目的で来ています。

G. 何の目的のためですか?

P. 判断のためと、私は言いました。

G. 実に、貴方の様な者の種にとって、貴方は星々の自由と運命の気前良さが、言葉から樹液/活力を引き出す力を譲った唯一の者なので、科学と教義を判断するには、その他の者達より優れています。

P. そして結果/成り行き的にまた、言葉に結び付けられた思考からもです。

G. 魂が体に結び付けられる様に。

P. 言葉は、正しく理解されると、感覚(センス)の完全な掌握を与え:故に、言語の知識から(それにおいて私は、この街の誰よりも、熟練者で、そしてそれにおいて私は、私自身をミネルヴァ的学校を運営する誰よりも学があるとしますが)、全ての科学の知識は派生されます。

G. そうすると、イタリア語を理解する全ての者達は、ノーランの哲学を掌握するのですか?

P. はい、ですが幾分の練習と判断が必要と成ります。

G. 少し前に、私はこの練習が主要な者であると考えたのは、何故ならギリシャ語を知らない人でも、それでもアリストテレスの意味する全てを理解する事は可能で彼の過ちの多くを指摘出来るからです。同様に、この哲学者(主に自然の物事について)の権威を囲む偶像崇拝主義は、このその他のセクト(派閥)の観念を掌握する全ての者達に全く見捨てられ;ギリシャ語、またはアラブ語、もしくは恐らくラテン語を知らない人でも、パラセルサスの様に、ガレンヤアヴィセナや、ローマの言葉を話すその他の者達よりも、薬や医療の性質のより良い知識を持つ事が出来るでしょう。哲学と法律が失われるのは、言葉の解釈の窮乏を通してではなく、深遠に考える人(哲学者)の少なさを通してです。

P. では、貴方は私の様な男を、ボンクラな一般大衆の一人に数えますか?

G. 神が禁じます様に(滅相も御座いません)。学習と知識と共に(希少で重要な物毎ですが)、貴方と貴方の同僚達は、それら(学習/知識)を主張/推薦する人達の意見を吟味したので、教義を判断するには、十分な力量があります。

P. 貴方は今、純粋な真実を述べているので、貴方には何らかの目的があると、私自身を納得させるのは難しくありません。もしそれが、貴方にとって難しすぎないなら、面倒でしょうがそれを述べて下さい。

G. 私は(貴方の賢明で慎重な判断に完全に私の身を委ねて)こう言いましょう:ゲームに参加していない者は、ゲームをしている者より詳しくそのゲームを観察できると、一般的なことわざは言います。同様に、劇を観ている者の方が、舞台で演じている役者より、演技を良く判断でき、そして同じように、音楽は、オーケストラまたは合唱団の一部で無い者によって良く聴かれます。それはトランプ、チェス、フェンシング、そしてそれらに類似するものでも同様で、そしてですから、貴方、その他の空論者の紳士達は、全ての科学的で哲学的な運動/活動から除外され、アリストテレスやプラトンなど、彼等の種とは全く関わりが無く、ノーランが簡単に論議する彼等(アリストテレス/プラトン)の最も深遠で最も内的な概念を理解し、彼等と同じ舞台で、彼等を良く理解し親密なノーランよりも、貴方の文法的な敵の無さと自然な思い込みをもって的確に判断し、彼等を非難する事が出来ます。私は、貴方が紳士達、または凄い知恵の全ての実施の外側にいるので、それらをより良く判断出来ると言いましょう。

P. 私はこの酷い生意気さに真っ先にどう答えれば良いかアイデアがありません。Vox faucibus haesit[その声は喉にくっつきます]。

G. ですから、貴方の様に思い込みを有する種類は、その足が問いの中に深く入れられている者よりも欠けているので、故に、貴方がこれを認め、あれを認めず、その他を更に注釈し、こちらでは用語索引のテーブルを書き、あちらでは追加付録を書く機能を奪うのは、善きタイトル(?)と共にだと私ははっきり貴方に言いましょう。

P. 私が文字/文学を良く知ると言う事実から、私は哲学について無知であると言及うるのは、完全に無学な者の望みです!

G. 最も学ばれたポリイーニョ様、私が貴方に伝えなければならないのは、私達の宣教師達が72と数える全ての言語を貴方が存じていたとしても・・・

P. Cum dimidia[そして半分]。

G. ・・・貴方には哲学者達を評価する能力が無いだけでなく、更に、貴方は人間の形状をした最大で最もナマクラな獣である事を避けられず、その他に、これらの言語を、なまった者さえ含めて、全く知らない者がこの世界で最も賢く学んだ人に成る事を妨げるものは何もありません。これらの2人がどれだけ有能だったかを考えて下さい:一人は、フランス人の典型的な空論者で、自由芸術の研究アリストテレスに対するアニマドヴァージョンズを書き、そしてもう一人の空論者の悪党は、これはイタリア人ですが、彼の逍遥学派(アリストテレス派)的論議で多くの下らない事を塗り付けました。最初の者がとても上手に彼の知識の無さを表明し、二番目の者は、はっきり言うと、獣とロバを彼の中に多く持つ事を証明するのは、誰の目にもはっきりと見えます。前者は、少なくとも彼が、アリストテレスを理解した事を見せますが、とても下手です。もし彼が、彼(アリストテレス)を良く理解したなら、最も賢明なテレシオのコセンザの様に、彼に対して誇りある戦いを挑む知恵があったかも知れません。後者は、良くも悪くも、アリストテレスを理解したか言うのは不可能ですが、彼が彼を読み、何度も読んだと主張する事は出来ますが、彼を肯定的そして否定的に、何千ものその他のギリシャの著者達と詳細に比較しましたが、全く利益を得ず、大いなる損(無駄≫を下etiam[さえ]言えます。空論的考え方が何処まで狂気と思い込み的うぬぼれの中へ私達を沈ませるかを見たい人は、跡形も無くそれが消える前に、この本を読めばいいでしょう。ですが、テオフィロとディクソノが丁度、来ました。

P. Adeste felices, domini[貴方は丁度良い時に来ました、御主人達よ]:貴方の到着は、この創造力の無い輩によって発言されたうぬぼれ的発言に対して、怒号の様な判断を爆発させる事から、私に膨らむ怒りを抑えました。

G. そしてそれは、この最も尊いフクロウの雄大さを馬鹿にする事から、私を妨げます。

D. 機嫌を損なわないなら、全ては善良です。

G. 私が言う事は、私は冗談で言いますが、何故なら、尊敬する御主人に、私が愛情を感じるからです。

P. Ego quoque quod irascor, non serio irascor, quia Gervasium non odi[それは、私にも同じです。もし私が怒ったとしても、私の怒りは真剣では無く、それは私がゲルヴァシオを憎まないからです。]

D. 良いでしょう。私にテオフィロと論議させてください。

T. 故に、体で無いものは無であると主張するデモクリタスとエピキュリア派は、結果的に物質唯一が物事の実質と主張し、アヴィセブロンと言う名のアラブ人が生命の泉と題された本の中で言う様に、それはまた神聖な本質です。彼等がまた信じるのは、シレニック派と同様に、シレニック派とストア派は、形状(form)は物質(matter)の特定の偶発的な性質以外の何物でもないと言う事です。私は、私自身、長い間、この見解の情熱的な支持者でしたが、それは単に、それがアリストテレス(の見解)より、もっと、自然の働きに一致するからです。ですが沢山考えた後、そしてもっと多くの要素を熟考した後、私達は自然において2種類の実質を認識しなければならない事を見つけます:つまり、形状と物質です。全ての物事の運動的効能と同時に、効能または準階層が見つけられる、絶対的な運動が無ければならず、それにおいて同等の受け身的(passive)効能が見つけられる事ができ:最初に造る力で、次に、造られる力です。

D. 理性的な人は誰しも、全てに成れる何かが無ければ、前者が継続的に全てに成れる事は不可能であると、明らかに理解します。分裂させる事の出来ない世界-魂(私が意味するのは、全ての形状ですが)はどうやって、物質である次元または質量の準階層なしで、形造るもの(shaper)として機能するのでしょう?そしてどうやって物質は形造られるのでしょう?多分、それ自体によって?もし私達が物質として、宇宙/統一的に形状された体を「物質」として呼びたいなら、丁度私達がその全ての能力を持つ生き物を、その形状によってではなく、その効果的原因(efficient cause)によって分別する様に、私達は物質が、それ自体によって形状されると言えるようです。

T. 丁度、同じ用語が、様々な学派において異なった意味を意味する様に、貴方が望む方法で「物質(matter)」と言う用語を使う事から、誰も貴方を止められる者はいません。ですが貴方のそれを考える方法は、技術者や物理学者の活動の中で唯一特定的に有効であると私は知っていて、例えば、宇宙/統一的体を水銀、塩、そして硫黄に減少させる物理学者のテーゼは、医療への何らかの神聖な才能よりも、哲学者として呼ばれたい彼の愚かな熱望を明かします。哲学の目的は、火の力から結果する分離によって実体的に結果される原則の分別に辿り着く事では単純に無く、硫黄、水銀、そして塩から分離される事が不可能な魂は、形状/正式な原則なので、物質的な媒体が分別する事の出来ない原則に辿り着く事で;その原則は物質的性質に敏感ではありませんが、物質を完全に圧倒し、錬金術者(化学者)の実験によって触れられる事が出来ず、その分離は前述された3つの要素に限られ、この世界-魂から異なるもう一つの魂をその者(錬金術者)は認識し、それを私達は此処で定義しなければなりません。

D. 素晴らしく述べられました。とても満足が行く理由づけで、判断にとても欠けている人々は、絶対的に取られた自然の原因を、哲学者がする様に、それらの存在/あり方(being)の全体的延長に沿って分別しないからで、そしてそれら(哲学者達)は彼等の働き/研究に相応しい制限された感覚に沿って分別します。最初のモード(種類)はその様な者として物理学者/医者にとって過度で無駄で、二番目はその様なものとして、哲学者にとって制限的で不十分だと、私は理解します。

T. パラセルスに称えを与える正にその点を貴方は触れました。医療哲学を論議するにおいて、哲学的医療を紹介したために、そしてその様なイライラさせられる混合と絡まった網を創造したために、その最終分析において、とても浅はかな物理学者/医者で、とても混乱した哲学者として現れる、ガレンを彼(パラセルス)は非難しました。ですが、私は彼の研究の全ての部分を検証する楽しみがあったわけではないので、幾らかの遠慮を持ってそれを言っときましょう。

G. お願いですから、テオフィロよ、私は哲学においてそれ程有能ではないので、まず最初に、貴方が「物質」と言う用語で意味するものと、自然の物事における物質をはっきりさせて下さい。

T. 物質(matter)を分別し、形状(form)を持たないそれ自体の中で考えたい誰しもが、芸術/技術との類推をしようとします。ですからピタゴラス派でも、プラトン派でも、逍遥学派(アリストテレス派)でもそれは同じです。例えば家具師の技術を例に取ってみると、それは全てのその形状と全てのその仕事/働きにおいて木をその準階層として持ち、それは鍛冶屋の鉄であり、服屋の布と同様です。全てのこれらの技術は、様々なイメージ、構成、そして形状を、それら自体の特徴的材料(material)から産出し、それらのどれもその材料に自然または正しいものではありません。自然はその機能において材料が必要であると言う事において技術に類似していて、どんな媒体であれ、無から何かを創造する、または無の上で働く事は不可能だからです。すると、存在するのは、それから、それと共に、そしてそれの中に自然が彼女の機能、または彼女の働きを効果的にする準階層の一種で、そして彼女が授けるのは、理性の眼に現される大いなる様々な種に結果する多くの形状です。そして丁度木が、それ自体には人工的な形状を何も持たないが、家具師の活動の結果によってそれら全て(人工的形状)を持つ様に、それと同様な方法で私達が語る物質は、その本質故に、それ自体には自然的形状は持ちませんが、自然の原則である運動的媒体(active agent)の機能を通して全ての形状に成るのでしょう。この自然的物質は、人工的な物質の様に知覚出来るものでは無く、何故なら、自然の物質は全く形状を持つものでは無い間、技術の物質は自然によって既に形状化されたものだからです。技術は、木や、鉄や、石や、羊毛、そしてその他の様な既に形状化された物事の表面の上で唯一機能する事が出来ますが、自然の働きは、言うなれば、その準階層、または物質の中央からのもので、それは完全に形状の無いものです。更に加えると、技術の準階層は数多くあり、自然のそれは一つなのは、何故なら前者は、自然によって異なった方法で形状化され、多様で様々である間、後者は、どの方法でも形状化されておらず、全く分別化されておらず、それは全ての違いまたは多様性は、形状から派生するからです。

G. ですから自然によって形状化された物事は、技術の材料の役割を果たし、その間、単一の形状の無いものが、自然の材料の役割を果たします。

T. はい。

G. 丁度私達が、技術の準階層をはっきりと見て知る事が出来る様に、自然の準階層を私達が知る事は出来ますか?

T. 疑う余地はありませんが、異なった知覚的原則と共にで、丁度私達が色と音を同じ/一つの感覚(i.e.五感の内の一つ)を通して知る事が出来ない様に、私達は技術と自然の準階層(substrata)を同じ目で見る事は出来ません。

G. 貴方が意味するのは、私達が最初(前者)を感覚の眼(視覚)で見て、そして二番目(後者)を理性の眼で見る事です。

T. そうです。

G. どうか、更に解説して下さい。

T. 喜んで。技術の形状がその材料と共に持つ関係は、(割合/比率を許すと)自然とその材料と同じです。丁度技術において、すると(もしこれが可能であるなら)、形状が無限に変化する間、これらの形状の下には一つで、そして同じ物質が存在し続け - 木の形状は、例えば、幹の形状によって続かれ、それから板に成り、後にテーブル、椅子、棚、櫛等々に成る間、木は同じままで - そして本質においては違いは無く、形状は、次々と変わりますが、物質は常に同じままです。

G. どうすればこの類推は確認する事が出来ますか?

T. 種であったものが茎に成り、茎であったものが小麦の穂に成り、穂であったものがパンに成り、パンであったものが乳糜(にゅうび)に変わり、乳糜から血液に、血液から種に、種から胚子に、そしてそれから人に、死体に、土に、石またはその他のものに、順を追って全ての自然的な形状を含む事を、貴方は理解しませんか?

G. 私は簡単にこれを理解します。

T. では、それ自体において、石でも、土でも、死体でも、人でも、胚子でも、血液でも、その他のものでもない一つの同じものが存在しなければなりませんが、それは血液に成った後、胚子のbeing(存在/あり方)を受け取った後に胚子に変わり、胚子に成った後に人の存在/あり方を受取り人間に成り、丁度自然によって形状化された物質が、技術の準階層であり、板であり、そして板の存在/あり方を木から受取り、板であった物質からドアの存在/あり方を受取り、そしてそれはドアに成ります。

G. ようやく私はそれを良く理解しました。ですがこの自然の準階層(substratum)は体(たい)である事は出来ず、はっきりとした/確実な質を持つ事も出来ない様に私には思えます。何故なら、時にはあれやこれの形状で自然的存在で、時にはもう一つの形状と存在で、その形状が何であれ、材料または準階層とさえ考えられたとしても、常にそれらがそうある事を通して表す木や石の様に、それはそれ自体を肉体的には現れさせません。

T. 上手く言われました。

G. では、丁度、それぞれの技術の形状の下に、たった一つの物質しか無い様に、自然の形状の全ての下にもたった一つしかない事を信じる事を拒否する、ある頑固な人と、私がこの思考を論議しているとしたら、私はどうすればよいのでしょう?私達は、私達自身の眼で見る者を否定出来ませんが、私達が理性を唯一通してみるものは否定出来るかも知れないためです。

T. 彼を送り返す、または返答しなければよいでしょう。

G. ですがもしこの頑固な人がこの物質の証拠を要求し、尊敬される立場の人で、私が彼を送り返すよりも、私が送り返される可能性が高く、そして私の返答の拒否を侮辱と受け取ったらどうすればよいでしょう?

T. もし全ての敬意と尊敬に相応しい、盲目の半神半人が、とてもしつこく、うるさくせがみ、頑固に、色、または自然の物事の外的な形状の知識と証拠を要求したとしたら、貴方はどうしますか?例えば:木の形状とは何だ?山脈の形状とは何だ?星々の形状は?と彼が尋ねたらどうでしょう?または、再び:私達の眼に明らかに見える像やローブ、またはその他の人工的な物事の形状は何だと言われたらどうでしょう?

G. 私は、もし彼が眼を持っていたら、彼は彼自身の眼でそれらを見れるので、それらの物事の証拠を尋ねないだろうけれども、彼は盲目なので、他者が彼にそれらを見せるのは不可能であると、彼に伝えます。

T. 同様に、貴方のその他の人々が、もし知性を持っているなら、彼等自身でそれを見る事が出来るので、彼等はその自然的物質への証拠を要求したりはしないと貴方は言う事が出来るでしょう。

G. ある人達は、その答えによって侮辱され、そしてその他の人達はとても皮肉的にとらえるでしょう。

T. ならば、貴方は以下の様な、あまり公では無い方法で語る事が出来ます:「最も著名なサー」、または「神聖な陛下、丁度ある物事が、手と触った感覚でなければ明らかに成る事が出来ない様に、他のものは聴覚、また他のものは味覚を通してでなければならない様に、ですから自然の物事のこの物質は、知性を通して以外は、光(の下)へともたらさられる事は出来ません。」

G. 彼は、結局、とても曖昧では無くあまり隠されたものでは無いシャフト(軸?)を解釈し、そして、「知性を持たないのは貴方で、貴方の様な人達全員より、私の方がもっと持っています、」と答えるかも知れません。

T. 貴方は、すると、盲目なのは貴方で、そして貴方の様に見えると信じる全ての者達よりも、彼の方がよく見えると言い返す盲目の人に、相応しい以上の信頼を与えてしまいます。

D. 「物質(matter)」と言う言葉が何を意味するのか、そして自然の物事の中の「物質」によって何が理解されなければならないのか、私が今までに聞いたより何よりも、より詳細に証明するために、貴方は十分に述べてくれました。(:「眼に見えない物質」=原子/波/エネルギー。多分・・・)ピタゴラス派のティマエウスは同様な方法で、一つの要素からもう一つへの変格を通して、隠されている物質と、類推的表現でのみ知る事の出来る物質を、私達に見つけなさいと教えます。「土の形状(form)が、後に水の形状で現れる処で、」と彼は言い、そして此処において私達は一つの形状がその他を受け取ると言う事を言う事が出来ず、何故なら矛盾/対照的なものは、もう一つを受け入れたり、または受け取ったりしないからです。つまり、渇きは湿りを受け取らず、またはむしろ乾いた様は湿った様を受け取りませんが、乾いた様がそれから放出され、湿った様がそれに紹介される、第三のものがあり、そしてこの第三のものが矛盾/対象の準階層(substratum/原子?)で、それ自体は何とも矛盾/対象ではありません。それから続くのは(導き出せるのは)、私達は土が無に減少させられるとは考えられないので、私達は土の中に何かが存在し、そして(それが)水の中に見つけられると結び付けなければならない事です。それと同じ理由のために、(水を蒸気、または水蒸気に減少させる熱の効果の下で)水が空気へと変格された時、空気の中に同じものが存在し、そして見つけられます。

黄道



T. これから私達が結論出来るのは、(私達への反対意見にも拘らず)その外的で材料的な偶発的形状(e.g.体/形)を除けば、その存在/あり方(e.g.原子/魂)を消滅させられ失ってしまうものは何も無いと言う事です。それは何故、物質とどんな自然的なものの実質的な形状が何であれ(つまり、その魂は)、それらの存在/あり方を完全に破壊されたり、消滅させられたり、失わさせられたり出来ないかの理由です。確かにこれが逍遥学派(アリストテレス派)と彼等の様なその他の者達の実質/実体的形状に本当では無い(当てはまらない)のは、それを構成するのが特定の外観と特定の偶然の集まりでしかないからで、彼等の主要な/原始的物質の外側を彼等が示す事の出来る全ては、偶然、外観、性質の傾向、定義の原則、クイディティー(「なんであるか」と言う事)以外の何ものでもないからです。故に、彼等の中の幾らかの頭巾を被った巧妙な哲学者達は、彼等のアイドル(偶像)であるアリストテレスを責めるよりもむしろ、かばう事を望み、人類性、牛性(動物性)、オリーヴ性(植物性)と言う特定的実質的形状を思いつきました。


T. これから私達が結論出来るのは、(私達への反対意見にも拘らず)その外的で材料的な偶発的形状(e.g.体/形)を除けば、その存在/あり方(e.g.原子/魂)を消滅させられ失ってしまうものは何も無いと言う事です。それは何故、物質とどんな自然的なものの実質的な形状が何であれ(つまり、その魂は)、それらの存在/あり方を完全に破壊されたり、消滅させられたり、失わさせられたり出来ないかの理由です。確かにこれが逍遥学派(アリストテレス派)と彼等の様なその他の者達の実質/実体的形状に本当では無い(当てはまらない)のは、それを構成するのが特定の外観と特定の偶然の集まりでしかないからで、彼等の主要な/原始的物質の外側を彼等が示す事の出来る全ては、偶然、外観、性質の傾向、定義の原則、クイディティー(「なんであるか」と言う事)以外の何ものでもないからです。故に、彼等の中の幾らかの頭巾を被った巧妙な哲学者達は、彼等のアイドル(偶像)であるアリストテレスを責めるよりもむしろ、かばう事を望み、人類性、牛性(動物性)、オリーヴ性(植物性)と言う特定的実質的形状を思いつきました。この人類性は - 例えば、Socratiety(ソクラテス的?哲学的?)で - この動物性、馬性は、個々/個人/固体の実質/実体です。彼等(アリストテレス派)は、丁度物質が実体の名前と、実体の存在/あり方を持つ様に、実体の名前に相応しい、実体的形状を供給するために、それら全てを思いつきました。彼等がこれから決して何も利するものを派生させないのは、もし貴方が要点から要点に、彼等にこう尋ねたとします、「何において、ソクラテスの(が言う)実体的存在/あり方(原子/波/エネルギー)は構成されるのですか?、彼等の答えは、「Socrateity(ソクラテス主義?において」で、もしそれから貴方がこう尋ねたとすると、「ソクラテイティーによって貴方は何を意味するのですか?」、彼等の答えは、「ソクラテスの(言う)実質/実体的形状と正しい物質です。」ですが私達は物質であるこの実体(原子)を横に置いといて、そしてこう尋ねてみましょう、「形状としての実体(i.e.波/エネルギー)は何ですか?」彼等の幾らかはこう答えるでしょう、「それはその魂です。」彼等に尋ねてみて下さい、「この魂とは何ですか?」と。もし彼等が、それは生命の可能性を有する体のエンテレケイヤ(精神)と完璧性というなら、これは偶発的だと言って下さい。もし彼等が、それは生命、感覚、植物性、そして知性の原則であると言うなら、もし人が、私達がする様に、それを原理的に考えると、一つの実体は原則ですが、彼等はそれを偶然でしかないと表しますと言って下さい。あれやこれのものの原則である事実は、完全で実体的な本質を表現しないためで、自然は偶発的で、原則された者に相対的であるためで、丁度私がする事、または出来る事を言う誰かは、私の存在と実体を表現していない様に、私が私自身である限り、それは私が何であるかを言う誰かによって表現され、完全と考えられます。では、魂であるこの実体的形状を、彼等がどう考えようとも、もし彼等が偶然にもそれを実体として認識しようとも、しかしながら、彼等は決してそれをその様なものとして示したり、考えたりしないのを、貴方は理解するでしょう。もし貴方が彼等に、インアニメ―ト(動かない)ものの実体的形状は何かと尋ねれば、貴方はこの結論をよりもっと素朴/明らかにでき、例えば、木であるならば、最も巧妙な者はそれが木らしさで構成されると想像するでしょう。では、鉄や、木や、石に共通する材料(原子?)を取って、そして尋ねてみてください、「鉄の実体的形状の何が残りますか?」彼等は決して偶然以外の何も指摘しないでしょう。そしてこれらは固体化の原則の中で、そして特質性を供給し、何故なら、材料は何らかの形状を通して以外、特定のものの中に収められる事が出来ないからで、彼等はそれが実体的であると主張しますが、何らかの偶発的なもの以外として、彼等はそれを物理的に見せる事は出来ません。彼等が最終的に、彼等の出来る事全てをした時、彼等に残されたものは、唯一理論的に存在する実体的形状で、自然の中のものではありません。故に、理論的な構造物が自然の物事の原則と仮定されます。

D. アリストテレスはこれに気付かなかったのですか?

T. 私が信じるに、彼は完全にそれに気付きましたが、それについて何も出来ませんでした。これは何故、彼が、究極的な違いは知られておらず、表現される事が出来ないと言う理由です。

D. すると、彼は公に彼の無知を告白した様に、私には見えるので、故に、私の意見では、この重要な問いにおいて、無知を認めない、ピタゴラスや、エンペドクルス、そしてその意見に私達が昨日触れた貴方のノーランの様な哲学的原則を抱擁する/受け入れる方が善いと思います。

T. これがノーランの主張する事で:全に存在/あり方を与える知性(エネルギー/波/魂)があり、それをピタゴラス派とティマエウスは「形状(form)を与えるもの」(原子)と呼び;全てに成り、情報伝達する魂と正式/形状的原則で、彼等は「形状の泉」と呼び、それから全てが発生させられ、形状化される物質(matter)があり、そしてそれは全ての者によって「形状の容器/入れ物」と呼ばれます。

D. この教義は、それから何も欠けていない様なので、私をとても喜ばせます。そして、実に、必要なのは、丁度私達が、一貫的で永続的な材料(material)的な原則を仮定出来る様に、私達が同様に正式/形状的な原則を仮定する事です。私達は、物質における全ての自然的形状は消滅し、それから再び物質において現れるのを見るので、故に、もし物質でないなら、現実において一貫的出、確かで、永続的で、そして原則として考えられるのに相応しいものはありません。その他に、形状は物質無しで存在せず、それにおいてそれらは発生させられ腐敗させられ、そしてそれらの胸の中からそれらは派生させられ、それらの中へとそれらは取り込まれます。故に、常に創造力豊かで同じである物質は、唯一の実質的原則としてに認識される存在/あり方の原則的優先権を有さなければならず、そう言うものとして、永遠にそのままで、そして形状の全ては一緒に、物質の性質の変化として単に取られ、それは行ったり来たりし、それら自体を無くならせたり再生させたりし、ですから原則としての価値を持つものはありません。これは何故、アリストテレスや彼の様な哲学者達が、自然の形状を詳細に熟考した後に、最終的にそれらは唯の偶然で物質の特質であると結論し、ですから、彼等によると、私達が運動と完璧性である特権を与えなければならないのは物質で、私達が真にそれらは実質でも本質でも無いと言える物事では無く、実質と本質に相対的で - つまり言うなれば、彼等の意見において、物質は、彼等にとって必然で、永遠で、神聖な原則であり、それを「全ての中にいる神」と呼ぶムーア(アラブ)人のアヴィセブロンと同様です。

T. 偶発的形状の外側の、その他の形状を何も認識しないこれらの者達は、この間違いへと導かれ、そしてこのムーア人は、逍遥学派(アリストテレス派)の教義から、彼は実質的形状を受け入れたけれども、それにおいて彼は育てられ、それが腐敗させられる事ができ、単に材料的変異に至りやすいのではないと判断しました。彼は、発生させられたものと発生させないもの、構成させられたものと構成しないもの、そして再構築されたものと再構築しないものを嫌ったので、彼はそれが、安定的で、永続的で、元祖であり母である物質と比較されると価値が無いと考えました。そしてこれは、私達がする事を知らない者達に、必然的に起こります。

ドレスデン

ドレスデン

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1945年2月13日のドイツにおいて、その戦争は終焉を迎えていて、ドイツは廃墟と化していました。警告も無しにチャーチルは米国と英国の爆撃機に、他の破壊された街々から避難してきた難民達で溢れている、この非戦闘員的で病院的な街(ドレスデン)に3,300トンの焼夷弾を落とす事を命じました。その爆弾は、歴史における史上最悪の単一的な出来事において、大規模なシオニストの「人間の生贄」の炎の嵐を着火させ、300,000人から500,000人と推定される、罪の無い人々を、生きたまま焼き殺しました。

避難していたその街の動物園の管理者は後に、彼が見捨てなければ成らなかった象の、背筋が凍るような叫びについて記述しました。

ドレスデンを忘れないで。

ホロコースト: 全燔祭(はんさい) 《ユダヤ教の祭事で獣を丸焼きにして神前に供えるいけにえ》.

東京大空襲

ベテランズ真実ラジオ

Gordon Duff aka Bob Foote why everyone is leaving Veterans Today
ゴードン・ダフ、別名、ボブ・フット
何故みんながベテランズ・トゥデーを離れて行くのか

http://www.stewwebb.com/2015/04/25/gordon-duff-aka-bob-foote-why-everyone-is-leaving-veterans-today/

2Veterans Today

ゴードン・ダフとしてもまた知られているボブ・フットの嘘とディスインフォメーション(偽情報)

1Veterans Today Illuminati Site


左上:デーヴィッド・ロックフェラー、右上:ズビグニュー・ブレジンスキー、下:ゴードン・ダフとしても知られているボブ・フット。

告発者、ステュー・ウェブと、CIA の告発者、ジーン・チップ・テータムが、上記の3人の手先によって運営された、イルミナティの偽情報サイト、ベテランズ・トゥデーを見限ったのは、これが理由です。ゴーグルで幾らかの検索をして、自分で判断して下さい - ステュー・ウェブ

何故、みんなが、ロックフェラーのディスインフォのサイト、ベテランズ・トゥデーを見限っているのか理解して下さい。

Veterans Truth Network (4-28-15) Gordon Duff Roast
ベテランズ真実ネットワーク(2015.04.28)ゴードン・ダフがローストされる


2015年4月28日の午後6-9時に、生で聴いてください。

連邦の告発者、ステュー・ウェブ、CIA の告発者、ジーン・チップ・テイタム、ディーン・ヘンダーソン、ブルース・キャンベル、ジェームズ・フェッツアー博士は皆、ベテランズ・トゥデーを見限り、「ロックフェラーの3人の手先」ゴードン・ダフ、マイク・ハリス、そしてジム・ディーンについて論議します。





1VTN


ベテランズ真実ラジオ
http://www.veteranstruthradio.com/



ステュー・ウェブの新しいラジオ番組のサイト。

ウェブのウェブサイト:
http://www.stewwebb.com/

プーチンはアメリカ合衆国に「真実爆弾」を落とす

Putin set to drop “truth bomb” on USA
プーチンはアメリカ合衆国に「真実爆弾」を落とす(退役軍人トゥデイ)


by ケヴィン・バレット

[要点]

第三次世界大戦は、ネオコン達と彼等のリクンドニク(スラエル)の最後の必死な望みです。その様な戦争は戒厳令をもたらし、9.11についての真実の隠蔽(いんぺい)(または少なくとも、誤魔化しの継続)を可能にし、そしてネオコン達を国家反逆罪の裁判から、そしてイスラエルの解体から、救います。

「プーチンは、彼が絶対そうしなければならないまで、彼の奥の手である、9.11の真実のカードを斬りたくありませんが、真実の瞬間が、ようやくたどり着かれたのかも知れません。米国が、ウクライナをNATO の敵対的な基地へと変える試みから決して後戻りせず;ロシアに対する経済制裁が、後戻り出来ない地点に辿り着き;ネオコンの第三次世界大戦への「飛び込み」が必然的に成れば・・・

「・・・その時点において、それより先でも後でも無く、プーチンは、彼の9.11の真実のカードを(ポーカー・ゲーム)のテーブルに叩き付け、そして後は野と成れ、山と成れでしょう。

「もし、早まって彼がその手を使うと、彼は不必要なリスクを取っている事に成ります。

「ですがもし、彼が後手に回り過ぎると、その一手はインパクトを失うでしょう(一度、第三次世界大戦が始まってしまえば、ロシア政府からの9.11の真実は、プロパガンダとして無視され、そして戒厳令の下における検閲は、その真実爆弾を無効にするでしょう)。

「私は、その真実の瞬間が来たと信じます。戦略的に、プーチンは、彼の9.11の真実のカードを今斬るべきです。

プラヴダ紙の記事は退役軍人トゥデイの内通者達の情報元によって確認され、そのカードが斬られる処である事を示唆します。」

9/11 Truth: Was Mossad in Charge? Kevin Barrett, Dimitri Khalezov and Gordon Duff Discus
9.11の真実:モサドが指導していたのか?バレット(米)、ディミトリ・カレゾフ(露)、そしてゴードン・ダフ(米)が論議する


ロイ・トヴ・・・音信不通・・・そして恐らく、口封じされたのかも知れません

Roi Tov…Missing…and Perhaps Silenced
ロイ・トヴ・・・音信不通・・・そして恐らく、口封じされたのかも知れません(退役軍人トゥデイ)
http://www.veteranstoday.com/2015/02/10/roi-tov-missing-and-perhaps-silenced/


ブロガー、そして退役軍人トゥデイのコラムニストの運命は知られていません。
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ベツレヘムの十字架の著者で、退役軍人トゥデイのコラムニストであるロイ・トヴが音信不通で、そしてある人達は彼が、イスラエルによって永遠に口封じされてしまったのではないかと疑っています。

トヴは元々、イスラエル軍の士官として軍役に就いていましたが、占領の日々の残虐性に耐える事が出来ず、彼はキリスト教に改信し、ユダヤ人国家の大々的な人権侵害の記録を公共の場で語り始めました。彼の行動は、彼のイスラエル市民権の剥奪と、その国からの亡命に繋がりました。最終的に、彼はボリヴィアに落ち着き、其処で彼はまず難民の地位を与えられましたが、トヴは幾つもの彼のブログへの投稿において、ボリヴィアとエヴォ・モラレスの政府は、彼の生活を生き地獄にするために、イスラエルと実質的に、ファウストのバーゲン的な同意を行ったと言う、彼の見解を表現しました。彼は直ぐに、彼自身がラ・パズ市の公道において監視されている事に気付き、時には実際に、襲われさえもしました(下部の記事を参照して下さい)。

トヴの経験は、彼の2冊の著書、2009年出版の、ベツレヘムの十字架と、2012年に出版された、ベツレヘムの十字架 II に表現されています。

彼のブログの最後の投稿の中で彼は、彼が暗殺の標的にされていると言う見解を述べました。彼の正に最後の投稿は、2014年8月後半においてで、「近年、私の記事を読んでくれた事を、私は貴方に感謝します。」と言う言葉で終わります。

ロイ・トヴが口封じされた

エイリーン・フレミングの報告によると、ロイ・トヴは永遠に口封じされたのかも知れません。

イスラエル人の批評者で、活発な著者、ロイ・トヴは、南米で生れ、ヨルダン峡谷に沿った共産主義者達の緊密なキブツで、(本名)リューヴェン・ショーセンとして育ちました。イスラエル防衛軍で4年間奉仕した後、ショーセン部隊長は予備兵と成り、化学物理学における3つの学位を含み、4つの学位と共に卒業しました。

トヴの2冊目の著書、ベツレヘムの十字架 IIの中で彼はこう記述します:

「その年は1983年でしたが、私達は既にオーウェルの1984を習っていて、それはイスラエルにおける生活とのその類似性において、私達を怖がらせました。

「その1年前に開始されたレバノン戦争はまだ、政府によって、「ガリリーの平和のための戦争」と呼ばれていました。

「ヘブライ語の所有短縮形は、その2つの単語を一つにまとめ、それは正に「戦争平和」の様に聞こえ、完璧にオーウェル的な矛盾語法でした。

「私達は皆、私達のコメントにおいて、その本の明らかで現実的なコンテキストを無視したのは、その様な感情は、唯一敵にのみ起因し、そして私達が聡明化された社会に住んでいたためでした。

「私達の政府が意図的に、その様なオーウェル的な選択を、するはずがありませんでした。ですが私の頭の中の小さな声は、異なった話を伝えており、それは私自身の中にしまっておかなければならないものでした。その様な倒壊的な本が、私達の読書のリストにある事を許した手違いは、そのシステムの何らかの非一貫性としてしか解釈出来ませんでした。

「しかしながら、恐ろしいオルタナティヴな説明は、私達が永遠に権威に恐怖し、従って振舞う様に、教育庁の公式な読書のリストに「1984」が意図的に載せられたと言う事でした。それは、その国民の、政府による操作における、最初のレッスンでした。


エイリーン・フレミングは続けます:

2012年4月の、トヴとの e-メールによる会話の中で、彼はこう書きました:

「ベツレヘムの十字架 II の中に、私達の時代の真の英雄である、モーデチャイ・ヴァヌヌに捧げた1章があります。私は其処において、彼と私達の迫害のための理由を拡張しました。

「その本におけるその他の中心的な3章において、私は、彼が「心理的な拷問」と表現するもの、私が「心理的な戦争」と呼ぶ事を好むものを、拡張しました。」


2014年6月27日、トヴはこう記述しました:

「私の状況は、その終わりに近づいています。8月には、私の国外 ATM (自動預金引きおろし機)カードの期限が切れます。私は、資金を引き下ろす事も、ネットで送金を行う事も出来無く成るでしょう。

「ボリヴィア政府によって私の書類は拒否され、盗まれ、新しいものを郵便で受け取るのは不可能です。

「その数日後には、私は、私の監獄と成った、安いゲストハウスから退去する事を強要され、路上に放り出されるでしょう。

「これは警察国家です。彼等は街々の入り口地点において書類をチェックします。私はラ・パズ市から出る事が出来ません。

「凶暴なボリヴィアの現実において、それが意味するのは、最初の夜の内の確かな死です・・・」


6月28日に、エイリーンは彼に尋ねました:私に何が出来るでしょう?と。

トヴはこう返答しました:

「ありがとう、エイリーン、

貴女が今出来る事は沢山あります。貴女の周りを大切にし;世界にヴァヌヌの事を伝え続けて下さい。善い事を続けて下さい。

「もし貴女が、私に関して特に尋ねているなら、出来る事は何もありません。イスラエルは、私に死んで欲しく、そして私に悪意を持って避難地を提供した、暴力的で、気違い的な、ミッキー・マウス社会を雇いました。

「長いうたた寝の時間です。それまでに、私は出来る限り多くを、出来る限り長く、公表し続けます・・・」


「現時点の記述の際において、トヴは、私の最近の e-メールに返答しておらず、過去2年以上、毎日の様に(記事を)公表していたのに、2014年8月27日に投稿された結論的なコメント以降、何も公表されていません、」とエイリーンは言います:

「もし何も変わらないなら、私は2週間の内に、ボリヴィアの路上で暗殺され死ぬでしょう。

「「アサシン(暗殺者)」と言う言葉は「ハシーシ(乾燥大麻)」から由来し;殺人者達の歴史的な集団は、その麻薬を吸いました。恐らく、イスラエルの国家の命令によって、私を柔らかく殺していく、麻薬王に運営された、腐敗した国を描写するのに、それ以上の言葉は無いでしょう。

「何年も前に、私は、決して諦めずに、私が出来る限り多くを、私が出来る限り長く書き続ける事を約束しました。ネタニエフと、彼の殺し屋達とは対照的に、私は約束と誇りの人間です。私よりも何段階も大規模な権力に屈服しない事で私は、私の命を失うかも知れませんが、私の魂を会得します。

「「ファラオよ、私の人々を解放せよ。」と容赦なく叫び続ける全ての被害者達に神の慈悲があります様に。


タルムードから引用するのは反セム主義?
ロイ・トヴ著



IDF Captain Reuven Schossen: "Israel is an unhuman
country"
イスラエル防衛軍の部隊長、リューヴェン・ショーセン(ロイ・トヴ):「イスラエルは非人道的な国」


ロイ・トヴ.com

An Attack's Anatomy: On Israeli-Bolivian Terror
攻撃の解剖学:イスラエル-ボリヴィアのテロ
by Roi Tov
http://www.roitov.com/articles/aaa.htm

日本人のジャーナリスト

ご家族や、ご友人達には、申し訳ないですが、安田純平氏自身が無知だったと言う事からの展開だと考えます。

シリア反政府軍は、マスゴミは「穏健派」とか言いますが嘘をつきますが)、テロリストです。

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そして、安田氏は、テロリストに囚われたのですよね?

テロリストにインタヴューしに行けば、テロリストに囚われる可能性は凄く高いと考えられませんか?

「推測を壊すための公的な宣言」

“Public Statement for breaking Assumptions"
「推測を壊すための公的な宣言」



Published on Jan 22, 2015
2015年1月22日公表

All living sentient beings of free will and lovers of peace and truth, a living man/ woman cannot join himself/ herself with what is dead. Claiming a legal name is an act of fraud, it is the crime of personage, punishable to up to twenty years in prison. 'Get out of her my people before it is too late'! See addendum to public statement for more information.

自由意志も持つ、全ての生きている、意識/知覚のある存在で、平和と真実を愛する者、生きている男性/女性は、彼/彼女自身を、死んでいるものに統合させる事は出来ません。法的な名前を主張する事は、詐欺行為であり、それは人物偽装の犯罪であり、最高禁固20年の刑に値します。「我が人々よ、遅く成り過ぎる前に、彼女(バビロン)から脱出して下さい!」更なる情報のために、追加明言をご覧ください。

This is a public statement to make it crystal clear that the name Santo Bonacci does not belong to me, so that there can be no more assumptions nor presumptions that I am a legal name. The legal name Santo Bonacci is Crown property and not only it is not my name but I don't have permission to use it and by doing so I would be committing fraud for I am not a member of the BAR. Let it be known, I do not authorize any use of my image or any other part of my Estate to be associated with a legal name. There is no binding contract between me and the Crown Corporation therefore I am not subject to Crown jurisdiction, where my free will choice shall never be trespassed.

これは、サントス・ボナチと言う名前が、私の帰属に無い事を、水晶の様に鮮明にするための公の明言で、そうする事によって私が、法的な名前であると言う推測、または思い込みを、もうこれ以上出来ない様にするためです。サントス・ボナチと言う法的な名前は、クラウン(英国王立企業)の所有物で、私の名前では無いだけでは無く、私にはそれを使用する許可も無く、そしてそうする事は、私がBAR (弁護士会/バアル会)のメンバーでは無いので、私が詐欺を犯す事に成ります。知ってもらいたいのは、私が、私のイメージ(姿)、または私のあらゆるエステート(固有財産)が、法的な名前に関連させられる事を許可しない事です。私とクラウン企業の間には、縛り付ける契約が、全く無いので、故に私はクラウンの管轄の対象では無く、其処において私の自由意志の選択は決して侵害されません。

I am not a slave of any man and my body is not surety for anyone’s fraudulent joinder

私は誰の奴隷でも無く、私の体は誰かのための詐欺的な担保でもありません。

If anyone man or woman tries to connect my body with any legal name it will be taken as attempted murder"

もし、ある男、または女が、私の体を、何らかの法的な名前に関連させようと試みるなら、それは殺人行為の試みと受け取られるでしょう。

I am not a respondent, I am not a defendant, I'm not a person, I do not consent to be, I don’t respect persons, James 2:9 (King James Bible James version 2:9) I am a living man

私は回答人でも、被告人でも無く、私は person (法人)では無く、私はそうなる事に同意せず、私は persons (法人達)を敬わず、ジェームズ2:9(ジェームズ王版聖書、第2章第9行)において私は生きている人間です。

I am not a member of any organisation, society, freeman and sovereign movements; I am a peaceful and just man

私は、あらゆる組織、社会の会員では無く、自由な人間で、ソヴリン(主権)の運動で;私は平和主義の公正な人間です。

I am not a belligerent neither am I a hostile

私は交戦的でも敵対的でもありません。

I advocate peace, love, harmony, truth, happiness, unity, prosperity,

私は、平和、愛、調和、真実、幸せ、統一性、繁栄を提唱します。

Addendum: ...
追加明言・・・


サントス・ボナチ・・・と呼ばれていた人
1santos ROMA


長期的な歴史の
サイン波の図表

2eclpitic sine path sun


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スティル・レポート350:円の貴公子達

Still Report #350 -- Princes of the Yen
円の貴公子達


円の支配者

ヘブライ、イスラエライト、そしてユダヤ:罪深い真実

Hebrew, Israelite and Jew
ヘブライ、イスラエライト、そしてユダヤ
The Unholy Truth
罪深い真実
http://www.veteranstoday.com/2015/01/28/hebrew-israelite-and-jew/


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モーゼスは間違って仮定したのでしょうか?


「ユダヤ人達は「選ばれし民」等では無く、パレスチナは約束の地でも無く、ユダヤ人達はギャング・マスター(ヤクザ)と税金の恐喝者として、イスラエライツ達に拒絶されました。英国のヘブライ人が、世界最大の詐欺を暴露します。」
ユダヤ人達が何故、彼等を、他の誰よりも「選ばれた」とし、他人の不動産現物を彼等の「約束の地」として考えるのかの、限定的な調査。

この小論は、その基本的な論議を、モーゼスによって書かれたとされますが、西暦1世紀において、ユダヤ人の歴史家フラヴィウス・ジョセファスによって脚本されたとも噂される、旧約聖書の最初の5書、ペンタテューク(トーラ)の内容に見つけます。石の板の上の速記は不可能なので、ですからそれはどの様にして記録されたのでしょう?それは横に置いといて、私達はその年代記の最初の書の補佐と共に、その内容を検証してみましょう。

もし私達が、ノアからの家系図を辿るなら、ジャフェットの息子達の研究もまた成果をもたらしますが(特にジョセファスのユダヤの昔第2巻の第6章を見てみて下さい)、私達の関心はシェム(セム)の上に集中しなければなりません。シェムの5人の息子達の内の一人はアルファハッドと名付けられ、彼は順を追って、エベルの父に成った、シェルラの父に成りました。この時点において私達の関心が浮上させられるのは、何故ならエベルがヘブライ人達の家長として受け入れられているためです。旧約聖書の神話造りの外においては、「ハビル(ヘブライ)」と言う言葉は単純に放浪者と言う意味です。

ヘブライの初代、エベルには2人の息子達、ペレグとジョクタンがいました。1年代記第1章の20行目は、この時点において記述ミスを含む様で、ジョクタンがアルモダットと12人のその他の息子達を授かったと明言する間、24行目は、ペレグに触れる事も無く、ジョクタンのもう一つの10人の息子達をリストします。ペレグには息子が無く、ジョクタンに23人の息子達がいるのは、多少、変な様です。(Falsus in unum, falsus in omnia?

ジョクタンの息子達のリストの最後にあるのが「アブラム」で、2人の息子達、イサクとイシュマエルを授かった「アブラハム」と同一です。1年代記第1章の34行目は、「アブラハムがイサクを授かり、彼の息子達はエサウと後にイスラエルと呼ばれるヤコブだったと私達に伝えます。1年代記第2章は、「これらがイスラエルの息子達である;リューベン、シメオン、レヴィ、そしてジュダ、イサッカル、そしてゼブルン、ダン、ジョセフ、そしてベンジャミン、ナファタリ、ガド、そしてアシェル、」と明言します。それらの名前は注意深く注目されるべきです。それらはイスラエル家の12の部族ですが、その他の場ではイサクの息子達としても知られています。

また、着目すべきは、イスラエルの子供達には、ディナと言う妹がいる事です。私達はディナ族が、それ自体が完全に成長したイスラエル人の部族であるという啓示を期待せずにはいられません。恐らく「女性の感覚」が、イスラエル家の秩序をまとめられるのかも知れません。次の救世主が男性でなければならないとは、何処にもありません。

ですから、それらの家系図的なリンクは私達を何処に残すでしょう?

・セム族と言う用語は、ノアの息子、シェムから派生しています。

・ヘブライと言う用語はシェムの子孫である、エベルから派生しています。エベルはセム族で、最初のヘブライ人でした。最初のヘブライ人が、ユダヤ人でもイスラエライトでも無かったのは、何故ならその当時、どちらもまだ存在していなかったためです。

・アブラハムは、順を追って、エベルの子孫でした。アブラハムはセム族であり、ヘブライ人でしたが、ユダヤ人、またはイスラエライトのいずれにも成れ無かったのは、どちらもまだ存在していなかったためです。

・イサクはアブラハムの息子でした。イサクはセム族で、ヘブライ人でしたが、ユダヤ人にもイスラエライトにも成れ無かったのは、どちらもまだ存在していなかったためでした。

・神がイスラエルと改名させたヤコブは、イサクの息子でした。イスラエルはセム族で、ヘブライ人でしたが、ユダヤ人ではありませんでした。

・ジュダは、イスラエルの息子達の内の一人でした。ジュダはセム族であり、ヘブライ人で、そしてイスラエライトでした。最初のユダヤ人達は、ジュダの子供達でした。イスラエルのその他の11人の息子達の子孫はユダヤ人ではありません。私達はその事実の重要な要素に、後に行きます。

「選ばれた民」であると言うユダヤ的な神話は、申命記第14章第2行の解読に基づけられるとされます。それは、「14:2 あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。主は地の面のすべての民の中からあなたを選んで、御自分の宝の民とされた。」と明言します。しかしながら、申命記17.12、21.20、そして26.15を読むと、「主が指しているのはイスラエルであり、ジュダの部族だけでは無い事がはっきりと確認されます。

その約束は大イスラエルに成され、ユダヤ人達の家にではありませんでした。シオニストの皆さんには申し訳ありませんが、貴方と同様に「選ばれた」13のその他の人々がいて、つまり、リューベン族、シメオン族、レヴィ族、イサッカル族、ゼブルン族、ダン族、ジョセフ族、ベンジャミン族、ナファタリ族、ガド族、そしてアシェル族です。それに加えられなければならないのが、「半部族」または「義理の部族」と呼ばれるマナセ族とエフライム族です。

しかしながら、その話は此処で複雑化します。ジュダ家は結果的に、イスラエルの王国から外される様に、それ自体を辱め、現実において非フランチャイズ化し、イスラエルを品位ある様に保つために、申命記において提示された、主の戒律を無視する程にまで至り、そして故に、人が推定しなければならないのは、神との個人的な奇妙さのあらゆる位置において、それ自体を孤立化させたと言う事です。

イスラエルの胸の中からユダヤ人達が離脱する結果に成った、歴史的な出来事は、2,800年以上前に起こり、そしてその溝は決して埋まりませんでした。その状況は、おおよそ、以下に続くものです。紀元前796年にソロモンが死んだ時、彼の息子、リホボアムは、伝統に従って、即位の儀式のために、イスラエライト達に住まわれていた、国の中心にあるシェチェムに旅しました。南部における、より小さな領土に住んでいたけれどジュダ家は、デーヴィッドの「王家」の血筋を保ち、ベンジャミン族と共に、イスラエルの王達を提供していました。彼の即位のために、彼がシェチェンに向かい北へと旅した時、エフライムの地において彼はイスラエル家からの長老達に合い、彼等はジュダ家だけに利益的な増税と、肉体労働としての男達の徴収に不平を言いました。

リホボアムはこの生意気で無礼な行為に立腹し、そして直ぐに課税を2倍にし、そしてソロモンは鞭しか使わなかったけれど、蠍を使うぞと脅迫しました。新たな王の外交によって魅了されず、イスラエル人の長老達は、彼の即位式から退席し、彼等のテントに戻り、彼等自身の王、ジェロボアムを立てました。不幸なギャング・マスター(ヤクザ)アディラムが、南部での肉体労働のための徴収を鞭打つために、その新たな北部の王国に送り込まれましたが、それへの反応は彼を投石による死刑にする事でした。

彼等自身の兄弟達からの、この過度な徴税の恐喝の試みは、イスラエルの家族における決定的な割れ目の原因と成り、それを正に「分断された一家」にしました。それはそれ以来、そのままです。その日からジュダの王国は、イスラエルの王国から離縁させられました。故に、ジュダは、そのコピーブックを塗りつぶし、言うなれば、遺書からそれ自体を外したと言う、法律におけるとても上手い論議があります。それは、それ自体を不合格にし、それ自体を恥じで苦しめ、選ばれた民に約束されたかも知れないし、されなかったかも知れない好意、または親切から、それ自体を非フランチャイズ化しました。彼等はもう、その人々ではありません。彼等はジュダ人であり、イスラエル人ではありません。

イスラエルとジュダの間の別視と、ソロモンの死後の王国の分裂は、当時に始まるものでは無く、この分裂は遥かに以前から前兆があり、明らかだった事を示唆している、J. トマス博士の「神と私の生まれ持った権利」の中の追加的な観測と共に、私達はこの点を結ぶことが出来ます。人は、サムエルの書の、前に続く章を読むだけで、イスラエルとジュダの間の別視は、サウル王の時代からとてもはっきりとしていた事に気付きます。イスラエルと言う用語は、12の部族全体にとても明らかに応用される極少数の例を除いては、ジュダ族を除いた部族達に使われます。

約束された地 - 小規模ですが重要な観測。

イスラエルが一つにもたらされる、神に選ばれた場所があるのは、聖書の中にはっきりと明言されています。神は2サムエル7.10において重要な約束をします。「7:10 わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。」と彼は述べます。1年代記17.9もまた類似した事を言い「17:9 わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に虐げられることもない。」とします。

注目してもらいたいのは、この約束がされたのが王デーヴィッドに対してで、イスラエライト達が - その約束された地 - パレスチナにおいて既に確立されていて、そして当時、その王国が、その権力の絶頂期にあり、地中海からユーフラテス川まで実際に、既に拡張していた時だと言う事です。ですから主が「わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。」と言う時、定められた場所、または約束された地が、パレスチナである事は出来ません。それは彼等が立っている場所であるためです。それはその他の場所でなければならず、そしてそれはイスラエル全体のためのもので、ジュダ家だけのためのものではありません。

トマス博士の見解によると、「このデーヴィッドへの神の約束は、それらの用語、「イスラエル」と「ジュダ」が、とてもはっきりと異なった意味を持っていた時代に与えられたもので、それらの分裂させられた人々の長い歴史の間に、更に鮮明にされました、」とします。

フラヴィウス・ジョセファスの「ユダヤ人達の昔」の第1巻第6章の読書が鮮明に明かすのは、どれだけ多くのヨーロッパの国々が、それらの起源を10の部族から派生させているかと言う事です。賢明な読者達は、素晴らしいインターネットを使って、彼等自身で発見出来るでしょうが、私達の目的において十分に言えるのは、アングロ・サクソン・イスラエルの主張者達が始めから正しかった様に現れると言う事です。イスラエライト達の本体は今、ヨーロッパ中のキリスト教圏内全体に散らばっていて、主に英国諸島を中心としますが、北欧とゲルマン系の国々にも広まっています。アメリカ人の読者達においては、貴方はエフライム族(今はイングランド人)と共にジョセフ家を構成していたマナセ族を変装させている様に現れます。

ユダヤ人達は故に、詐欺師的な悪党で、偽りと恐喝の犯罪的な伝統を、何千年も続けてきた様に現れます。しかしながら、ある小さな問題が説明される必要があるかも知れません。最近の記述は、イスラエルの現在の住人達は、正当なユダヤ人達では無く、カザキスタンから来たアシュケナージであると言う、遺伝子的な証拠を主張しました。指摘されるべきは紀元7世紀において、イスラム教によって禁止されている行為、ユーザリー(金利)の犯罪のために、ペルシャ(イラン)とアナトリア(トルコ)から追い出された、「ユダヤ人達」と呼ばれる部族がカザキスタンに辿り着いた事です。それらの追放されたイカサマ師達は、カザールの王の前で彼等を王族として紹介し、カザールの「王」家へと政略結婚する事によって、この荒っぽい遊牧的な社会の王座(王ジョセフ)へと侵入しました。クリミアの東のこの新たな権力の土台からヨーロッパへと潜入し、そしてまたレヴァントを通って Dardanelles とトルコへと戻りました。ですから、結局の処、彼等の中にもユダヤの血が少しは入っていたのかも知れません。

私が退役軍人トゥデイのその他の場所で明言した様に、絶対的な真実は、もう一つの神話ですから、私に出来るのは手掛かりと示唆を指摘する事だけです。しかしながら、もし彼の家族の一部をその他の一部の上に選び、バーゲンへと不動産現物を約束する様な神がいたなら、彼は私のための選択肢ではありません。私はイエスと共にあり、「約束された地は内的なもの」派で、それは私達全員を、同じ生命の主要な供給に位置付けます。私達は一つ(同じ)であるのだから、自己虐待、または奪い取り、もしくは偽りは止めましょう。

ヘブライ人達の神聖な聖書は、今日の基準によれば、白人種優越主義の教科書です。有名な王デーヴィッドの行為は、殺人鬼的なチンピラの行いです。「割礼されていない」ピリシテ人/パレスチナ人達は酷く扱われています。その他のコーカサス人(白人)にとって、ユダヤ的な「反セム主義」の非難に対する一つの良い返答があります。ヨーロッパ全体、北米大陸とその正反対(南米)に広まった「キリスト教圏」の大部分は、10の部族の子孫である可能性が高く、そして私達は主に白人であるだけでは無く、ユダヤ人達と同様に、シェム、またはセム族の息子達です。理性が示すのは、非道な振る舞いの間-部族的な批評は、ただそれだけだと言う事で、卑劣な行いは私達、セム族に悪名を与えるだけです。民族は本質的に肌の色に基づいています。非道でユダヤ的な犯罪の、白人から白人への批評は、その他の白人の部族の全てにとばっちりを食らわせる危険のある行為を終わらせる試みです。それをヘイト・クライムだとか、人種差別だとか、テロ行為と呼ぶ事によって、貴方は封鎖する事は出来ません。テル・アヴィヴとビビ(ネテニアフ)及びその他、貴方達がその原因で、貴方達の両方ともばれていて、何らかのしっぺ返しを食らう処ですよ!

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