ガンの無い世界

World Without Cancer
The Story of Vitamin B17
癌の無い世界
ビタミン B17 のお話し
1 vitamin

G. Edward Griffin
G. エドワード・グリフィン著
https://www.amazon.com/World-without-Cancer-Story-Vitamin/dp/1943499039

4人に一人の米国人は生涯で癌を発症させます。この国では35万人以上の人々が毎年癌で亡くなっているのです。そして悲しい真実は、これは完全に予防可能であり、ひとつの単純な事実:強欲によるものなのです。

何百年もの間、英国船員は毎年壊血病で何千人も死亡していました。医師達はこの恐ろしい病に完全に困惑していました。彼らはこれがある種のウィルスかバクテリアによって引き起こされているのだと信じていました。英国海軍外科医のチームメイトであるジョン・リンドが1747年に柑橘類(レモン・オレンジ)で壊血病の影響を消すことができると見つけるまではです。しかし彼の提案はその後48年間実行されることはありませんでしがた、最終的にそれがこの病の惨劇を終わらせたのです。これは単にビタミンC不足以外の何物でもなかったのです。

1952年にエルンスト・T・クレブス・ジュニア博士が壊血病と同様に癌がビタミン、すなわち世界中で1200以上の食用植物から発見されるビタミンB-17の欠乏によって引き起こされた事を発見しました。残念ながら今日ではこれらの大半の植物はもはや一般的に使用されてはいません。それ故、今日癌の発生率が高いのです。ビタミンB17として知られている事は癌細胞の成長を妨げるだけではなく、それらの破壊もする特性のある要素なのです。

これらのB17は自然にさまざまな穀物や草等といった多くの食品に発生しますが最高濃度は特定の果物の種の中に発見されています。リストの一番上にあるのが杏(アプリコット)になります。杏種子の硬い殻の中に見つけられるカーネルにはこの化合物が豊富なのです。アーモンドの様に見えますがそのような味ではありません。自然の中ではかなり苦いとされるものです。

ヒマラヤでは、中国・パキスタンとインドの間にフンザ王国があります。そこに住む多くの人々はしばしば100歳以上長生きをします。これらの人々について最も素晴らしく独特な事とはかつて一度も癌事例の報告が無いという事なのです。今日の地球の発癌性物質の膨大な量を考慮すると、これは信じられない統計なのです。「ですが彼らは高い山に住み、現代の影響から遠く離れています。」とあなたは言うかもしれません。それは事実ですが、放射線(50年代からの地上での全ての原子力実験)やケムトレイル(今では20年以上になります。)や今日私達の大気中にあるその他の様々な汚染物質は考慮されていません。

これらの人々の食事には平均的な米国人のものよりも200倍の量のB17が含まれています。彼らの中で杏の木を所有する人物は最も裕福な人物であると考えられています。ひとつの非常に明らかな事実はこの地域で育った人が誰でもそこを離れて住んでいると、大量の杏のカーネルか、この化合物の高く豊富な他の食品をどこへ行こうが消費し続けない限り他の皆と同様に癌の影響を受けやすいのです。

エスキモー達もB17の高い食事を持ち、伝統的な食事を守る限り癌になりません。ホピ族やナバボ族インディアンにも同じ事が当てはまります。その他にもそういったグループがあるのです。そしてひとつ共通しているのが彼らは皆B17の豊富な食事を持っているという事なのです。

栄養膜細胞として知られている妊娠初期段階に存在する特定の種類の細胞があります。それは癌細胞の最も毒性のある形状とほぼ同じです。この細胞が他の種類の細胞と組み合わさった時にそれらはあらゆる臓器や人体の一部を形成することができるのです。

栄養膜細胞は身体の自然な防御(白色細胞)から白色細胞も持ち、それによって互いに反発し合っているマイナスの静電気帯電を含む蛋白質コーティングによって守られています。癌細胞もまた同様のコーティングを持ち、それ故私達の白色細胞はそれらを攻撃しないのです。栄養膜細胞は膵臓(すいぞう)が形成され、それらが不要になり、死滅し始める妊娠8週迄機能し続けます。

この様に(アミグダリンやレアトリルとして知られる)ビタミンB17は働くのです:それは3つの組み合わせです;2つの単位の糖、ベンズアルデヒドのひとつ、そしてシアン化合物で単一分子を形成します。シアン化合物はこれらの2つの要素と組み合わせた場合には、癌細胞の蛋白質コーティングと接触する迄は化学作用を起こさせないのです。実際にはシアン化合物とベンズアルデヒドは共にいずれも単独では毒性が100倍なのです。癌細胞のコーティング酵素はその後、致命的なそれら二つの毒素を解除して解放します。このプロセスを容易にする酵素は癌細胞にのみ発見され、私達の身体のどこにもありません。もうひとつの酵素は癌細胞が破壊された後にシアン化合物を無害な実際私達のシステムに有益な副産物に変換させるのです。自然は単に素晴らしいではありませんか。

政府が80年代半ばに市場からB17やレアトリル(B17の最も純粋な形状)を取り除いてしまった理由は簡単です:なぜなら有効だからです。これを自問自答してみて下さい:(私の表現では)自分達のブードゥー教魔術医師達が実際には癌細胞よりも健康な細胞を殺してしまう化学療法や放射線治療の様なもので治療するのに数千ドルを課す事ができる時に何故巨大製薬企業が癌を治療する(しかも安い)自然なものを一般人に知られたいのでしょうか。

私がこの記事を書く理由は2つあります。ひとつは人々を教育する為です。

そして二つ目は?なぜなら私はこの恐ろしい病で妹を33歳で、96年に母を亡くしたからです。そして二人共、彼らのブードゥー魔術医師達のいわゆる治療やそれら悪魔的下層階級の卑怯者達が知る全てに沿った治療が効きませんでした。全ては強欲の為なのです。新世界秩序の私の調査の中で早い段階でこの詐欺を発見した時に、これらの卑怯者エリート達の持つ汚れた全ての小さな秘密を調査し暴こうと決めた時でした。この治療法が効く事を知って下さい。

どうして個人的にこの治療法が効くのかあなたは私に尋ねたいかもしれませんね。十分公正に私自身も同じ質問を大胆な主張をする人にはします。

約1年半前に私の親友であるジョンが私に電話をしてきて、私がこの情報を得たGエドワード・グリフィンの「癌のない世界」(本もあります。)というDVDを見るよう頼んできました。彼はそれまでに僕が杏のカーネルを食べていたのを知っていたのです。彼はその時に脚の裏に銀ドル程のサイズのひつ癌のパッチがある事を教えてくれました。そして私がどこから杏のカーネルを買っているのか聞いてきたのです。

約2ヶ月間カーネルを食べた後に彼の癌は完全に消えていたのです。これは効きます。

これらの悪魔的新世界秩序エリート達が殺害しているんです。-そうです。殺害しているんです。-私の最も近しい最愛の家族をです。確かに銃を頭に当て自分達で引き金を引くかの様にです。ですから私はハンドルネームで情報をお知らせしているのです。彼らが私の家族にした事の後私はその情報を誰にでも少しでも主張するのがうってつけなのだと感じています。

彼らこそがこの僕を作ったんです。だからなのです・・・
http://ameblo.jp/hidy0701/entry-11333118045.html

G. Edward Griffin - A World Without Cancer - The Story Of Vitamin B17

ダインコープ・インターナショナル



1 statue of liberty shame1



DynCorp
親会社: Cerberus Capital Management
代表取締役: Steve Feinberg (スティーヴ・フェインバーグ/2016年の大統領選の際のドナルド・トランプの経済的な助言者。
DynCorp (ダインコープ)

Dying corps (ダイイング・コープス/死に逝く死体)を思い起こさせる語呂合わせ。

[引用]

・・・この記事は大変危険な情報のため今後、消すかもしれません。

公開で書くにはちょっとはばかれる内容です。

だいたいブログ記事は調節が非常に難しい。

書いて良いことと書いて悪いことの一線をわきまえないと東京湾にドザエモンで浮くことになります。

いつもワタスはセーブしつつ書いているのは分かる人なら分かるでしょう。

ガクガクガクガク

書こうかどうしようか。。

このダインコープシリーズは細心の注意を払って書くことにしましょう。

もし書き過ぎなら「玉ちゃん今回はちょっと書き過ぎだよ!」と明るくご警告下さい。

ごめーん。

と0.003秒で削除させて頂きます。

本当に宜しくお願いします。

さて、ダインコープと言えばそのルーツはどこにあるか御存じでしょうか。

これがまた何とも意外な。。。

そうウクライナ。

そう今、騒がしいあのウクライナです。

ダインコープについて書く前に、ダインコープと姉妹会社のブラックウォーターについて書きましょう。

ダインコープについて知らなくても、ブラックウォーターなら知ってるのではないでしょうか。

イラク戦争当時、悪名をはせた会社です。

ダインコープ社や、ブラックウォーター社は、民間軍事会社です。PMCと言います。

民間軍事会社(みんかんぐんじかいしゃ)とは、直接戦闘、要人警護や施設、車列などの警備、軍事教育、兵站などの軍事的サービスを行う企業であり、新しい形態の傭兵組織である。

PMC(private military company または private military contractor)

冷戦の終結により各国で軍縮が進む一方で、民族紛争やテロリズムが頻発した1980年代末期から1990年代にかけて誕生し、2000年代の対テロ戦争で急成長した。国家を顧客とし、人員を派遣、正規軍の業務を代行したり、支援したりする企業であることから、新手の軍需産業と定義されつつある。

要するに殺し屋会社。

ブラックウォーター社は、イラクの民間人を殺しまくって悪名が広がりましたね。

結局その後、その悪名が広まって営業できなくなり社名を一時ズィーに変更しましたが、またAcademi(アカデミ)という名前に変えて営業してる会社です・・・
http://golden-tamatama.com/blog-entry-1593.html

[引用]

・・・第二に、ブラックウォーターだけが腐った林檎なのではない。傭兵産業全体が腐っており、廃棄を要する。ダインコープやトリプル・キャノピー----ブラックウォーター撤退の空白を埋めるだろう傭兵企業二社----を考えてみよう。例えばダインコープの要員は、1999年、ボスニアでセックス関係の犯罪に関係しているとされたが、その犯罪には12歳の子供を含む女性と子供の人身売買が関与していた。これらの悪辣な犯罪を暴露するために名乗り出た内部告発者はすぐに解雇された・・・
http://teanotwar.seesaa.net/article/114587069.html



スピリット・クッキング
臓器密売ビジネス
ローラ・シルスビー/クリントン家
The Clinton-Silsby Trafficking Scandal And How The Media Attempted To Ignore/Cover It Up
クリントン-シルスビー(小児)密輸スキャンダル、そしてどの様に(主要)メディアが無視/隠蔽を試みたのか

ローラ・シルスビー=ローラ・ゲイリアー(Gayler)
ピザゲートスキャンダルはローマ帝国から続く地球皇帝気取りの馬鹿どもを磔にする

とても分かりやすいお金のお話し

『カレント』誌 平成14年1月号

政府貨幣と日銀券の本質的な違いに着目せよ!
                 
 丹羽春喜(大阪学院大学教授)



 政府貨幣は政府の負債にはならない(プロのエコノミストたちへ)

 実は、本稿で述べますことは、まことに初歩的なことにすぎませんが、意外にも、むしろプロのエコノミストたちのあいだで盲点になっていて、思い違いをしておられるかたがかなり多いようですので、明瞭に書いておくことにしたいと思います。


政府の財政収入を得る手段は三つ。(1)租税徴収、(2)国債発行、(3)通貨発行

 古来、常に指摘されてきましたように、そして、現在でも、経済学や財政学の教科書には必ず明記してありますように、政府の財政収入を得る手段は三つあります。すなわち、(1)税徴収、(2)国債発行、(3)通貨発行の三つです。現在のわが国においては、(1)の租税徴収も(2)の国債発行も、もはや限界に来ているわけですから、今日の深刻な財政・経済の危機を打開するための財源調達には、(3)の通貨発行という手段のなんらかのバリエーションを、下記のごとく工夫するべきだというのが、本誌でも繰り返し述べてきました私の政策提言の基本ビジョンです。


わが国の「通貨」は「政府貨幣」と「日銀券」

 ご承知のごとく、わが国の現行法の規定するところによれば、わが国の「通貨」は「政府貨幣」と「日銀券」より成っています。この「政府貨幣」には、金属で鋳造されたコインだけではなく、「政府が発行する紙幣」すなわち「政府紙幣」も含みます。また、政府発行の「記念貨幣(記念紙幣)」も「政府貨幣」です。


「政府貨幣」発行により財政収入を得られるが「日銀券」の発行ではそれを得られない

  さて、上記のごとく「通貨」を構成している「政府貨幣」と「日銀券」のうち、 「日銀券」の場合は、言うまでもなく、それをいくら発行しても、それ自体では、 政府の財政収入にはなりません。かりに、戦前の高橋是清蔵相のときのごとく、新規発行国債の日銀による直接引き受け(これは、現在でも、国会の特別決議があれば可能です)が行なわれたとしても、要するに、それは、政府が日銀からそれだけの額の借金をしたということにすぎませんから、政府が「造幣益」という財政収入を得たわけではありません。しかも、よく知られているように、「銀行券」であるところの「日銀券」の発行額は日銀の負債勘定に計上されるのですから、日銀にとっても、「日銀券」の発行ということそれ自体からは「造幣益」は得られません。


「日銀券」の発行に担保は不要だが多額発行すれば、日銀は債務超過に

  平成10年3月末まで施行されていた旧「日銀法」では、日銀が「日銀券」を発行するときには、担保と見なしうるような所定の金融資産的裏づけを必要とするものと規定されていました。しかし、平成10年4月より施行されている現行の「日銀法」 では、「日銀券」の発行には、とくに担保を必要とはしないという規定に改められています。しかし、日銀にとっては負債である「日銀券」がそのように資産的裏づけ無しに多額に発行されますと、日銀は債務超過に陥ってしまいます。日銀が債務超過になったからといっても、実際には、実体経済に関してはあまり不都合なことは生じないかもしれませんが、マスコミなどは大騒ぎをするでしょうし、金融政策が姑息なものとなり、その信頼度が低下することは、避けられないところでしょう。

「政府貨幣」発行には上限なく、担保いらず、またそれは負債とはならない

  ところが、「政府貨幣」(「政府紙幣」をも含み、また「記念貨幣」をも含む)になりますと、この点が全く異なります。すなわち、通貨に関する基本法である「通貨の単位および貨幣の発行に関する法律」(昭和62年、法律第42号)では、「貨幣」(すなわち「政府貨幣」)の製造および発行の権能が政府に属するという「政府の貨幣発行特権」(seigniorageセイニアーリッジ権限)がはっきりと明記(同法第4条)されており、その発行には、なんらの上限も設けられておらず、政府はそれを何千兆円でも発行することができ、担保も不要とされているのです。しかも、発行された「政府貨幣」(「政府紙幣」や「記念貨幣」をも含む)の額が政府の負債として計上されることもなく、その発行額は政府の正真正銘の財政収入になります。


「政府貨幣」の発行による「造幣益」は政府の収入に計上され、「日銀券」の発行は、日銀の負債勘定に計上される

つまり、「政府貨幣」の発行額(額面価額)から、その発行のための原料代や印刷費や人件費などのコストを差し引いた額は「造幣益」として国庫に入るわけです。このように、「造幣益」が発生し、それが政府の手に入るということこそが、「政府貨幣」が「日銀券」と根本的に違っている点です(大蔵省理財局・造幣局・印刷局スタッフの共同執筆で平成6年に大蔵省印刷局より公刊された『近代通貨ハンドブック--日本のお金--』、14頁参照。


 「政府貨幣」と「日銀券」の違いを銘記せよ

 この両者のあいだに、なぜ、これほどにも大きな特性の相違が生じるのかという理由は、「日銀券」のような「銀行券」というものの形式的性質が、その銀行が振り出した手形や小切手のようなものであるのに対して、「政府貨幣」が発行されるということは、その発行額ぶん、その国の社会が保有あるいは生産・供給しうる財貨・サービスに対する請求権を政府が持つということを、宣言していることにほかならないという点にあります(このことも、経済学の教科書的な著作類には、しばしば述べられています)。つまり、「政府貨幣」は社会の財貨・サービスに対する「請求権証」なのです。だからこそ、それは「負債」として扱われることにはならないわけです。この「諸財に対する請求権」を、必要とあれば、無限にそれを行使しうるという権能が「貨幣発行特権」として国(中央政府)に与えられているということは、まさに、国家の基本権の一つであり、危急存亡の事態に国が直面したような場合には、政府は、それを発動して危機乗り切りをはかることができるわけです。


「政府貨幣」発行による「造幣益」に対しては利息支払い、償還も不要

 もとより、そのような「政府貨幣」発行による「造幣益」に対しては、政府が利息を支払ったり償還をしたりする必要は全くありません。マクロ的に生産能力の余裕が十分にある現在のわが国のような状況のもとでは、これは、国民(現世代および将来世代)の負担にも、いっさい、なりません。要するに、現在のわが国にとっては、このような特質を持つ「国(政府)の貨幣発行特権」の大規模発動こそが、まさに「打ち出の小槌」なのです。


日銀は「政府貨幣発行権」を買い取ることによって超優良資産を計上できる

 しかも、現在のわが国でこの「打ち出の小槌」を用いようとする場合、現実的には、「政府貨幣」ないし「政府紙幣」を実際に巨額発行する必要は必ずしもありません。つまり、上記の「国(政府)の貨幣発行特権」は、いわば、政府が無限に多く500兆円ぶんといった一定額ぶんの「政府貨幣発行権」を政府が日銀に売れば、それでよいわけです。なにしろ、上述のごとく、現行法では、「日銀券」とは違って、「政府貨幣」は負債として扱われるものではないところの「諸財への請求権証」そのものですから、日銀にとっては、その発行権の取得は、超優良資産を入手しうるということにほかなりません。しかも、政府がその発行権の一定額ぶんを日銀に売るにさいして、ある程度の値引きをすることにすれば、日銀は、この「政府貨幣発行権」の所定額ぶんの取得によって日銀自身の資産内容を大幅に改善することができ、それを通じてわが国の金融を安泰・堅固なものにすることにも役立ちます。したがって、このようにして日銀が「政府貨幣発行権」の一定額ぶんを取得することは、現行の日本銀行法の第38条の適用として可能だと思われるわけです。


「救国の秘策」によって財政再建と高度成長を手に入れよう

 日銀からの政府に対するその代金の支払を、「日銀券」の現金で行なうといったことなどは不必要で、ただ単に、それだけの巨額の金額が記された日銀の保証小切手が政府の手に渡されれば、それでよいわけです。政府は、その保証小切手が手に入りしだい、それを財源として使用して、一挙に財政再建を達成することもできますし、また、それと同時に「右肩上がり」の高度成長軌道にわが国の経済を乗せるための大々的な内需拡大政策を実施することにも、直ちに取り掛かることができるようになるわけです。これこそが、私が提言し続けてきた「救国の秘策」なのです。


 「救国の秘策」によるインフレもハイパーインフレも起こらず

 いま、わが国の政策担当エコノミスト諸氏に、ぜひとも理解していただきたいことは、このような「打ち出の小槌」による「救国の秘策」は、その実施が非常に容易で、しかも、全く安全だということです。しかも、これを実施した場合の効果がきわめて大きく、しかも、即効的であるということも、100パーセント確実です。とは言え、おそらく現内閣のブレーン諸氏のあいだなどでは、そのように「打ち出の小槌」を活用するということを「禁じ手」のタブーだとして、それを実施してはならないと考えている人も多いと思います。しかしながら、これが「禁じ手」であると見なされねばならないのは、インフレ・ギャップが発生しやすいような状態にあるときだけです。ところが、現在のわが国の経済においては、正反対に、超膨大なデフレ・ギャップ(すなわち需要不足に起因する生産能力の余裕)が生じているのが現実の状態です(ただし、旧経済企画庁や現内閣府は、正しいコンセプトでのデフレ・ギャップの計測を怠り、その巨大発生という実情を秘匿してきました)。すなわち、インフレ・ギャップ発生の怖れは皆無なのです。したがって、この「打ち出の小槌」の活用を「禁じ手」のタブーだとするべき理由は、何もありません。


「救国の秘策」を実施すれば高度成長を迎え為替も安定する

 無根拠な先入観を捨てて虚心坦懐に考えていただきさえすれば、誰でも、すぐにお分かりのはずですが、この「打ち出の小槌」を用いるほかには、現在のわが国の財政・経済の深刻きわまる危機的状況を克服する方策は、国家政策としては何も見つからないというのが、忌憚のない現実なのです。
http://homepage2.nifty.com/niwaharuki/kalent-1.htm


政府通貨を発行したために、中央銀行の勢力に暗殺された、米国の大統領達

すばらしい新世界

1 士道 15-062

国家売国/解体の二大戦術=「革命型戦術」と「憑依型戦術」

賢者は国際的な秘密結社が使う戦術を二つに分類している。

革命型戦術」と「憑依型戦術」である。

フリーメイソン結社で言うと、フランス系が革命型戦術を使い、米英系が憑依型戦術を使う。(だが、必ずしも「左翼」「右翼」に対応している訳ではない。これは後述する)

革命型戦術とは、フランス革命に代表される正面切っての革命工作のことである。革命型戦術では、具体的には、①革命思想の普及②革命組織の構築③打倒対象とする体制や国の悪宣伝という手段を使う。

フランス革命の前には、ルソーの社会契約論や一般意思説、アダム・ヴァイスハウプトのイルミナティ思想が広まっていた。これらの影響が広がる事で、英国系と同じく元来神秘主義の傾向が強かったフランスのフリーメイソン組織が政治的傾向を強めていった。そこから多数の革命実行者を輩出していった(だが、フランス革命の背後には英国のシェルバーン伯爵などがいたと言われており、結局英仏メーソンは両建で同根だということが分かる)。

これらの思想の中で特に一般意思説はその後の独裁政治において悪用された思想である。一般意思説については以下のように書いた。

〇ルソー流の「一般意思」という思想は「民衆の意志の体現」を標榜する独裁支配を招きやすい、というのが歴史の教訓である。国家が巨大になる程、直接民主制は難しくなり、実際には「一般意思の体現者」を偽装する独裁集団の支配に帰する。スターリンも毛沢東もヒトラーも「一般意思」の体現者を演じた。

〇「生産手段の共有」を標榜する社会主義では、労働者大衆が生産手段を共有するという建前だが、現実には社会主義政府が所有する事になる。「労働者人民の一般意思を体現する人民政府」を標榜する独裁統治である。一般意思説は少数の野心家が民衆を扇動して権力を奪取する為の格好の思想的道具となった。

〇グランド・オリエント社(フランス)・イルミナティの系譜の政治勢力(所謂「左翼」)は、政治的正当性を調達するのに「民衆の意志を体現する」とするルソー流の一般意思説を使い、現実には、己の理性能力を過信しつつ「知的能力を保証された少数集団が統治をする」というエリート支配を行なう。社会主義国家がまさにそれであった。

エドマンド・バークの「フランス革命についての省察」における記述によると、フランス革命は主に「不遇の大貴族」「金融業者」「不満を持つ知識人」の三者の結合によって起こされたという事である。その中でも思想面を担当したと思われる不満を持つ知識人グループにより、啓蒙思想やそれが先鋭化した理性崇拝教、革命思想が広められたのであろう。

ここで言う理性崇拝教とは、人間の持つ理性能力を過信し、社会的制度を一から構築可能だとし、さらに「理性」を実体視することでキリスト教の「神」のように崇拝する思想(カルト)のことである。要するに「内在化されたキリスト教」ということである。内在化されたといっても、結局は実体としての理性を対象化して崇拝しているので結局はキリスト教の「神」を「理性」と言い換えただけの代物だと言える。

次に、革命組織の構築についてだが、これは上意下達(ヒエラルキー/縦型社会)の厳格な軍隊的組織である。アダム・ヴァイスハウプトが作ったイルミナティは、まさにそのような組織構成をしている。上級者の命令は絶対であり、下級者は厳格な規律の下命令に従わなければならない。ヴァイスハウプト自身が書いたイルミナティの案内書によると、イルミナティ結社員は直接の上司以外のメンバーのことは知らず、階級が上がるにつれ徐々に開示される情報が増えていくが、組織の全貌を知る者はトップのみとなっているようだ。規律と機密保持を厳格にする組織構成であることが分かる。このイルミナティ結社の組織構成の原型はイエズス会である。そもそもヴァイスハウプトは元々はイエズス会士であり、イルミナティの組織形態は厳格な軍隊的組織であるイエズス会に学んだものの様である。ある学者によると、フリーメイソンなどの西洋の秘密結社のあり方自体が中世のカトリック修道院の影響を受けているとのことである。メーソン組織の原型そのものがバチカンなのかもしれない。「カトリック」は「普遍」を意味する様に、カトリック教会も根本的にワンワールドを志向している。メーソンやイルミナティもこの方向性を踏襲し、多少プロットを変えただけのものだと言える。戦国期に我が国に侵襲してきた西洋勢力の先兵もイエズス会であった。

次は打倒対象とした体制や国の悪宣伝だが、これはフランス革命時にばら撒かれたさまざまなビラが残されている。かなり、下品下劣で卑俗な内容のものが多い。こういうものをばらまくことで王室の権威を貶め、民衆に体制への憎しみを植えつけたわけである。現代においては、テレビや映画などの映像メディア、インターネットを使った組織的な対象貶め工作(ネット工作員の「主要業務」と思われる)などが該当するだろう。

ネオコン勢力がある国に秘密工作を仕掛けたり、軍事侵攻して体制転覆を図る場合、その国の体制に対してメディアを動員した悪宣伝を大々的に行うのが常套手段である。

イラクのサダム・フセインも、リビアのカダフィ大佐も、そのやり方で「悪魔化」され、軍事侵攻を正当化していった。また目下進行中の欧米によるシリア侵略において、権力犯罪者集団はメディアを使ってシリアのアサド政権への悪宣伝工作を続けている(だが、ロシアによる暴露等を通じ、トルコとISの関係が広く知れ渡ったりして、真に受ける人は世界的にどんどん減少している)。

「革命型戦術」では以上のような主な手段を用いて、「革命」(という名の権力奪取)へと誘導していくのである。

次に革命型戦術と対になる「憑依型戦術」について述べる。

憑依型戦術とは、正面からある国なり、体制なりを打倒しようとする革命型戦術とは違い、対象となる国の内部に密かに浸透して、最終的に乗っ取る、という手口である。

これは単に対象国の政府や政治組織を乗っ取るということだけにとどまらず、対象国の言語、宗教や思想、習慣や風習を換骨奪胎して別のものに変貌させるという文化破壊工作をも意味する。東亜で言うと、中国は古来より易姓革命の土壌がある国柄なので、グランド・オリエント(フランス)系の革命型戦術である共産革命にやられてしまったが、我が国では「孟子を乗せた船は日本に着く前に沈む」と古来言われたほど「革命」に対して強く警戒してきた国柄である。蘇我、藤原、平氏、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川と政権は転変したが、どの政権も一部の例外を除き敢えて朝廷を打倒しようとはせず、朝廷から摂政・関白、太政大臣、征夷大将軍等の正式な官職を与えられて政権の正統性を確保する、という道を選んだ(足利義満は自ら天皇になろうとし、織田信長は朝廷を廃止し、自らが日本の王になろうとしたと言われている。また明治帝=大室寅之祐という「すり替え説」にしろ、表立っての「革命」が難しいという日本の歴史的土壌を反映した説と言える。)。

このような長い歴史を持つ日本は革命型戦術には非常に強靭な抵抗力を持っている。であるから大正時代から流入したマルクス主義も所詮は知識人のお遊びに止まった。

だが、日本は元々文化的に寛容なので、憑依型戦術にはかなり無防備な面があった(当初キリシタンすら受け入れようとした。これは先方が奴隷貿易やあからさまな神社仏閣破壊を仕掛けてきたので断固排除した)。

我が国は幕末維新期以降、主にこの憑依型戦術で侵攻を受けてきたのである。このあたりについて以下のように書いた。

〇百科全書学派などフランスの啓蒙主義者は儒学など中華思想に影響を受けたと言われている。確かに「怪力乱神を語らず」という儒学は、当時のキリスト教文化とは対照的な合理性を持っていた。加えて気になるのが、易姓革命思想の影響でグランド・オリエント社的革命思想が形成されたのか?である。中国大陸共産化は逆輸入?

〇只の思いつきの仮説→儒学の合理思想がキリスト教文化圏において変貌した姿が啓蒙主義、さらに一神教化したのが理性崇拝教であり、政治的に先鋭化したのが革命思想、その延長にある共産主義。「共産主義」=怪物化した儒学の合理思想が「逆輸入」という形で襲い掛かってきたのが大陸の共産革命だった。

〇そう言えば我が国では古来より「孟子を積んでくる船は日本に着く前に沈む」と言われていた。実際には孟子も輸入されたが、儒学を受け入れた我が国が易姓革命思想だけは警戒して受け入れなかった事を示している。論語と違って孟子の方ははっきりと易姓革命を肯定しているから危険な書とされた訳である。

〇易姓革命の伝統がある中国はグランド・オリエント社系の共産革命にやられたが、我が国では共産主義はインテリのお遊びに過ぎなかった。これは「易姓革命」の土壌のあるなしによると思う。日本はグランド・オリエント社系の革命戦術ではなく、英米系の憑依戦術つまり伝統を改変・改竄する事で文化を破壊し、乗っ取る戦術を仕掛けられた。

〇日本は正面から来るフランス・メーソン(グランド・オリエント社)系の「革命型戦術」には強靭な抵抗力を持つが、内側から侵食し、乗っ取りに来る英米国メーソン系の「憑依型戦術」には無防備な所がある。明治以後はこれで散々やられてきた。共産革命は防止したが、今やネオコン・偽愛国者・朝鮮カルト一味の天下ではないか。

〇「憑依型戦術」の実例。明治以後の歴代天皇陛下はガーター騎士団に入られ、宮中周辺はキリスト教徒だらけ、重臣・高官メーソン多し、皇室と伝統仏教のご関係断絶、キリシタン神学を密輸入の平田派の系譜を引く在野神道カルトの跋扈、仏教と耶蘇・神智学の混合、クェーカー教徒が初代宮内庁長官等々。

〇憑依型戦術は右派だけではなく、ソ連崩壊後は左派も「反戦平和」「環境」「人権」等の誰も反対できない人道的看板を掲げるやり方で使っている。今時マルクス革命を唱えても誰も真に受けないからだ。左翼過激派ですら偽装政治団体を作る。伝統とか人道を標榜する憑依型戦術を十二分に警戒すべきである。

日本で最初にキリシタン追放令を出されたのは朝廷である。正親町天皇の綸旨「大うすはらい(デウスはらい)」(永禄8年、西暦1565年)である。これは豊臣秀吉の伴天連追放令が出される20年以上前のことである。だからこそ、この段階で西洋勢力は日本をキリスト教化する為には朝廷に狙いを定める必要があると考えたのではないか。そのためであろうか、幕末維新期以後、朝廷に西洋のキリスト教勢力が侵入してくるのである。それに加えて、明治以後宮中に英国系勢力が浸透し、歴代天皇陛下はガーター騎士団に入団されてしまっている。これは日英同盟締結を機としたものだが、日英同盟締結の立役者がフリーメイソンに加入した外交官の林薫である。

※ウィキペディアの林薫の項に以下のような記述がある。
「明治34年(1901年)、ドイツ代理大使から日独英三国同盟の提案が行われ、これをきっかけにして日英間の交渉が始まった。林は本国の指示でイギリス外務大臣の第5代ランズダウン侯爵ヘンリー・ペティ=フィッツモーリスと交渉を重ね、明治35年(1902年)1月30日、ロンドンで第一次日英同盟を調印した。この功績で2月に子爵に昇叙された。また明治36年(1903年)5月、イギリスのエンパイア・ロッジ・ナンバー2108にてフリーメイソンに入会。翌37年(1904年)には同ロッジのマスター(総責任者)に就任。日本人初のロッジ・マスターとされる。」
なんと林薫はロッジのグランドマスターにまでなっていた。

※参考 戦前の国際秘密結社の研究家・愛宕北山氏は次のように記述している。
「フリイ・メイスン結社そのものは日本にはない。あつてもそれは外國人のみが出入するに過ぎない。日本政府とフリイ・メイスン結社との間の紳士協定によつて、日本人は國内に於ては入會し得ず、またその會合に出席し得ないことになつてゐるからである。しかしフリイ・メイスン結社の祖國である英國は、皇室を始め有力者の殆どすべてが結社員であるので、英國に駐在する帝國使臣は、儀禮的又は便宜的にそれに加入することがあり、日英同盟の立役者であつた林子爵の如きは、相當の高級結社員にまで昇給してゐたことは外國のフリイ・メイスン結社に關する書物にはしばしば記されてゐる。我々は、この外交上の習慣乃至傳統が現在どうなつてゐるかは知らないか、フリイ・メイスン結社に於ては、脱會後さへも結社の祕密を守ることを生命をかけて誓約するのであるから、この點に關しては可成りの注意を要するであらう。 」

さらに、バチカンの濱尾文郎枢機卿の兄・濱尾実東宮侍従(熱心なカトリック信徒)や東宮御教育係を務めた英国聖公会信徒の小泉信三、入江相政侍従長などなど宮中関係者にはキリスト教徒が非常に多い。これは「偶然」か?美智子様のご実家である正田家はカトリックの家柄である。正田家をカトリックに導いたのはフランス人のヨゼフ・フロジャックという神父である。フロジャック神父は宮中にも出入りして、なんと「御進講」まで申し上げていたようである。明治以後、伝統仏教と皇室のご関係が断ち切られる一方、キリスト教が侵入し、宮中に神父が出入りして、「御進講」申し上げるまでになっていたのである。また、皇族方のご進学先に何故か国際基督教大学が加わる。この大学はロックフェラー四世も留学していたロックフェラー系の大学だと聞いている。よりにもよって、キリスト教系の、しかもロックフェラーと関係が深い大学に何故皇族方が?と疑問に思う。

第二次大戦後、日本に進駐してきた連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは宮中のキリスト教化を策した。皇太子殿下の家庭教師にはクェーカー教徒のアメリカ人、エリザベス・ヴァイニング夫人が配置される。初代宮内庁長官にはクェーカー教徒の田島道治が就任した。田島は、中国事変を企画したと言われる太平洋問題調査会(IPR)の日本支部の理事長も務めたフリーメイソンでクェーカー教徒の新渡戸稲造の弟子である。また侍従長には田島と同門の三谷隆信が就任。戦後の宮内庁関係者には意図的にクェーカー教徒などクリスチャンが配置されているように思う。田島道治は宮内庁次長に同じくクリスチャンの宇佐美毅を据える。この宇佐美が二代目宮内庁長官になった。戦後の「宮中改革」を実行した宮内庁はクリスチャン人脈が運営したと言っても過言ではない。

ウィキペディアの「田島道治」の項には以下のような記述があった。
「新渡戸内村門下生の三谷隆信と、田島(宮内庁長官)三谷(侍従長、1965年(昭和40年)まで)の「宮中クリスチャンコンビ」として、戦後の宮中改革に尽力した。このコンビは、田島が宮内庁長官の後任にクリスチャンの宇佐美毅を指名し、「田島-三谷」から「宇佐美-三谷」にリレーされた。そして宮中の民主主義教育の促進や美智子皇太子妃の実現などの功績を残すことになった。」

キリスト教徒によって中枢を固められた宮内庁によって、戦後の「宮中改革」から、キリスト教徒の家柄からの皇太子妃選出に至るまで、「皇室キリスト教化」工作が行われた事が伺える。偶然ではありえない程の宮中周辺のキリスト教徒の人口密度である。日本全体でのキリスト教徒人口は1%に満たない。それを考えると宮中周辺のキリスト教徒の多さが尋常ではない事が分かるであろう。

このように、明治以後の国際秘密結社の対皇室・宮中征略の骨子は「皇室のキリスト教化」にあると見る。

そして、国際秘密結社の対日征略の究極目標こそが「皇室キリスト教化」だと見ている。

宮中をキリスト教化すれば、日本全体をキリスト教化する事も容易い、という狙いだろうか。

これが日本に仕掛けられた憑依型戦術の中枢であると分析する。

つまり、彼らが狙うのは、日本の完全なる変質とそれによる占領である。

2016年のエコノミスト誌の表紙には五重塔の上にスペインの征服者=コンキスタドールが描かれていたが、「日本征服を完了する」という国際秘密結社の意思表示ではないかと言われる。本当に由々しきことである。「破国際秘密結社」に待ったなしである!

また憑依型戦術は思想方面にも仕掛けられる。

それは「神」という概念を本来のアニミズム的なものから一神教の造物主=ゴッド的なものに改竄する(この影響で日本人は「神」と言えばキリスト教的なものを連想する様になった傾向あり)、「日本人の祖先は実は猶太人だった」という日猶同祖論の普及、キリシタン神学を密輸して神道をキリスト教化させた平田神道の神学の系譜を引く在野神道カルトの跋扈、仏教と、キリスト教や神智学との混合(仏耶一元論を唱えた神智学徒のゴルドン夫人。真言密教と景教は同じものだとして高野山に景教の碑を建てた)、日猶同祖論とともに景教渡来説、秦氏=景教徒説を広めた佐伯好郎(のちに日猶同祖論を唱えたのは北海道に猶太資本を呼び込む為だったと服部之総に告白)など数限りない憑依型思想工作がある。

つまり、日本の伝統思想を換骨奪胎しつつ西洋的なものに改変して、日本人を精神的に変質させて屈服させる思想工作である。

「愛国保守」政治勢力への憑依や利用も顕著である。

我が国の保守勢力は親米と反米に分けられる。

まず親米の方であるがこれは正確に言うと「従米」である。

グローバリストやネオコン、新自由主義者が保守層の支持を得て動員するために「愛国保守」を偽装するという手口を使って「保守」と名乗ったものである(米国で言うとトロツキー主義から転向したネオコンが「保守」を偽装してキリスト教原理主義者を手足として動員するのに似ている)。

今の政権与党として力を握っている安倍以下の清和会一味がそれである。これは以前述べた「統一協会系VS大本教系」という両建構造で言うともちろん前者である。

この勢力の本質については以下のように書いた。

〇自民党議員の失言から見る「日本が米国の51番目の州になれば、日本人の大統領が誕生するかもしれず、世界の中心で行動できる日本になる」との発想。愛国とNWO思想の奇妙なセット売りの行き着く所を分かりやすく表現した「失言」である。「日本の為に」という名目で日本消滅に誘導するのである。

〇この手の発想の極端に奇怪な形が酒井勝軍などが唱えた「世界天皇論」「天孫民族日本人と神選民族猶太人による神州天子国」などというオカルト思想である。NWO思想と合体したナショナリズムは「愛国」という名目で無国境化を推進し、国家を破壊する。愛国主義者を誘導してNWO推進の道具と化す。

〇NWO的ワンワールド的な要素を混入した「愛国思想」が危険なのは最終的に国家解体に誘導するからである。自分を熱心な愛国者だと思っている者達が熱心に無国境化を推進する。「日本が51番目の州になる事が(日本が消滅する事が)日本の為だ」なる倒錯した発想は非常に分かり易い形でそれを示した。

〇「失言」があからさまに示した「日本を米国の51番目の州にすることが日本のため」という清和会一味・従米保守の「論理」。似非保守の連中に感じる違和感の正体はまさにこれである。「日本の為にと言いつつ日本を破壊する」これこそが安倍一味以下のネオコン、朝鮮系「愛国保守」のエッセンスである。

正面から日本を破壊しようとする「反日左翼」より、「愛国」「日本の為に」という名目で日本破壊にまい進する「反日右翼」の方が厄介である。警戒色の「反日左翼」があからさまな反日行動を取る。「反日右翼」はそれを糾弾する姿勢で支持を集めつつ国家破壊に推進する、という毎度の両建的構図である。

〇清和会一味以下の従米保守のエッセンスを身も蓋も無い形で示した丸山発言を「黒人差別」発言としてのみ(もちろんこれも人道的に問題なのは確かである)追及している野党は自民党をある意味助けている。これほど自民党清和会朝鮮カルト売国一味の本質を表した迷言も無いのであるが。

〇従米派は「俺たちは日本をアメリカの51番目の州にしたいのだ。それこそが日本が世界の中心で活躍できる為に必要な事なのだ」と正直に言えばよい。妙に「保守派」とか「愛国者」を偽装するからややこしくなる。グローバリストである事をさらけ出して丸山議員のようにストレートに言えばよいのである。

〇丸山議員は妙に「愛国保守」ぶらずにストレートに本音を言っているだけ正直者である。安倍一味以下も、このくらい堂々と言えばよいのである。「愛国保守」を偽装せず、ストレートにやるべきだ。「反日左翼」が堂々と日本への敵意をむき出しにするように、「反日右翼」も堂々と本音をさらしたらよい。

〇グランド・オリエント社系の革命型戦術に対する英米メイソン系の憑依型戦術。本音では「日本をアメリカの51番目の州にしたい」のに「伝統を守る」だの「日本の心」だの、色々偽装、粉飾をやる。日本人は革命型戦術への抵抗力は強靭だが、この手の憑依型戦術に付け込まれてきた。だからこそ堂々ときやがれと言いたいのだ。

「従米保守勢力」について言いたいことは以上で大体尽きている。

要するに彼らは「反日左翼」と対になる「反日右翼」に過ぎないという事である。

「親米=従米」派と対になるのが反米派である。

反米保守は「真正保守」とも言われ、「本物の保守」とされている。

だがこの反米派にも問題がある。

「米国のグローバリズムに反対する反米派だったらいいではないか?」と思われれるかもしれないが、以前言及したように反米派にも憑依型戦術の魔の手が忍び寄っている。つまり、反米と見せて実は親欧州であり、米国系のグローバリズムと対になる、もう一つのNWO征略である欧州系の世界連邦運動を推進している場合が多いのである。「東アジア共同体」構想を掲げる鳩山由紀夫氏が代表例であろう。鳩山由紀夫氏の祖父である鳩山一郎も反米的ではあったが、同時に、フリーメイソンである欧州貴族のクーデン・ホーフ・カレルギー伯爵と繋がっており、カレルギーの「汎ヨーロッパ構想」(のちのEUに繋がる)の影響を受けて、その東亜版である「汎アジア」構想を持っていた。鳩山一郎はカレルギーの影響下にフリーメイソンに加入し、そのメーソン「友愛」思想は汎アジア構想とともに孫の由紀夫氏に引き継がれている(「由紀夫氏が誰かに似ている」とも言われるが取りあえず今はおいておく)。

戦後の親米右翼の巨頭である児玉誉志夫と対になる反米右翼の巨頭だった田中清玄はEU運動を推進したハプスブルク家のオットー大公と昵懇であり、鄧小平とも近く、鳩山一郎と同じように東亜連邦構想を持っていた。田中はオーストリア出身の経済学者フリードリヒ・フォン・ハイエクとも交流があり、ハイエクがノーベル経済学賞を受賞した時のパーティにただ一人の日本人として招待されている。またハイエクが作った結社である「モンペルラン協会」の会員である。そして、ロンドンのロイズ保険の会員でもある。このように反米右翼の巨頭・田中清玄は「反米」ではあるものの、何かと欧州の影がちらつくのである。

反米派と言えば、陰謀論界についても憑依型戦術が行なわれている。というより、陰謀論界はもっともコアな思想工作が行われている領域だと言える。

陰謀論界は大本教系人脈の影響力が非常に強いと思われる。

有名な陰謀論者の中で出口王仁三郎の影響を受けている者達が多いからだ(この代表例が故・船井幸雄氏だろう。船井氏は大本教系陰謀論界の重鎮だった)。大本教関連団体である世界紅卍会の会長を務め、世界連邦推進者であった堀川辰吉郎を持ち上げる論者もいる。堀川を「裏天皇」と持ち上げる一派もいる。陰謀論界の重鎮である中丸薫氏は堀川の娘を名乗っている。

プロ筋の陰謀論界では、何故か陰謀論が日猶同祖論、終末思想や救世主思想、オカルトなどとセットになっていたりする。 何故、「陰謀論」単体ではないのか?このため、NWO勢力を批判するという態で、いつの間にかNWOに誘導している、という場合が非常に多い。こういうのを「紐付き陰謀論」と呼んでいる。「国際秘密結社の思想工作の一環」という意味での「陰謀論」という意味である。

確かに彼らは正しい事、役に立つ情報も言う。しかし、正しい事の中に嘘やNWO思想を潜ませるのである。そして、彼らが一部正しい事を言うがために彼らを信じた人たちを、明後日の方向へ誘導していくのである。具体的に言うと、日猶同祖論や、国際秘密力側の思想である終末思想や救世主思想、カバラなどの西洋のオカルト思想を陰謀論とセットにすることで、陰謀追及者を逆にNWOに誘導するのである。陰謀論に様々な思想的仕掛けを施すことで、陰謀追及者を逆にNWO推進の為の援兵と為すわけである。陰謀追及者たるもの「陰謀論の目利き」(重要!)ができなければ、当初のNWO批判の意図に反して、NWO推進の片棒を担がされる羽目になる危険性があるのだ。しっかり注意して、騙され誘導される事が無いようにするべきである。

以上、従米派と反米派の双方を見てきたが、どちらもワンワールド勢力の影が見えるのである。

憑依型戦術の根深さを痛感する。

国際秘密結社はこのような様々な思想工作を仕掛けて、対象国の伝統的な思想や習慣を改竄して別のものに変えてしまったり、対象国の国民を精神的に屈服させたりすることで、侵略を遂行するのである。これは一見して危険だと分かる警戒色の革命型戦術と違い、一見は善意や無害に見えるので意識されない間に進行していき、気づいたときには精神的文化的に占領されてしまっている、という恐ろしい戦術である。十二分に警戒をするべきである。

以上のような国際秘密結社の二大戦術=革命型戦術と憑依型戦術について以前以下のようにまとまった文章を書いたので掲載する。

1)国際秘密結社が侵略戦争以外の方法である国家を攻略する場合、二つの方法があると思う。「革命型」と「憑依型」である。まず「革命型」であるが、これは標的とした国の内部に反体制分子を育成して、正面から国家を破壊する場合である。フランス革命や社会・共産主義革命がその典型である。

2)おそらく原型は、バチカン・イエズス会が行った、キリスト教宣教師を送り込み改宗者を増やして軍隊を組織し現地政府を転覆させる、というやり方であろう。これは戦国期に我が国も仕掛けられた。

3)アダム・ヴァイスハウプトはイエズス会の出身者で、イルミナティの組織構成はイエズス会の軍隊組織(創設者のイグナチウス・デ・ロヨラは元々軍人)を模したようなのでイルミナティやそれが浸透したグランド・オリエント(フランス・メイソン)社の革命戦術路線はイエズス会に原型があるように思う。

4)しかしこの「革命型」は標的になった国家が脆弱であるとか、多様な勢力に分散して相互に争っているとか、為政者の悪政によって民衆の不満が極度に鬱積しているとか、そういう諸条件が無い、もしくは作り出さないと成功しにくいであろう。

5)しかも革命理論の製造及びプロパガンダ、暴力を集約的に行使するための反体制分子の組織化等々、大きな手間がかかる。もともと正面から、ある一つの文化共同体の成員の思想を改変し国体(伝来の国家社会の形態)を破壊することは難しいことなのだ。

6)だからもう一つの「憑依型」戦術が出てくる。これは、現地国家に元からある伝統や文化に憑りついて別の物に変貌させる、という形で行われる。これは、革命のようにあからさまには行われず、徐々に進行されるため気付かれにくく、現地人からの警戒や反発を最小限に回避しつつ、

7)いつの間にか占領された状態が現出している、という恐るべきものである。歴史を観察すると日猶同祖論のように「お前達のルーツは我々だよ」と精神的に屈服させるやり方(○猶同祖論は世界各地にある)や伝統的思想を換骨奪胎して別のものに変えてしまうやり方などがあることがわかる。

8)特に後者についてであるが、文化を構成する主な因子は言語だと思うが、その言語で表されるさまざまな文化的概念を改変することで、現地の文化を別のものに変えてしまうわけである。「神」という表記、「カミ」という音声、が示す概念内容をキリスト教的な造物主概念で置き換えるようなことである。

9)文化はそれを構成する重要な要素である言語の概念内容が変われば変貌してしまう。自生的に生成してきた伝来の文化が外国勢力によって変改されることは、外国勢力による人為的な文化支配が完成することを意味する。

10)そして文化のあり方と密接不可分な思考言動の習慣が変えられ、それによって形成される国家社会の構造が変貌し、いつの間にかもとからあった独自の文化・国体は消滅している。

11)日本が中国やインドの文物・思想を移入しながら、独自性を失わなかったのは、もともと日中印の文化に汎神論の伝統という共通した大枠がありそれによってスムーズな文化移入が行われたからだと考えている。平田派のキリシタン神学密輸はその大枠そのものから逸脱した。がこれはまた別の話である

12)正面から向ってくる「革命型」の場合は、その国家や文化共同体がある程度安定していれば、防ぐことはたやすい。今やマルクス・レーニン主義者、左翼過激派の言い分をまともに受け取るのは少数派の中の少数派である。

13)だから左翼は偽装転向したり、エコロジーや人権運動、「歴史認識問題」の形を取らざるを得ないのである。(とり憑く対象が伝統ではないとはいえ、一般的に受け入れられているエコや人権擁護を利用するという点で「憑依型」と言える。人間の「良心」を利用するわけである。)

14)しかし、ステルス戦術で徐々に内部破壊を遂行する「憑依型」戦術は、伝統を重んじる心や愛国心すら利用するので、きわめて巧妙である。本来は伝統を護持し愛国心を持って国を守ろうと志すはずの保守愛国勢力は親米派と反米派に分かれつつ統一・大本というカルトの影響下に組み込まれている。

15)統一、大本というのは一神教がベースのカルトであり、日本の伝統思想とは絶対に相容れないはずなのに、一神教カルトのお先棒を担ぎつつ日本主義を呼号するという矛盾である。そして戦前から意図的に流布されたおかしな日猶同祖論が罷り通っている。保守層を標的にした一連の思想ギミックである。

16)保守陣営の一部には熱烈な親イスラエル一派がいる。渡部悌治先生の御著書によると日猶同祖論の資金源の一つが大本教だそうである。そのような工作の結果、共産中国に長年武器援助してきたイスラエルを翼賛しつつ反中国の主張をする、という両建マッチポンプが実際に起こっている。

17)このように、自分は愛国者のつもりでいるのに、いつの間にか国家を破壊することに手を貸していた、そんなことが起こるのである。左翼の国家破壊行動を批判するのは大事だが、伝統保守の側にも魔の手が浸食していることを自覚しないと危ない。

18)正面から来る「革命型」戦術は見えやすいので反左翼は多い。しかしステルスに遂行される「憑依型」戦術は見えにくい。だから偽装保守・カルト保守の批判はあまり多くないのが現状である。その結果が安倍極悪犯罪者仁風林ニセ内閣の横暴である。愛国心を利用した誘導の結果である。

19)己の意思を強制し人間や自然を操作する技術体系が魔術だと思うが、愛国心をも利用して国家を破壊する戦術というのはまさに魔術以外の何物でもない。かかる発想は西洋の底知れない闇の中枢からしか出てこない発想である。まさに悪知恵も極まれりである。

上にも書いたように、革命型戦術を使うのは左翼、憑依型戦術を使うのは右翼、とは限らない。今や左翼もこの憑依型戦術を使っている。今時、マルクス・レーニン主義を正面から掲げて革命を鼓吹しても、誰もまともに受け取らないからである。時々、過激派がテロ・ゲリラ事件で検挙される程度である。だからこそ、「反戦平和」「人権」「環境」等々の誰も反対できないような人道的な表看板を掲げるというやり方をしているのである。左翼過激派が表向き市民団体(「プロ市民」などと呼ばれる)として活動していることは広く知られている。うっかりデモ団体に参加すると過激派に「オルグ」されたなんてことがありうるのである。基本的にカルトがダミー団体を作るのと同じである。現在では左翼も大東社系の革命型戦術一本やりではどうにもならない訳である(だが、拳マークの横文字左翼人工芝一味はソロス財団の傘下にあるアヴァースと連携していたり、周辺の著名人の支持者が「フランス革命」を口にするなど、日本のウクライナ化も危惧され油断はならない)。

※逆に右翼が「革命型戦術」を使う場合もある。玄洋社・黒龍会などが辛亥革命に関与した事例がある。また背後に「右派」勢力の影が見え隠れする湯川陽菜氏はシリアの反政府軍に関与していた。湯川氏の背後関係はいまだに解明されず放置されたままである。背後者は湯川氏を使って何を企んでいたのか?右派であれば、伝統や愛国心に憑依する訳であるが、左派の場合はこれらの人道主義的な名目に憑依する訳である。前者が保守層向けの憑依型戦術であり、後者がリベラル層向けの憑依型戦術である。今や右も左も「憑依型戦術」、であり、全方位的に迫ってくる。

十二分に気を付けるべきである。
https://pw311.wordpress.com/2016/03/26/%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E5%A3%B2%E5%9B%BD%E8%A7%A3%E4%BD%93%E3%81%AE%E7%AD%96%E7%95%A5/

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洗脳からの開放

S.N. アルテハ
相対性理論の基礎に対する批判


本書のテーマは相対性理論の基礎についての体系的,批判的な分析である。批判の対象となるこの理論の新たな論理的矛盾に主な注意が払われる。論理的矛盾が存在すれば,いかなる理論も価値がゼロになってしまうからである。本書では相対性理論,またこの理論から導き出される帰結が抱える数多くの論争点と矛盾点が詳しく検討され,空間,時間,同時性の相対性といった特殊および一般相対性理論の基本概念が,論理的にも物理学的にも破綻していることが証明される。本書には相対性理論の出現と確立に関係する諸実験の解釈についての批判的分析が含まれている。さらに,本書では相対性理論の動力学概念に対する批判が詳しく提示され,この理論の中で「正常に機能しているかのように見える」部分――相対論的動力学――が矛盾しており,根拠を欠いていることが示される。

本書は大学生,大学院生,教師,科学技術者,そして物理学の基本問題について自立的に深く考えようとするすべての読者にとって興味深いものとなろう。

訳者:吉田正友 日本語訳公開:2014年3月

まえがき

親切で正直,聡明にして楽天的な
我が両親に本書を献げる

前世紀における技術分野の成果がきわめて目覚ましいものであったのにくらべ,科学分野の成果は(科学界の取り巻きが流布している宣伝文句とは逆に)それよりずっとささやかなものでしかなかったことを認めなければならない。それらの成果はいずれも,理論物理学者たちの「ブレイクスルー」というよりは,むしろ実験家や技術者,発明家たちの努力のおかげとみなすことができる。「後付けの説明」なるものの価値がどの程度のものかは,誰もが知っている。それだけではなく,理論家たちのそのような「ブレイクスルー」から生じた「損失」について,実態に即して評価を行なうことが望まれる。前世紀におけるもっとも重大な「損失」――それは,物理学全体の統一性と相互連関,すなわち,科学的世界観と物理学諸分野へのアプローチの統一性が失われたことである。現代物理学が「つぎはぎだらけの毛布」の様相を呈していることは明らかである。そして人々はこの毛布を使って,ばらばらに切り離された研究や互いに脈絡のない事実の堆積からなる,見通せぬほど巨大な山を覆い隠そうと試みている。十分に検証されたいくつかの基礎理論が現代物理学の基礎をなしているという,人為的に支持されている意見とは裏腹に,(個別の具体的現象のための)ad hocな仮説や,さらにはまた,問題の既に知られている答えを覗き見た学生さながら,計算結果を「必要な方向」に補正するという科学を装った行為が,あまりにもしばしば見受けられる。基礎理論が実際的応用において持つ予測力は,(「科学界の芸人」たちの主張とは異なりゼロに近い。これはとりわけ,特殊相対性理論に対して当てはまる。「特殊相対性理論の」実際に検証可能な結果は,この理論の創出以前に得られたもの,あるいはこの理論の着想を用いることなしに(往々にしてこの理論に対する反対者によって)得られたものであって,それより後に「収集家」たちの努力によってこの理論の成果に「組み込まれた」ものなのである。

相対性理論は現代物理学にがっちりと統合されているのだから,その土台をほじくり返すべきではない,そんなことをするより「建物の上階」を増築したほうがいい,この理論を批判しても「コブをつくる」[失敗して痛い目にあう]だけだ,と思われるかもしれない(相対性理論に対する批判を永久機関の発明になぞらえた,ソ連科学アカデミー最高幹部会の決定を思い出そう)。まともな学術雑誌は,今後10億年間検証することのできない仮説であれ,永久に検証不可能な仮説であれ,審査をいとわないものだ。ところが,相対性理論の根本にかかわる問題については,その審査をすべての学術雑誌が引き受けるわけではない,と言うにはほど遠いのが現状である。状況は,これとは逆でなければならないのではなかろうか。相対性理論の基礎は高等教育機関だけでなく,学校でも教えられているのだから,「若者の精神を堕落させない」ためには,どんなに小さな疑問が生じた場合にも,あらゆる問題が科学界によって真剣かつ詳細に検討されなければならない。

しかし,科学エリートの中には,少数だがきわめてアクティブ,かつきわめて地位の高い一群が存在し,これが奇妙にコード化されたやり方で振る舞っている。彼らは,「尻尾がピンクの黄色い象」(ビッグバン後に必ず残ったはずの月内部に存在する超重粒子,あるいはこれに類するもの)のことなら,保護者のように真面目な顔をして議論をすることができる。ところが,相対性理論についての議論の試みとなると,彼らは統一センターからの指令に従っているかのように,そしてまるで自分の体から下着をはぎ取られ,そこに何か「ほくろ」のようなものが見つけられてしまうのを恐れるかのように,アクティブに活動し始める。これはただ単に,彼らに対して「大至急敵を撃滅せよ」という命令が下り,それで彼らは,しばしば相手の論文を読みもせずに,相手の顔に泥を塗りたくっているにすぎないのかもしれない(幸い,筆者は今までのところこの難を逃れている)。いかなる批判であれ,たとえ不愉快きわまりない批判であっても,彼ら自身の理論を改善する力を持った何らかの合理的核心を含んでいる可能性があるにもかかわらず......。

相対性理論は,単なる理論としての役割(例えば電磁理論に応用される各種の計算方法のうちの一つのような役割)ではなく,第一原理としての役割,さらには他のあらゆる検証済みの原理や概念(時間,保存則,等々)を無効とする力を持つ,「至高原理」の役割さえを自らのものとして要求している。したがって,相対性理論はより入念な論理的,実験的検証を受ける用意がなければならない。本書で示されるように,この理論は論理的検証に耐えられない。

相対性理論は,それぞれの局所的要素には矛盾のない,いわゆる「不可能な構造体」(本書の表紙に描かれている「不可能な立方体」,等々)の実例をまざまざと示している。この理論は局所的な数学的誤りは含んでいない。しかし,我々が「記号 t は時間を意味する」と言うやいなや,ただちに構造体を延長することが可能となり,そして矛盾が現れる。空間の性質等々についても状況はこれと同様である。

この理論の元々の「パラドックス」はただ単に,相対論者たちによってあたかも真理であるかのように,ある種の「奇妙さ」に転化されたものであるにもかかわらず,長い間,我々は「パラドックスとともに生きる」という考え方を教え込まされてきた。しかし現実には,正常な人間なら誰でも,もしある理論の中に確実な論理的矛盾が存在する場合には,科学全体が依拠している論理とその個別的理論との間で選択を行なう必要があることを理解している。個別的理論のほうを選択できないことは明らかである。他ならぬこの理由により,本書は相対性理論の論理的矛盾についての検討から始まる。そこでは論理の問題に主な注意が払われる。

現実の現象を記述するあらゆる物理理論は,「イエス/ノー」タイプの原理に従って実験的に検証することができる。相対論者たちもまた,「実験的に検証不可能なものは,存在しないものである」というアプローチを形式的には支持している。相対性理論は低速度(例えば運動学の場合)においては古典物理学に移行しなければならず,その古典的結果は一義的である(観測系に依存しない)ことから,相対論者たちはしばしば,パラドックスを古典的結果と一致する唯一の結果に帰着させる方法で,自分の理論に矛盾が存在しないことを証明しようと試みている。これはそれ自体,相対性理論の運動学的効果を実験的に検出することが不可能であること,すなわち,その効果が実際には存在しないこと(つまり,導入された相対論的な値は補助的な性質のものであるという,ローレンツの元々の見解)を認めていることである。相対論者たちは数多くの論争点を実に様々なやり方で「説明」しようと試みている。すなわち,各人,「裸の王様」の衣装の存在しない細部を自分勝手に考え出すことを許されている。この事実もまた,この理論の非一義性を示す間接的徴候となっている。相対論者たちは,まったく相対論的でない分野の理論も含め,可能な限り多くの理論を相対性理論と整合させることによって自分の理論の意義を大きくしようと試みている。全世界に広がるこのような連携の「クモの巣」が持つ人為性は,一見して明らかである。

相対論者だけでなく,物理学には独自の法律があることを忘れた数学者もまた,相対性理論を(自分の活動領域として)擁護している。第1に,いくつかの最終結論の立証可能性は,その理論の真理性を証明しない(これは,フェルマーの定理が正しいという事実からは,350年の間に提出された「証明」が正しいという結論は導き出されない,あるいはまた,恒星や惑星の観測される運動からは,水晶球[プトレマイオスが導入した,惑星や恒星がその上に存在するという天球]が存在するという結論は導き出されないのと同様である)。第2に,数学においても,式で表すことが困難で,かつ解を求めることを難しくするような追加条件(例えば自然数解を見出せという条件)が存在する。物理学においては,このような事実は,例えば「値の物理的意味」という概念によって表現される。第3に,数学が任意の対象(実在するものであれ,実在しないものであれ)について研究することが可能であるのに対して,物理学が取り組んでいるのは,現実に測定可能な物理量の間における相互関係の探求のみである。もちろん,現実の物理量をいくつかの関数の組み合わせに分解したり,あるいは何らかの複雑な関数に代入したり,これらの組み合わせの意味を「でっち上げ」たりすることは可能である。しかし,それは学校の数学でやる代入の練習以上のものではなく,その練習は難しさの度合いにかかわりなく,物理学とは何の関係も持たない。

我々は,「科学界の芸人」たちの(自らの利益のためにだましたい,あるいはだまされたいという願望は彼らの良心にゆだねておいて,相対性理論のいくつかの疑問点について偏見のない分析を試みることとしよう。

相対性理論の誕生以来の期間をつうじて,そのパラドックスや相対論者の実験に対する批判を含んだ論文が幾度となく現れ,この理論を修正しようとしたり,エーテル理論を復活させようとしたりする試みがなされてきた。しかし,通常,その批判は個別的な性格を持ち,この理論の個々の側面にしか触れていなかった。ようやく前世紀の末になって批判の流れが著しく大きく広がり,その質も高まった(本書末尾の文献一覧には,これに関連する論文と書籍が掲げられている。その内容については,その題名自体が語っている)。

批判側の場合とは異なり,相対性理論の側には専門家による基礎的な擁護論[3,17,19,26,30,31,33~35,37~41]が存在することを認めなければならない。それゆえ,筆者が自らに課した主な目標は,他ならぬその優れた相対性理論擁護論に依拠しつつ,この理論に対する首尾一貫した体系的批判を与えるということであった。本書の本論部分は,一般に採用されている暗黙の慣行に従い,査読付きの国際学術雑誌( GLILEAN ELECTRODYNAMICS, SPACETIME & SUBSTANCE による審査を受け,これを通過した内容からなっている。その結果,論文[48~55]を嚆矢として,課せられた課題は徐々に達成されつつある。これらの論文においては,相対性理論の基礎をなしている諸実験,特殊および一般相対性理論の基礎的な運動学概念,相対論的動力学の動力学概念とその帰結が詳しく検討されている。批判的研究の流れ全体の中で,相対論的動力学に関する仕事はこれまでほとんど見受けられなかった。この事実が本書執筆の主な理由の一つとなった。

本書は,いくつかの発表論文を統一的な見地からまとめ直したものである。(しかも,読者にとって,論理の細部は自国語で読んだほうがより良く理解できるのが常である[著者の前掲論文はすべて英語で書かれている]。)我々は,「不条理な絵」の全体をできるだけ完全に見て取ることができるようにするため,相対性理論のそれぞれの疑問点を,可能な限り他の疑問点とは独立した形で検討するよう努力したい。しかし,本の分量をなるべく小さくするため,本書では,検討されている問題に関する記述の教科書からの引用はなされていない。したがって,相対性理論の基礎について,読者がある程度の知識を持っていることが想定されている。また本書では,この理論の一般的解釈だけでなく,可能な「相対論的代替案」もしばしば検討されている。これは,疑わしい解釈について別の相対論的選択肢を作り出し,相対性理論を修正しようという誘惑が誰かに生じるのを防ぐためである。「怪物」はとっくに死んでいるのだから,生き返らせようとするのは無意味だ――これが筆者の見解である。

首尾一貫した叙述の論理を選択することはきわめて困難であった。どの問題についても,その問題に付随する多様な論点すべてを本書の同じ箇所で一度に叙述してしまいたいという気持ちが生じたが,それはまったく無理なことである。読者に本書を最後まで読み通していただけるだけの十分な力と忍耐があれば,本書を読み進める途中で生まれてくる疑問や疑念は,順次解決されていくものと筆者は期待している。本書の構成は次のとおりである。第1章では時間と空間に関する相対論的概念,また相対論的運動学のその他多数の側面の描像が示される。第2章は一般相対性理論の基礎と相対論的宇宙論に対する批判をテーマとしている。第3章では相対性理論の実験的裏付けに対するコメントが与えられている。その際,我々は,電磁気学,またはエーテルに関する個別的仮説にしか関係を持たない実験については詳しく検討することはせず(これはそれ自体で一個の大きなテーマとなる),もっぱら,相対論の運動学と動力学の本質そのものにのみ関係する一般的な実験について分析を行なう。第4章は特殊相対性理論の動力学概念,また相対論的動力学の結果と解釈に対する批判を内容としている。各章の終りでは短い結論が与えられている。付論ではいくつかの個別的仮説が検討されている・・・

・・・

マイケルソン−モーリーの実験

周知のように,光は相異なる現象においてその姿を粒子として,また波動として現す(粒子と波動の二重性という言葉は,今検討している問題とは何の関係もない)。最初に,光の粒子性を仮定しよう。この場合には,マイケルソン−モーリーの干渉計モデルは互いに垂直な2本のアームの形で提示することができる。理想的な反射器が装置の中央に1つ,各アームの端部に1つずつ設置されている(図3.1)。互いに平行に速度v1(「世界の参照系」に対する速度)で運動している2つの粒子が,それ自体が速度V(前記と同一の系に対する速度)で運動しているこの装置に入ったとしよう。ただしv1> Vである。すると,装置に対する粒子の速度は点O1においてv1−Vとなる。粒子1は装置の中央で反射した後,それと同一の速度(装置に対する速度)v1−V(絶対値)で垂直方向に運動する。2つの粒子は各アームの端部から同時に反射する。また,両粒子は点Oにも点O1にも同時に到達する。速度v1およびVの如何にかかわらず,2つの相互に垂直な方向において,これら2つの粒子の速度にはいかなる差も認められないことになる。したがって,光を粒子の流れとみなした場合,マイケルソン−モーリーの実験(ケネディ−ソーンダイクの実験,トマーシェク[Tomachek]の実験,ボンチ=ブルエヴィチ[Bonch-Bruevich]およびモルチャノフ[Molchanov]の実験,等々)の結果は,いかなる肯定的結果も与えることはできなかった。

今度は光の波動性を仮定しよう。この場合には,光速度は媒質(エーテルまたは真空)の性質および/または伝播しつつある光自体の内的特性にしか依存し得ない。エーテルが存在するという仮説を採用した場合には,光速度はその媒質の性質に依存する(音とのアナロジーによる)。この場合,光速度が光源の運動速度と重ね合わさることができないことは明らかである(超音速機の轟音は媒質によって定まる一定の速度で伝播し,その結果,超音速機は音を追い越す)。さらに,光は物質と相互作用し(物質によって散乱または吸収される),エーテルとも相互作用する(エーテル中を伝播する)のだから,エーテルと物質の相互作用も観察されるはずである。ところが,マイケルソン−モーリーの実験の相対論的解釈においては,エーテルに対する光の固い「結合」,またエーテルと物体の相互作用の完全な非存在(地球や装置によるエーテルの引きずりは存在しない)という,あり得ないことが仮定されていた。当然のことながら,エーテルの部分的引きずり(なお,薄い境界層内における一連の局所的実験の場合,エーテルの引きずりは事実上完全な引きずりとなる可能性がある)が存在する場合には,理論は複雑化する。しかし,このことはけっしてエーテル仮説を覆すものではない(相対論者たちはと言えば,彼らは,ある小話にあるように,夜,暗がりで落とした鍵を街灯の明かりの下で探している酔っ払いのように行動することを提案している――見つけられる場所ではなくて,探すのが楽な場所で探せ,と)。我々は以下においてエーテル概念に簡単に触れるが,その際には,しばらくの間,真空中における場合の古典的相対性原理にのみ依拠することにしよう。特殊相対性理論のあらゆるパラドックスや本書の結果にとって,我々のところにあるのは真空なのか,それともエーテルなのかは重要でないからである。

光が波動であるとすると,光源の速度は周波数のみを変化させる。したがって,その周波数をωとしたとき,光速度c(ω)は光源の速度に依存しない。ここで念頭におかれているのは次のことである。すなわち,同じ周波数の光の波動は互いに同一であるということ,また,我々が周波数ωの光を知覚したとしても,その光が,光源によってその周波数そのもので放射されたものなのか,それとも周波数ω1で放射されたが,光源の運動によって周波数がω1→ω(ドップラー効果)に変化したものなのかは,まったく区別することができないということである。いずれの場合も測定される値c(ω)は同一となる。

さて,マイケルソン−モーリーの実験およびその類似実験に話題を戻そう。入射光,薄板を通過した光,および鏡からの反射光は同じ観測系内では同一の周波数を持つ。それゆえ,光速度c(ω)は2つの互いに垂直な方向について一定であり続け,これらの実験は何も検出することができなかった。2本の同じレーザー光線によるTausonの実験もまた,何も検出することができなかった。なぜなら,複数の光線を(同一方向の)単一のパターンに合流させると周波数は同一となり,規則的なうなりは観測されなくなるからである。このように,1つの固定周波数を用いた実験によって光速度の変化を検出する試みは,その本質そのものが誤っている。検出を試みることが可能な唯一の依存性はc(ω)依存性のみであって,それ以外のすべての依存性は間接的な形で,すなわちドップラー効果を通じて登場することしかできない。

方法論上の目的のために,教科書に含まれている一見真理のように見えるいくつかの誤りについて検討しよう。一部の研究者たちは「古典的な観点」に立ち,エーテルは不動であり引きずられることはないという仮説から出発しつつ,干渉計内における光線の走行時間の差を計算するために奇妙な模式図を描くのを常としている[35]。この模式図では反射の法則が働かない,つまり入射角が反射角と等しくない(図3.2)。これは実験と矛盾する。そうだとすれば,少なくとも,そのような偏差のメカニズムを説明し,実験に対するそのメカニズムの影響を決定する必要がある(古典的法則に従って光の速度と干渉計の鏡の速度との重ね合わせを仮定すれば,それを決定することは可能かもしれない)。また,同一の光線の干渉を可能とする角度をどうやって推定するのかも不明である。すべてのデータを記録するのは干渉計といっしょに運動している観測者だけなのだから,実際問題として,まさにその観測者の視点から実験を分析することが必要とされる[50]。

アインシュタインの方法にもとづく時間同期化は,実験のアイデアにさえ人為的な制約を持ちこむ。相対運動の可逆性(−v+v= 0)により,系の運動速度に対して光速度が依存性を持つようにするためには,奇数の効果しか存在することができない。ところが,光速度を(閉じた経路に沿った)互いに逆向きの2方向についての平均速度として決定しようと試みられている。その結果,系の運動速度に対する唯一の古典的線形依存性が互いに消去され合っている。このように,この種のアプローチは,そのアプローチ自体が,実験的に検証される必要があった光速度不変性の公準と,既にこっそりとすり替わっているのである。

マイケルソン−モーリーの実験およびその類似実験はガリレイの原理と矛盾しておらず,したがって上記において,この実験について真空空間の立場から詳しく検討したのであった。今度は,この実験の元々のアイデアをエーテル概念の観点から検討しよう。精度のオーダーが1桁の実験であれ2桁の実験であれ,その実験の正しさが実用精度で裏付けられる程度に,ほんの少しだけフレネルの随伴係数を修正することがいつでも可能であることを心にとめておこう。公平を期するため,次の点を指摘しておく必要がある。すなわち,マイケルソン−モーリーの実験およびその類似実験は,(計器の構造や理論に関する論争はあったものの)あり得る誤差を考慮に入れた上で,エーテル風の速度はゼロではないという結果を常に確信をもって与えていた[94, 95]。マリノフ[Marinov][90, 91]とシルバートゥース[Silvertooth][115]は残存放射に対する確実な速度を発見した。結果がゼロに近い値になったのは,計器を金属カバーで遮蔽した場合のみであった。エーテル理論を無条件に受け入れないまでも,現在,すべての計器が真空化されている(局所的に閉じた系にされている)事実を,客観性のために想起しよう。そこで,例えば,飛行機が超音速で運動している時でさえ,飛行機の客室内における局所的な音速は一定である(機外の風に依存しない)。エーテル的観点は得られた結果と矛盾しないことになる。すなわち,フレネルの引きずりは金属物体にとっては完全である(金属についてはヘルツの電気力学は確実に正しい),つまり,エーテルは金属カバー内部の計器に対して(局所的に)静止しているのだから,内部でエーテル風を探すのは無意味なのである。さらにもう1つの点が相対論者たちによって通常黙殺されている。金属製シールドが存在しない場合でさえ,そのような局所的に静止した要素による光の再放射を考慮することが必要となるためには,1枚の薄いガラス板(あるいは初期の諸実験においては空気)があれば十分である。その結果,実際に観測される速度は,エーテル概念においては地球の軌道運動速度よりも明らかに小さいものとならなければならなくなっている。したがって,マイケルソン−モーリーの実験は光速度不変性を支持する証拠となっておらず,いかなる古典的原理も覆してはいない・・・

http://www.antidogma.ru/japan/book_japan.pdf

特殊相対性理論

19世紀末頃において、マックスウェル方程式は当時観測可能な電磁気現象をほとんど説明したが、その理論の前提として電場と磁場はエーテルなる媒質を介して伝わるものであり、マックスウェル方程式はエーテルに対して静止したただひとつの慣性系(絶対座標系)から観測される電磁気現象のみを記述するとされた。素朴な疑問としてエーテルに対して運動している座標系から観測される電磁気現象の理論とマックスウェル方程式との関係が探られた。ヘルツ、フィッツジェラルド、ローレンツ、ポアンカレなどはいくつかの理論を提唱したが、例えばローレンツの理論では運動する物体が実際に収縮するとし、検証可能性を欠いていた。それらとはほぼ独立にアルベルト・アインシュタインは自身の論文において、特殊相対性原理と光速不変の原理を導入する事により運動座標系における電磁気現象を簡潔に静止座標系におけるマックスウェル方程式に帰着させる理論を提唱した。その理論が特殊相対性理論である。特殊相対性理論により絶対座標系(エーテルの存在)は否定され、その理論的帰結として磁場は電場の相対論効果であることが示唆された。

マイケルソン・モーリーの実験

19世紀初頭の物理学の光学理論においては、光の波動が伝播するための媒質として「エーテル」が存在すると考えられていた。だが、その肝心のエーテルの存在については、多くの理論的・実験的な試みにも関わらず、どのような証拠も見つけることができなかった。そのため、物理学者たちは、ある種のエーテルは存在しているにもかかわらず、どのような実験技術によっても探り出せないものだと信じるようになっていた。

ところが、静止したエーテル中の電磁気理論(1864年)を作り、光は電磁波であるという説(1871年)を立てたジェームズ・クラーク・マクスウェルは、ある時、自身の方程式の数式中に、直接的ではないものの、静止エーテル中の地球の運動が適当な光学上の実験で探知できることが示されていることに気づいた。

ただし、その方法とは、マクスウェルがワシントンの航海年鑑局に勤務していたデイヴィッド・ペック・トッドに宛てた手紙の中で

光速度を測定する地球上のあらゆる方法では、光は同じ道筋を通って帰ってくる。エーテルに対する地球の運動は、往復で、光速に対する地球の速度の比の二乗だけ変化するが、これは小さすぎて観測できない

と述べているように、光の速さ c に対する地球の軌道運動の速さ v の比 (β = v/c) の二乗、すなわち β2 で表される極めて小さい有限の量を測定するという非常に高い測定精度が必要なものであった。

一方、上記マクスウェルからの手紙を読む機会を得た、トッドの同僚でアメリカ海軍士官であったアルバート・マイケルソンは、そのマクスウェルの考えた測定実験に興味を抱いた。マイケルソンは光の干渉効果の利点を利用することでこの測定が可能なものであると考え、エドワード・モーリーの協力を得て高い精度でこれを観測することを可能にしたが、その結果は否定的なものであった。

サニャック効果

サニャック効果(サニャックこうか、Sagnac effect 又は Harress-Sagnac effect)とは、回転する観測者から見た現象には、時間のずれが移動経路(および移動方向)に依存して生じるという効果を指す。回転する観測者から見た現象は回転座標系を用いて記述されるが、この座標系は非慣性系であり、一般相対論により取り扱われる。

狭義では角速度を検出するリングレーザージャイロスコープや光ファイバジャイロスコープ等において光伝播速度が伝播方向に依存する効果・現象を指す。

この効果は回転座標系から(特殊相対論で扱うことのできる)慣性系に変換して考えれば説明が容易である(したがって一般相対論を敢えて知る必要は無いとも言える)。


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